S-124 「こんなまずいパン一つ買うのに、銀貨を払うバカがいるか」
ザーラム共和国/属州サフラヒル/都市圏【視点:世界(観測者)】
熱を持った陽の光が、乾燥した土の道を照らしている。サフラヒルの市場は、焦燥と金属の擦れるような苛立ちの音が支配していた。
一つの露店の前で、兵士とパン屋の老店主が揉めている。兵士の鎧は埃を被り、その表情には疲労と不満が色濃く滲んでいた。
「おい、ふざけるなよ!何で売らないんだ!俺はこの街を守る兵士様だぞ」
パン屋の老店主は萎びた黒パンを守るように抱え、青白い顔で拒否した。
「ですから、銅貨でしかお支払いいただけないのですよ。まぁ、銀貨1枚、お釣りなしでも良いですが……」
「バカ言うな!こんなまずいパン一つ買うのに、銀貨を払うバカがいるか」
兵士は激高し、腰に下げていた重い銭入れを露店の机に荒々しく叩きつけた。その甲高い金属音が市場に響き渡る。
彼が握らされている銀貨は、この属州の総督府が最近発行したものだ。金や銀の貴金属の含有量が露骨に減らされた悪貨であることを、聡い交易商たちは既に見抜いている。
結果として、この街の市場では、そのような信用の地に落ちた金貨や銀貨はもはや受け入れられず、商人らは価値の安定した銅貨でしか決済を受け付けなくなっていた。
さらに状況を悪化させているのは、バイレスリーヴの商業者ギルドの策謀により、数日前からその銅貨すら市場から枯渇してしまい、人々の日常的な物の売り買いが完全に滞っていることだ。
兵士は、自分が命を懸けて得た給与の多くが、今やこの黒パンの対価として支払わざる得ない理不尽さに、激しい怒りと虚無を感じていた。
「では、物々交換でどうでしょうか。旦那さんの腰に下げている、その剣などは」
パン屋の老店主は絞り出すように提案した。この剣は兵士の命と身分そのもの。それを要求することは、もはやこの悪貨には命一つの価値すらないと突きつけているのに等しかった。
「話にならねぇ!寄こせってんだよ!」
男は交渉を打ち切り、暴力へと移行した。その汚れた手が、老店主が必死に守っていた萎びた黒パンを、乱暴に奪い取る。店主は慌てて手を伸ばすが、兵士の力には敵わない。
「あっ!こら!泥棒!」
叫び声が上がった瞬間、ザーラム兵はパンを掴んだまま、市場の雑踏へと走り去ろうとする。周囲の人々は、一瞬ざわめいた後、すぐに目を逸らした。
総督府は、兵士への給料は支払っていると一点張りだが、価値が急落した金貨や銀貨を握らされた兵士たちは、総督府への不信感を募らせ、その士気は底をついていた。もはや、略奪まがいの行為は、このサフラヒルの市場では珍しくない日常の一コマと化している。腐敗した貨幣が生み出す飢えと無法の匂いが、市場全体を覆っている。
略奪を終えた兵士が、パンを脇に抱えて荒い息を吐きながら雑踏の中へと急ごうとしたその瞬間。
痩せこけた男が、人の流れと影の中を縫うように、一切の足音も立てずに背後から忍び寄った。男の体は飢餓により極度にやせ細っており、その動きは獲物に近づく肉食獣のように淀みなく、滑らかだ。
兵士の意識はパンと逃走に集中しており、背後に迫る男に気付くことはない。
男の手には、ウニヴェリアの神々を象徴する粗末な木製の首飾りが、白くなるほど固く握りしめられていた。信仰による狂信か、それとも絶望から来る憎悪か、その瞳は人間的な光を失い、獲物を貫く刃のような冷たさを持ってギラついていた。
「兵士殿……貴方は中央から派遣されてきたのか」
その声は、市場の喧騒の中でも耳元で囁かれたように静かでありながら、略奪と疲労で意識が散漫していた兵士の背筋を鋭く貫いた。しかし、兵士はその静かさの裏に潜む意思を読み取ることなく、単に面倒な問いかけとして処理した。
兵士は苛立ちを隠せず、パンを脇に挟んだまま、粗暴に身を翻した。その動作は、男をすぐに追い払おうとする傲慢さに満ちている。
「あぁ!?そうだよ、俺はこんなクソみたいな街に居たくないんだ……てめぇは何だ、文句あるのか」
痩せた男は、兵士の暴言に対し、何も感情を見せない。
「ということは…我が主神、ネプタリオンを火にかけた者の仲間か」
「はっ、神だぁ?飯も食えない神なんざ知るか!さっさと失せろ、クソ信者め!」
兵士が男の飢餓に歪んだ顔を軽蔑の眼差しで直視した、その一瞬がすべてだった。
音は驚くほど小さく、雑踏の一部に溶け込んでしまいそうなほどだった。男の握った短いナイフは、兵士が言葉を発している間に、僅かに開いた、鎧の胸部と肩当ての隙間を、計算し尽くされたような正確さで突き立てられていた。
兵士は驚愕に目を見開いたまま、胸の奥に広がる熱と激痛に、呻き声すら上げられない。男は容赦なくナイフを捻り、素早く引き抜く。
兵士はまるで巨大な糸を切られた人形のように、その場に崩れ落ちた。その手から滑り落ちた奪ったばかりの黒パンが、乾いた土の上に、鈍い音を立てて転がった。彼の目には、ただ茶色の空が映っていた。
兵士の体が乾いた土の上に崩れ落ち、鈍い音が響いた後、市場は一瞬の凍り付くような沈黙に包まれた。しかし、沈黙はすぐに張り裂けるような悲鳴に掻き消される。
「きゃあっ!」
悲鳴は恐怖と混乱を運ぶ波紋のように瞬時に広がり、人々が逃げ惑う中で、暗殺者の痩せた男は静かに勝利の言葉を吐いた。
「聖遺物の盗人にネプタリオンの裁きを……」
その時、市場の脇の露店で略奪を行っていた別のザーラム兵が、事態を察して剣を抜き、男に向かって駆け寄った。
「待て!この反逆者め!逃がすか!」
男はウニヴェリアの首飾りを固く握りしめると、一目散に裏通りへと逃走を図った。追う追加兵士は、倒れた仲間の血とパンを踏み越え、男との距離を詰める。
だが、その追跡路を遮ったのは、逃げ惑うはずの民衆だった。痩せた男が振り向きもせず走り去る瞬間、周囲にいた数人の市民が一斉に動いた。
彼らは、持っていた木製の箱や売り物の樽を投げつけ、追加兵士の足を止める。
「行かせろ!彼は我々市民の代弁者だ!」
「もう沢山だ!この略奪者どもに死を!」
兵士は市民の投擲物に躓き、よろめいた。その隙を逃さず、先ほどパンを奪われた店
主が、隠し持っていたパン切包丁をあとから来た兵士の背中へと突き立てた。
ドシュッ!
兵士は呻き声を上げる間もなく、地面に伏した。
この瞬間、市場の空気は決定的に変わった。最初は個の暗殺だったものが、瞬く間に兵士への公然とした反乱へと変貌した。
「皆殺せ!奴らに食料を渡すな!」
裏通りへ逃げようとした暗殺者の後ろを追うように、武器を持った民衆が集団となり、次々に付近のザーラム兵を襲撃し始めた。ザーラム兵もこれに応戦し、市場は瞬時に血と泥の戦場と化していった。
「始まったな」
その様子を、屋根の上から見ていたルガルフは、伝書鳩の脚にメッセージを仕込み、空に放った。




