S-118 「まさに錬金術じゃな」
ザーラム共和国/属州サフラヒル/総督府/法の間【視点:世界(観測者)】
総督府の《法の間》は、高い天井と分厚い石壁に囲まれ、昼間だというのに重々しい薄闇に沈んでいた。わずかに差し込む光が、磨き上げられた大理石の床を冷たく照らしている。
サフラヒルの法務官である老いたる彼は、豪奢な椅子に深く腰掛け、羊皮紙でできた、何通もの嘆願書に目を通していた。その手元のランプの油煙が、部屋にかすかな煤と焦げた油の匂いを漂わせている。
「税を上げすぎたのかの……地方の飢饉が行き過ぎておる……」
老法務官は細い声で唸りながら呟いた。その剥げ上がった頭に深く刻まれた皺が、彼の不機嫌を物語っている。
「はい。その影響も多少はあるかと」
財務官のワキールは、その部屋の隅のソファに優雅に腰かけ、紫煙をくゆらせていた。琥珀酒を思わせる、芳醇で強い葉巻の香りが、部屋の油煙を打ち消すように漂う。
「多少?他の要因は……なんじゃ」
法務官の苛立たしげな問いに、ワキールは静かに、吸いかけの葉巻を専用の皿に置き、立ち上がった。彼は、着衣の乱れを直すと同時に、その理由を説明する。
「東の穀倉地帯。バイレスリーヴの小麦価格が跳ね上がっており、西側にほとんど流れてきていません」
ワキールは、淡々と事実を述べる。彼の黒曜石の瞳は、冷静に老法務官の動揺を見極めている。
「今までの価値で買えるものといえば、古く、保存状態の悪い粗悪なものばかり。かといって、西側はイッススの暴動の影響で、未だに陸路は開通しておらず、海路もバイレスリーヴを襲った『ヴュール』の懸念から、きわめて本数が限られており……つまりは、西側の小麦も高いということです」
ワキールの分析は的確で冷徹だった。飢饉は単純な税の問題ではなく、政治的・軍事的な混乱が複合的に絡み合った結果なのだ。
「大麦でも食わせておけばよかろう」
法務官は、その複雑な状況を一蹴するかのように、鼻を鳴らした。彼の眼には、民の苦しみよりも自分の統治の都合しか映っていない。
「この国はまだ、属州となって5年程度。市民の中ですら、『大麦』は家畜や貧民が食べるものといった意識は根強く、兵士ならば尚更です。そもそも、彼らの胃袋を賄えるほどの収穫もありません」
ワキールは、表情一つ変えず、法務官の安直な思考を打ち消した。その言葉には、属州民の文化と現実の収穫量の両方を把握している財務官の確信が滲んでいた。
「では……税を引き下げろというのか!」
法務官は、自分の思い通りにいかないことに苛立ち、投げやりに質問した。
「それも一案です。もしくは、徴収した小麦を、パンに変えて、貧民に配給するのも手かと」
ワキールは、法務官が自らの懐を痛めるような直接的な施策を拒否することを前提として、形式的な提案をした。
「ううむ……」
案の定、法務官は唸りを上げ、財政に手を付けることへの否定を示唆した。
「では……この方法は、長期的にはあまり推奨されませんが」
ワキールは、一瞬、語ることを躊躇ったような仕草を見せた。それは、老法務官の好奇心を刺激するための芝居だ。
「なんだ、言え」
法務官は、ワキールの言葉に現状を打開できる抜け道があることを確信し、目を輝かせて促した。
「はい、サフラヒルに流通する貨幣の量を増やすのです」
ワキールは、その提案の持つ、危険な側面を示すかのように、わずかに眉間にしわを寄せた。
「ほぉ」
老法務官は、その言葉が意味する経済的な影響を理解したのか、目を細め、深い関心を示した。彼の頭の中では、新たな『搾取の仕組み』が構築され始めていた。
「税収として得た金貨や銀貨を溶解させ、そこに銅や鉛などの安価な金属を混ぜ込む。例えば、純金90%の金貨100枚を溶解し、銅を混ぜて、純金50%の金貨を鋳造した場合、元の貴金属量から180枚以上の金貨を作り出すことが可能になります。これにより、新たに80金貨がサフラヒルの利益となり、兵士への給料を増やし、税収を減らしても十分な収入が得られることになります」
ワキールは、一言一句を正確に伝えた。それは、古来から国家が財政難に陥った際に用いる、最終手段であり、最も安易な解決策だ。
「まさに錬金術じゃな。それしか無かろう」
法務官は、待ち望んだ答えだと言わんばかりに、満足げに頷いた。彼の中指に嵌められた琥珀色の魔石が、その興奮を反映するかのようにチカチカと輝いた。
「ただ……長期的には経済を悪化させる可能性もありますが」
ワキールは、成功に酔いしれる彼に冷たい水を差そうとしたが、その言葉はほとんど届かなかった。
「よい、すぐに取り掛かるのじゃ」
法務官は、ワキールの冷静な指摘を聞く耳持たず、脇に控えていた、総督府の書記官に鋭い指示を飛ばした。
それを聞いたワキールは、口を一文字に固め、再び、皿の上に置いていた葉巻にゆっくりと手を伸ばした。彼の黒い瞳の奥には、この属州の末路を予見する冷徹な諦めが宿っていた。




