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S-113 「彼女なりに必死だったのかもしれないな」

ザーラム共和国/属州サフラヒル/街道沿いの村デスリア【視点:宮廷魔術師ウィクトリア】


 軋む古い木の階段を上がり、私は手にした水の入った革袋と桶、そして清潔な布を持って、宿の二階の小さな客室へと足を踏み入れた。


 部屋は古い木材の匂いと、熱に浮かされた娼婦の微かな汗の匂いが混ざり合っていた。窓は固く閉じられ、隅に置かれた一基の油ランプだけが、黄色く不安定な光を投げかけている。


 目の前の簡素なベッドには、青白い顔をした娼婦の彼女が横たわっている。


 銀髪の美女、娼婦のことを「妹だ」と告げたその女性は、まるでその命が自分の全てであるかのように、ベッドの脇に跪いていた。彼女は細い指先で丸薬を丁寧にすり潰し、水を一滴ずつ加えながら、震える手で妹の口元へと運んでいた。その青がかった灰色の瞳には、先ほどの激しい感情の痕跡がまだ焼き付いている。

 その傍らには、長身の青年が静かに立ち尽くし、黄色い瞳を窓の外の暗闇に向けながらも、その気配だけは娼婦から寸時も離さないでいた。


 わずかな布擦れの音に気づいたのか、銀髪の美女がゆっくりと顔を上げた。彼女の視線が、初めて私の姿を捉える。


 彼女の声はかすれていたが、その中には深い悲しみと、私への切実な感謝の念が宿っていた。


「……貴女が、妹を助けてくれたのか」


 私は、自身がザーラムの捕虜であることや、娼婦と共に逃げてきたという複雑な事情を説明することを躊躇し、無言のまま長身の青年へ視線だけを向けた。

 青年は、私の心の動きと隠したい意図を一瞬で察したようだ。彼は無言で頷き、音を立てないようにローブのフードを静かに被り直した。


「席を外そう」


 彼はそう短く告げると、軋む床板を注意深く避けながら、部屋から出て行った。


 長身の青年が部屋から去ったことを確認し、私はすぐに娼婦の彼女の額に新しい水嚢を当て直した。冷たい水が、彼女の肌の熱をわずかでも奪うことを願って。

 その静かな時間の中で、私は銀髪の美女に、自分がかつてザーラムの捕虜であったこと、彼女の妹が宮廷で何をしていて、何をされ、そしてどのようにしてここまで共に逃げ延びたのかを、全て打ち明けた。


 銀髪の美女は、呻き声一つ上げず、ただ青い瞳を潤ませたまま私の言葉に耳を傾けた。そして、私からの説明が終わると、今度は彼女が重い口を開いた。


 私が今相対しているのが、帝国皇帝の第弌皇女であること、そしてベッドに横たわる娼婦の正体が、ウィスカという極秘裏に諜報工作を担っていた第弐皇女であることを知らされたのだ。


 彼女は、妹であるウィスカ救出のため、バイレスリーヴの諜報組織《黒の監視団》の力を借り、バイレスリーヴに滞在していた《ディーミディウム興行団》の一員を装ってザーラムまでやってきたのだという。


「この恩……永遠に私の中に刻もう。本当に……ありがとう」


 銀髪の美女、ジーナ皇女は、そう言うと私の手を掴み、その頭を深く垂れた。


「そんな……恐れ多すぎます。どうかお顔をあげてください」


 私は、瞬時に全身の血の気が引くのを感じた。幼いころ父に聞かされ知っていた帝国社会のこと。彼女たちの身分は、私のような一般人が決して近づくことすら許されない存在だった。その事実が、私の胸を激しい畏怖で締め付けた。


 しかし、同時に、ウィスカ皇女というそんな高貴な存在であるはずの妹が、諜報工作とはいえあのような場所に身を置いていたことに、帝国の底知れない恐ろしさを垣間見た気がした。


 私は、ウィスカ皇女の顔色が少しだけ和らいでいることに気づき、安堵の息を漏らす。


「ジーナ皇女様、この丸薬はよく効くようですね。もう熱が少し引いてきています」


 ジーナ皇女は、丸薬の残り香を鼻腔に吸い込みながら、静かに答えた。


「父から譲り受けたものだ。バイレスリーヴから取り寄せたものらしいが」


「そうだったのですね。薬学に精通したバイレスリーヴの優秀な医学者が一人思い当たります」


「そうか。今度、その者に直接礼を言わなければいけないな」


 ジーナ皇女は、そう言って静かに頷いた。そして、私の代わりにウィスカ皇女の額の汗を清潔な布でふき取り、再び水嚢を丁寧にあてがうと、まるで過去を遠く見つめるように、薄い唇を開いた。


「ウィスカは…基本的には、借りてきた猫のように大人しいのだが、その内側は誰にも読めなかった。会話の途中で脈絡もなく別の世界へ飛んだり、気づけば鳥を追って崖から落ちかけていたり……。どうでもいい時だけ、恐ろしいほどの行動力を発揮する。……本当に、目が離せない妹だった」


 ジーナ皇女は、深くため息をつき、悲痛な面持ちで続けた。


「だから、妹が、なんでこのような場所にいるのか、その真意は私にも全く意味がわからない。恐らくそれは、誰にも理解できないだろう。だけど、彼女なりに必死だったのかもしれないな」


 その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。そう、必死だった。私が傷と汚れを癒してきたウィスカ皇女は、間違いなく必死だった。他の娼婦からは決して感じられない、金でも薬物でもない、非自愛の、純粋な原動力。


 私にはそれが何なのか分からなかったが、ジーナ皇女から彼女の身分が明かされた今、初めて全てが繋がった気がした。


 それは、祖国への愛。愛国心だったのかもしれない。

 それは、私が随分昔、ザーラム兵に恐怖と絶望に晒されたあの時を境に、ずっと今まで心の奥底に閉じ込めてしまったもの。


 あの時、サフラヒルの街でザーラム兵に拉致された時、「なぜバイレスリーヴは、なぜ父さんは……助けに来てくれないのか」と、異国の地で一人助けを求めただけの私。ウィスカ皇女は、異国の地で一人、身を犠牲にして国に尽くそうとした。


 これが、皇帝の子……。慈善活動と称して、持たざるものに尽くす自分に愉悦していたあの時の自分とは、根本から違う。


 私は、熱で潤んだウィスカ皇女の髪をそっと撫でながら、深く頭を下げた。


「ウィスカ皇女様は必死でした。そして、私は……そんなウィスカ皇女様からもっと多くを学ぶべきでした」


 ジーナ皇女は、私の悲痛な告白を受け止め、静かに言った。


「彼女が目覚めたら……貴女のその言葉を聞かせてやりたい」

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