S-122 「今日の君はつれねぇな」
バイレスリーヴ/衛士団の詰所【視点:世界(観測者)】
バイレスリーヴ衛士団の朝は早い。
まだ太陽が地平線を完全に離れていない薄明かりの時間、石造りの詰所には冷たい朝の空気と、革の匂い、そしてわずかに鉄の匂いが漂っていた。
「以上、昨日の治安情勢です」
当直勤務を終えた衛士団長が、低い声で報告を終えた。彼は、夜間の取り扱いを細かくまとめた分厚い書類を、詰所の一画にある衛士長官の作戦室と繋がった机の上に恭しく置いた。
「うむ……詳しくは読ませてもらおう。ご苦労だった」
衛士長官の椅子に座るのは、ディナリエルだ。朝の冷たい光を受けて、彼女の美しい銀の髪はわずかに青みがかった輝きを放ち、浅黒い肌と灰色がかった青い瞳がその美貌を際立たせている。背筋は常にピンと伸びており、その姿は厳格さの象徴だ。
ディナリエルは、オリアン暗殺の実行行為を知る数少ない人物だ。
衛士長官として表の顔を持つ彼女は、国家の中枢が空洞化したという致命的な事実を隠蔽し、平静を装いつつ日常通りの態度で振る舞っている。その胸の奥には、裏で国を支える重責が冷たくのしかかっていた。
報告のあった取り扱い事案の中で、ディナリエルの目に止まったのは、唯一目立った『小麦の高騰による抗議デモ』だ。
幸い、国が備蓄を切り崩して支給し対応しているため、不満の規模は小さく、尾を引く問題となるほどではない。
しかし、問題はデモの扇動者だ。衛士団の調べによれば、逮捕された扇動者の背後には、どこからともなく流れ込んだ不明な資金の流入が確認された。
ディナリエルの瞳が鋭くなる。つまり、未だにこの国の中に、ザーラムやレクイウムといった他国の息のかかった勢力が蠢いているということだ。
もはや、元を断つしかない。
「元首の館へ行ってくる。昼の鐘が鳴る前には戻る予定だ」
ディナリエルは立ち上がって作戦室を出た。彼女の長身が、朝日の斜めの光を背に受け、床に長く伸びる影は、蒼がかっていた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/国家元首の館
国家元首の館にある、ムスタの執務室は、朝の光が斜めに差し込んでいた。
そこは本来、元首オリアンが使っていた書籍に囲まれた部屋だが、ムスタはその貴重な文献には全く関心を示さない。
ムスタは、脚を組み、豪奢な机に足を乗せるという司祭らしからぬ姿勢で、書類の山を乱暴に捌いていた。その横には、いつものように給仕の装いをしたファウラが音もなく控えている。
「……ということだ」
ディナリエルは、一切の感情を交えず、昨日の治安情勢や資金流入の調査結果を口頭で簡潔に報告した。報告を終えた彼女の背筋は完璧に伸びたままだが、僅かに溜息にも似た微細な動きを見せた。
ムスタは、忙しそうに書類を捌きながら、顔も上げず、皮肉っぽく言い放つ。
「全く、いい街だな。平穏なもんじゃねぇか。俺以外は」
その言葉は、国の中枢にいながら仕事にやる気を示さない彼の、いつもの調子だった。
「君にとっては、こんなこと何でもないだろう」
ディナリエルが、報告を終え、次の行動に移るために腰の剣帯に触れ、姿勢を変えた、その一瞬だった。
彼女の硬い装束の懐の隠しから、一枚の紙切れが音もなく滑り落ち、床に舞いた。ディナリエルは微かに目を見開いたが、すぐに厳格な表情に戻す。
その紙切れが大理石の床に触れる直前、ファウラの細く、しかし素早く動いた指先がそれを掬い上げた。一切の音もなく、給仕としての完璧な所作だ。
ファウラはディナリエルに返却するため、紙切れを両手に持ったまま、一瞬だけ視線を落とした。その瞬間、彼女の瞳が微かに揺れた。
紙切れの表面には、ゼーデン帝国皇帝ソラスの紋章が記され、宛先には明確に『黒の監視団頭目ディナリエル宛』と記されていた。
ノエルの暗殺、そして自らが仕える血の間からの指令により、ディナリエルの内定調査を行っていたファウラは、この紙切れから、彼女がバイレスリーヴの暗部を支配する『黒の監視団』の最高責任者であるという決定的な情報を得てしまった。
ファウラは、心臓の鼓動が一瞬止まったかのような感覚を覚えたが、表情は全く崩さない。完璧な笑顔と所作で、紙切れをディナリエルに差し出した。
「衛士長官様。落ちましたよ」
「あぁ、すまない」
ディナリエルは何でもないことのように告げ、紙を受け取ると、ファウラの瞳をしっかりと見据え、装束の奥へと戻した。
「では、私はこれで」
彼女は、用は済んだというように、踵を返し、部屋を出ていく。
「今日の君はつれねぇな、普段はもう少しお喋りに付き合ってくれるのだが」
ムスタは小さな声で呟いた。




