S-129 「うん。決着をつけよう。……ファウラのこと」
【追憶:決闘大会7日前】バイレスリーヴ/黄金の潮風亭/二階特別席【視点:世界】
「――来たぞ。あれが、あやつの『妄執』の形だ」
騒がしい酒場の喧噪を切り裂くことなく、その声は空間そのものから滲み出した。
黄金の潮風亭の入口。そこに現れたのは、白砂よりも淡く透き通る肌と、あらゆる光を呑み込む、深海の底色をした蒼髪の女。二階の個室。影に沈むその場所から、二つの意識が彼女を見下ろしている。
「おぉ……。あれが……」
窓枠に手をかけた男の輪郭は、陽炎のように揺らめいている。
彼、エドワルド・ワードベック。
数日前までこの国を統べていた元首であり、今は凶刃に散った魂の残滓。
彼は知っている。息子が幼き頃より、誰にも理解されぬまま、「蒼」に祈りを捧げていたことを。自分と同じく、実在の証明さえなき虚構に縋っていたことを。
「親が親なら、子も子よ。『根拠なきモノ』を、ただ信じた愚か者共め」
エドワルドの対面に座る『それ』は、呆れたように、しかしどこか慈しむように闇を震わせた。
人の形をしているようでいて、視界の端で捉えようとすると輪郭が溶け出す、不定形の漆黒――エドワルドが信仰した『常闇』そのもの。
「だが、貴様は死してなお、こうして我に触れた。ゆえに……少しばかり、糸を引いてやったわ」
『それ』は、階下の蒼髪の女を顎でしゃくった。
「あやつが信仰した『蒼』もまた、貴様が信仰した我と同じ。本来なら交わるはずもなき運命だが…」
エドワルドの透き通る双眸が、驚愕に見開かれ、やがて涙で潤んだ。
自分の信仰が報われただけではない。自分が神に認められたその余波で、息子の孤独な信仰さえもが、今、現実となって息子の前に現れたのだ。
「有り難き⋯有り難い幸せ」
「クク、だが…これは取り返しがつかぬことかもしれぬぞ」
『それ』は愉快そうに嗤い、グラスの中の赤ワインを揺らすように、卓上の闇を揺らした。
(『蒼』は我と比較にならぬ貪食。その代償は国一つで足りるまい)
「さあ、観劇の時間だ。貴様に許された猶予は、砂時計の最後の一粒ほど。その魂が完全に闇へ溶ける前に――見届けるがいい」
『それ』の指先とおぼしき場所から、粘度のある黒い光が溢れ出し、エドワルドの希薄な身体を侵食し始める。
「貴様の愚息が『蒼』と出会い……狂信者として国を導く瞬間を」
エドワルドは深く頭を垂れた。その表情には、狂気が成就した法悦と、息子に最高の贈り物を残せたという、父としての安らかな愛が同居していた。
階下で、蒼髪の女がふと気配を感じ、二階席へと鋭い視線を向ける。
何者かに、この場所へと招かれたことを悟ったかのように。
だが、そこにはもう、誰もいない。
ただ、誰も座っていなかったはずの卓上に、空のグラスだけが冷たく置かれていた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/ウーガダール【視点:世界】
朽ち果てた地下神殿。その広大な床を覆い尽くす、鏡のように静まり返った黒い水面が、突如として盛り上がった。
轟音と共に水飛沫が弾け、地底の淀んだ空気が震える。
まるで深淵から這い出る巨大な海獣のように、漆黒の帆船がその威容を現した。
船体が海水を滴らせながら重々しく停泊すると、船室の扉が開き、一人の男が甲板に降り立つ。
オリアン・ワードベック。
潮風に乱れた髪をかき上げ、彼は安堵の息を一つ吐いた。
呼応するように、神殿の陸地側の水面が波立ち、ヴュールの姿をしたイルが音もなく姿を現した。
オリアンはタラップを駆け下り、イルのもとへ歩み寄る。
「イル、そしてルト。……有難うございました。今回の作戦の成功は、間違いなくお二人の助力のおかげです」
「えっへん!」
イルは濡れた身体を気にすることもなく、わざとらしいほど大袈裟に胸を張ってみせた。
「イルは船を運んだだけですけどね」
イルの身体から、呆れを含んだルトの声が響く。
「……ちょっと! この船を復活させたのも、主に私なんですけどー?」
「違います。僕とニーネッドの魔力制御、ビヴォールの整備があってこそです」
軽口を叩き合う二人を見ながら、オリアンは眩しいものを見るように目を細めた。
今回行われた、ザーラム属州『サフラヒル』へのハイブリッド戦争。
市場への投機攻撃、民衆心理の攪乱、反乱勢力の扇動、そしてレジスタンスによる総督府制圧。
国力で圧倒的に劣るバイレスリーヴが、兵士を一兵たりとも損なうことなく、敵国の重要拠点を陥落させたのだ。
その中心にいたのが、黒き監視団だった。
「コラン村で見せつけた、古代兵器《黒き帆船》による大規模合唱魔法……。あれを見れば、ザーラム本国も迂闊には動けないでしょう」
ルトが冷静に分析を続ける。
「ですが、敵が体勢を立て直す前に手を打つ必要があります。帝国への支援要請を継続し、アストンらによるサフラヒル臨時政府の樹立を急がせましょう」
「そうですね。イルのおかげで我が国の経済はかつてない速度で回転しています。ここからは本格的に戦力を投入し、息切れする前に勝負を決します」
オリアンの瞳に、以前のような迷いはなかった。
国家元首としての重圧を、覚悟へと変えた強い光がそこにはあった。
「ま、とりあえずさ。みんなが無事に戻ったらパーティーしたいね」
イルはいつの間にか人間の姿に戻り、髪についた水滴を払いながら、腰の革袋から葡萄酒を一口あおった。
オリアンと共にアジトへと続く薄暗い地下通路を歩き始める。その足取りは軽い。
「イル。そのセリフ、僕が読んできた物語の中では『禁句』に近いですよ」
「あれ? そうかも。じゃあ今やる? ルガルフしか戻ってきてないけど」
彼女の指には、以前ルガルフから渡された《フギオの指輪》が鈍く光っている。
「却下です。彼はイルみたいに暇じゃありません。それに、僕たちもゆっくりしている場合じゃない」
ルトの声色が、一段低くなった。
「人心を掌握する、歴史に残る名演説を練らねばなりませんから」
「そういう、人を騙したり揺さぶったりする小賢しいの……ルト、本当に好きだよね。幻妖魔法とか極めてるし」
「人聞きが悪い! 繊細な魔力操作が要求されるから、技術的に楽しいだけです」
「それ、完全にサイコパスの発想じゃん」
イルは心底引いたようなジト目を向けたが、ルトはどこ吹く風だ。
「オリアンには分かりますよね? この重要性が」
「ええ。ルトさんから教わった人心掌握術、大いに助かっています」
「……ほら。オリアンも毒されてる」
「で、もう草案はあるの?」
「当たり前です。折角救い出した青年団を有効活用し、民衆の涙腺を徹底的に攻めますよ」
サフラヒルで救出した「青年団」。
5年前、貧困支援のために渡り、ザーラムに拉致され強制労働させられていた彼らの帰還は、何よりも雄弁な「正義の御旗」となる。
それを「有効活用」と言い切るルトに、イルは呆れつつも感心していた。
「まさに外道だ」
「最高の褒め言葉です」
地下通路を抜け、円卓のある広間に到着すると、オリアンは足を止め、イルとルトに向き直った。
場の空気が、張り詰めたものに変わる。
「ただ、演説よりも先に……やらなければいけないことがあります」
オリアンの神妙な面持ちに、二人も頷いた。
その言葉が何を指しているのか、全員が理解している。
「うん。決着をつけよう。……ファウラのこと」
イルが静かに告げた。
「彼女が語った『血の間』から……例の『高貴な方』とやらを引きずり出してやりましょう」
ルトが邪悪な表情を浮かべて微笑んだ。
「決着がついたら、もう後には引けないよ。大丈夫?」
イルの問いかけに、オリアンは一瞬だけ複雑な影を見せたが、すぐに顔を上げた。
「はい。何もしなければこの国が消滅するだけですから。戦争の準備は整いつつある。イルが財政を最適化し、無駄を削ぎ落としてくれたおかげで、国は今、最速で走ることができています」
「私は計算しただけ。……君が本から得た知識で国を動かし、君を認めた優秀な人材がついてきたんだよ」
イルは優しく微笑み、オリアンの肩を軽く叩いた。
その手を通して、互いの覚悟が伝播する。
「……では。ファウラを呼び出しますね」




