S-114 「姉、痛い……」
ザーラム共和国/属州サフラヒル/街道沿いの村デスリア【視点:帝国第弐皇女ウィスカ】
青々と茂る草原で、太陽の光を浴びて輝くジーナ姉と、妹のティナが木剣を振り回して遊んでいる。
その光と歓声は、私にはあまりにも眩しすぎた。
私といえば、城の近くの湿った地面に尻もちをついていた。その手には、使い込まれた木剣が虚しく握られており、無様なほど土で汚れている。私は、決闘ごっこで姉の剣筋に一度も触れることさえできなかった。
後ろから、優雅な弦を弾くような声がする。
振り返ると、ジーナ姉と妹のティナが、弓術で息を飲むほどの精度を競い合っている。
私といえば、再び地面に尻もちをついていた。その手には、使い込まれた木の弓が握られており、親指の付け根の擦り傷から痛々しい血が滲んでいた。的にすら届かなかった、私の無力さの象徴だ。
遠い場所から、雷鳴のような歓声が響く。
目を凝らすと、成長したジーナ姉が、訓練場で巨人に見紛うような帝国兵と模擬戦を行っている。
格差があるにもかかわらず、ジーナ姉は相手の帝国兵の渾身の一撃をまるで舞を舞うように華麗にはじき返し、一瞬の隙をついて帝国兵の兜に木剣を叩き込んで打倒した。周囲で観戦していた帝国兵たちは、ジーナ姉の実力を認め、割れるような大きな歓声が上がる。私はと言えば、病的な咳をしながら、その様子を自分の部屋の閉ざされたベッドから、窓の隙間を通して眺めている。
上空から、風を切り裂く弓の飛ぶ音。
天井を見上げると、そこは青い空となっており、勢いよく弓が飛び去っていく。
弓が飛び去った先には、豆粒ほどの小さな的。「カツッ」と小さな音がしたかと思うと、その的の影から旗兵が出てきて、的を確認。ファラン家の紋章を掲げた。大きな歓声がした背後を振り向くと、そこには底抜けに明るい笑顔のティナと、大げさに膝をつくオルタ将軍の姿が。
その光景は、私とは完全に隔絶された場所のように感じられた。私はと言えば、誰にも気づかれず、草むらで横になり、一人ぼーっと流れゆく雲を眺め、自分自身の無為を考えていた。
そんな私を覗き込む影。その人物の顔は逆光で見えにくいが、ゲアラハ将軍、その人だった。彼は優しい笑顔で、私の手を握って、身体を引き上げる。その温かさが、私を闇の深部へと誘うように感じられた。
次の瞬間、私は身の丈に合わない黒いローブを纏い、石壁が迫る地下室のような暗がりを、獲物を探すように這いまわっていた。通路の分かれ道で、ランタンの光りが、石壁に不気味な人影を映し出す。
誰かが誰かの首元を、背後からナイフで一気に切り裂いている。首元を切り裂かれた人影が、鮮血を噴き出しながら、倒れる姿が石壁に映し出される。私はゲアラハ将軍に仕込まれた「足音を消す」歩行術で、通路の角へとそっと近づき、恐る恐る、石壁に映し出された人物を覗き込んだ。
その人物は、黒いローブを纏っていた。それは、私のほうへを振りむくと、ぞっとするほど馴染んだ仕草でローブを脱ぎ捨てる。ローブに隠されていた人物は、怪しく目を光らせ、酷く汚れた裸体をさらけ出す私自身に他ならなかった。
「私?」
後ずさりすると、そこには、あったはずの床は無く、底の見えない奈落が存在していた。私は、足を踏み外し、なすすべもなく奈落へと落ちていく。もう駄目だと死を覚悟したその時、堕ち逝く私の手を誰かが掴み、潰れるほどに強く握った気がした。
目を覚ますと、そこは古い木材の匂い、そして微かに懐かしい香りが混じり合う薄暗い部屋だった。その香りは、昔、姉と二人で密かに飲んだ薬草茶のような、私の故郷を思い起こさせるような安らぎの匂いだった。
私は、自分があの地獄、ザーラムの拷問室から遠く離れた、何処かのベッドの上にいることに気づき、深い安堵の息を漏らした。
重たい身体は、まるで鉛が詰められているかのように全身が軋んだ。動かそうとするたびに鋭い痛みが走るが、生かされているという確かな実感が、私の心を静かに満たした。
(そうだ……ワキールに逃がされて……)
記憶は途切れ途切れだ。御者と、宮廷魔術師のウィクトリアと共に、巨大海門へと向かっていたはずだ。その道中、極度の疲弊で意識を手放してしまったらしい。
小鳥のさえずりが、締め切られた小さな窓の隙間から差し込む細い日の光とともに、静かな部屋に優しく響いた。その静寂は、私の過去の凄惨な体験とはあまりにもかけ離れていた。
私は、そのぼんやりと明るい部屋の中で、自分の右手を誰かがそっと握りしめていることに気づいた。細いのにゴツゴツした、豆だらけの手。そこから伝わる懐かしい温もりは、私の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく不思議な魔力を持っていた。
私は、軋む首をゆっくりと動かし、ベッドにもたれかかって眠っているその人物の後頭部に目をやった。
美しく流れるような銀色の髪。見慣れた横顔を一瞬見ただけで、私は胸が詰まるほどの衝撃と安堵を覚えた。
「じ、ジーナ姉?」
私のか細い声に、うつ伏せになっていたその人物がピクリと反応した。
「ん……しまっ!」
ジーナ姉は、眠気のせいか少し霞んだ目で慌てて起き上がり、状況を理解しようと辺りを見渡した。そして、私と青がかった灰色の瞳が合ったその瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。
「バカウィスカ!」
ジーナ姉は、安堵と激しい怒り、そして深い悲しみが爆発したような声を上げ、私の重たい身体を力いっぱい抱きしめた。
「姉、痛い……」
私は、骨がきしむほどの幸せな痛みに、思わず微笑んだ。




