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S-121 「行ってくる。母さん」

ゼーデン帝国/首都ゼア・ドゥーン/皇帝のドゥルタン・リ【視点:世界(観測者)】


 ゼーデン帝国の首都、ゼア・ドゥーン。

 その中枢に位置する皇帝のドゥルタン・リは、重厚な黒曜石で築かれ、まるで巨大な棺のように静まり返っていた。高い窓から差し込むわずかな光すら、この空間の威圧感を打ち消せない。


 意図的に装飾は排された、漆黒の黒曜石の巨大な塊が、そのまま玉座となった《覇者の玉座》。その座に、帝国の第69代皇帝、ソラス・マグ・ファランは堂々と腰掛けていた。


 ソラス帝の淡いブロンドの髪はわずかな湿気を帯びて後ろに流され、その琥珀色の瞳は、氷のように冷たい光を放っている。


 眼下で首を垂れて跪く二人の姿が、その瞳に歪んで映りこんでいた。


「長旅ご苦労であった。頭を上げよ」


 ソラスは厳かに口を開いた。その声は低く、広い空間に響き渡る。その二人、ディナリエルとノエルは静かに頭を上げた。


「私の求めに応じてくれたことに感謝する。加えて、その者、ディナリエル。そしてその者、ノエルと言ったか。良くぞ参った」


 ソラスは順番に、バイレスリーヴより参上した二人の顔を見ていく。ディナリエルの美しくも厳格な顔に、一瞬、ソラスの視線が長く留まった。


 その琥珀色の瞳は、普段の厳格かつ冷酷・非情な色を完全に失っていた。代わりに宿っていたのは、ノエルが想像していた『皇帝』の顔ではなく、静かで深い、慈愛に満ちた光だった。ノエルは一瞬、動揺して呼吸を忘れた。


「反逆者、ゲアラハの身柄も、確かに引き受けた。最後まで奴の裏切りを見抜けなかった私を笑うがよい」


 ソラスの複雑な表情は、僅かに曇った。長年の腹心への信頼を、未だに引きずっているようにも見えたが、その感情はすぐに厳格さの影に隠される。


「して、今宵は我が其方たちをもてなそう。それまでゆっくりと旅の疲れを癒すがよい」


 ソラスはそう告げ、漆黒の覇者の玉座を後にした。その背中からは、一切の揺るぎも感じられなかった。


「ふぅ……緊張した」


 彼は、つい気が抜けて、ぼそりと呟きが漏れた。よりによって、ディナリエルの前で、このような弱音を吐いてしまったのだ。


 ノエルはすぐに後悔したが、もう遅い。ディナリエルは人としての完璧さを求める人だ。こういう『気の緩み』は、絶対に許されないはずだった。

 ノエルは恐る恐る、ディナリエルを見上げた。


「御前晩餐で喉を詰まらせることはやめてほしいものだ」


 ディナリエルのその灰色がかった青い瞳は、幼少期に稀に見せた、僅かに優しい光を向けていた。


 その光は、諜報ギルドの幹部や衛士長という『ボス』としての立場から来るものではなく、彼を育てた『親』としてのものだった。ノエルはその一瞬の優しさに、心の緊張が解けるのを感じたが、その貴重な空気を遮断するかのように、近侍官の整然とした声がかかった。


「客間にご案内いたします」


 コツ……コツ……


 ノエルの隣を歩くディナリエルの硬い革靴の裏が、磨き上げられた大理石の床に打ち付けられ、静寂な城の廊下に冷たい音を響かせる。


 その足音は彼女の揺るぎない規律を体現しているかのようだった。


 ゼア・ドゥーンの城の中は非常に広く、石造りの壁は赤と黒、そしてわずかに金の刺繍が加わった分厚い布やタペストリーで覆われていた。必要最小限の装飾ながらも荘厳さが表現されており、如何にも『武』の力の上に成り立つ国といった様相だ。


 廊下に漂う空気は重く、一切の無駄が許されない厳格さが肌に刺さる。


「こちらが、ノエル様。奥がディナリエル様の居室です。ご要望がございましたら、扉の外にいる控えの者にお声がけください。ただ、お二人は公的には此処にいないはずの客人であるが故、外出の際はローブを被っていただくなどし、私共の他の城の者には素顔を晒さないよう、お願いいたします」


 近侍官は慇懃いんぎんでありながらも、必要最低限の言葉しか口にしない。余計な儀礼や所作は一切ない。


「バイレスリーヴでは、ゆっくりする時間がない分、私は晩餐まで部屋で休もうと思う」


 ディナリエルは彼を見ることなく、自分の居室の扉の前で立ち止まった。窓の外は陽が若干傾いた程度で、晩餐会にはまだ時間はたっぷりある。


(母さんにしては珍しい)


 ノエルは意外に思った。彼女なら情報収集のために、すぐに城の中や街へ繰り出してもおかしくない。


 しかし、それよりも、彼女には少しでも身体を休めてほしいと言う感情が勝っていた。


「ノエルは観光でもしてきたらどうだ」


 その言葉は提案ではなく、ほとんど『命令』に近かった。ノエルは彼女の真意を測りかねたが、その裏に自分を気遣う母の思いがあることを知っている。


「そうですね。見識を深めてきます」


 ノエルが反射的に敬語で答えると、ディナリエルは微かに口元を緩めた。その表情の変化は見逃してしまいそうなほど僅かだ。


「二人だけなんだ。畏まらなくても良い」


 ディナリエルの優しい言葉に、ノエルは一瞬たじろいだ。幼い頃からの習慣は簡単には抜けない。


「あ、そう……だった。うん。行ってくる。母さん」


 ノエルは恥ずかしさを誤魔化すように、すぐに踵を返し、ディナリエルの居室とは反対の廊下へと歩き出した。


 ■ ■ ■


ゼーデン帝国/首都ゼア・ドゥーン/客間


 湯気がまだ、空気の端に薄く漂っていた。

 扉が静かに閉じられると、外の世界はまるで消えたようだった。

 この城の客間は、武を誇る石の要塞の中にありながら、不思議な静寂を抱いている。

 外の喧騒も、金属の響きも、ここには届かない。


 ディナリエルは、裸足のまま床を歩いた。

 石の冷たさが、まだ熱を帯びた肌に心地よい。

 指先で濡れた銀髪をまとめ、ゆっくりと背へと流す。

 その動作ひとつひとつが、まるで舞の一節のように滑らかで自然だった。


 卓に置かれた布を取り、肩口から順に水を拭っていく。

 褐色の肌をなぞる布が、しっとりと音を立てた。

 彼女の動きに合わせ、空気がわずかに揺れる。

 香料も花もないのに、室内にはどこか甘やかな匂いが満ちていった。


 淡い青灰のガウンを羽織ると、光が布の上で静かに流れた。

 装飾はほとんどない。けれど、その簡素さがかえって彼女の艶を引き立てている。

 鏡台の前に立つと、そのぼやけた輪郭の中で、ディナリエルは筆をとった。淡い紅の粉を指に含ませ、頬へとすべらせる。

 光が、静かに彼女の髪を照らす。

 銀とも白ともつかぬその色が、指先で流れるたびに微かに光を返す。


 彼女は鏡の中の自分と目を合わせた。

 青灰の瞳が、静かな湖面のように揺れる。

 その深さの底に、影がひとつ沈んでいた。

 鏡台の前に佇んでいたディナリエルは、筆を置き、静かに息を吸い込む。

 布の擦れる微かな音とともに、そのまま、ゆっくりと振り返る。


 扉は開かれた気配もなかったのに、そこには男が立っていた。

 彼女のガウンとよく似た灰青の衣をまとい、背筋を伸ばしたまま、ただ静かに彼女を見つめている。


 その瞳には、命を下す者の冷徹な光が宿りながらも、どこか、彼女にしか見せぬわずかな温度があった。


 ディナリエルは何も言わなかった。


 ただ一歩、足を進める。


 男の唇がわずかに動いた。

 だが言葉は音にならず、ただ視線だけが交わされる。


 ディナリエルは、微かに笑った。

 昼の光がその唇の線をかすめ、瞬間、部屋が熱を帯びた。

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