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S-112 「私の……妹だ」

ザーラム/東の街道沿いの村デスリア【視点:宮廷魔術師ウィクトリア】


 巨大海門の西側から、ザーラム属州サフラヒルを目指して進んだ旅路の果て。夕陽が赤黒く空を染め上げ、世界が深い影に飲まれようとする頃、私たちはデスリアに辿り着いた。《デスリア》。それは、赤茶けた岩と硬い草原だけが続く不毛な大地に張り付く、忘れ去られた集落だ。


 集落の周囲に漂うのは、土埃と、痩せた山羊の酸っぱい匂い。わずかに見える大麦や豆類の農地は、赤茶けた土に色を吸い取られたように生気を失っていた。周辺の岩山から掘り出された岩塩を運ぶロバと、その手綱を引く男は、皆やせ細り、その瞳は疲労と絶望に曇って光を失っている。


 馬車を宿の入り口近くに停めた御者が、やがて沈痛な表情で戻ってきた。


「残念だ。この村で唯一の宿も、今日は空きが無いらしい」


 彼の言葉を、馬車の荷台で麻布の下に隠れていた私は、背筋に冷たいものを感じながら聞いた。


「そうでしたか……」


 私の視線の先には、荒い息を繰り返す、名も知らぬ娼婦の姿がある。

 彼女は全身を包帯で巻かれ、高熱で意識が朦朧としていた。もし彼女がこのまま野宿を強いられたら、命が持たない。その事実に、私の胸は激しく焦燥した。

 御者は、私たちの絶望的な気配を察したのだろう。彼は深く息を吐いた。


「どうにか厩にでも泊めさせてもらえるよう、交渉してくるよ。このまま野宿はできねぇ」


 周囲を重く覆う静寂が訪れた。それは、単に音が無いのではなく、まるで空気が粘着質になって、全ての音を吸い込んでいるかのような異様な静けさだった。馬車を微かに揺らすのは、乾いた風と、その風が運ぶ微かな土の匂いだけ。


 その間、私は麻布の下で、熱を持つ娼婦の額に、持てる限りの治癒の魔力を込めて手のひらを当て続けた。


「はぁ…はぁ…くっ…」


 しかし、娼婦の荒い呼吸は僅かも改善せず、生命の炎が今にも風前の灯となる気配は、私の張り詰めた神経をじりじりと焼き、不安を増幅させていった。


「大丈夫…大丈夫だから」


 時間の流れさえ止まったかのようなその一瞬一瞬が、私の張り詰めた神経をじりじりと焼き、不安を増幅させていった。


 しばらくして、砂利を踏む静かな足音が、耳の奥に響いた。

 それは御者の慌ただしい足音とは全く異なり、獲物に忍び寄る獣のように均一で低い音だった。


 私は冷たい汗が顎を伝うのを感じた。この足音は、ザーラムの関係者に違いない。

 馬車に積まれた香辛料の匂いさえも、罠に感じられた。絶望的な予感に駆られ、私は名も知らぬ娼婦と麻布を深く被り、心の中で癒しの神アペリオンに必死の祈りを捧げた。


 ガタッ……ギシ……


 祈りは届かなかった。馬車の後輪が沈むような鈍い音を立てて、誰かが馬車の荷台に乗り込んできた。


 裏切られた?


 御者に?こんな辺境で?


 嫌な感情が胃の奥から込み上げて、全身の血の気が引くのを感じた。喉は張り付き、微かな呼吸音さえも、相手に居場所を知らせる轟音のように思えた。


 そして、重く厚い麻布が、冷たい空気と共に力任せに引き剥がされた。


 視界に入ってきたのは、鋭い眼光を放つ黄色い瞳。それは、闇夜に光る獣の血を感じさせる強烈な金色の光をたたえ、威圧的に私を見下ろしていた。


 ローブの男は、返事も待たず、私の隣にいた、痩せた身体の娼婦を、まるで荷物のように躊躇なく抱きかかえて連れ去ろうとする。


「ま、待ってください!彼女は…」


 連れ去られる危機を察した私は、反射的にその男のローブの裾を掴んで引き止めた。

 掴まれたことで、ローブのフードがはだけ、濃い銀灰色の髪を持つ青年の顔が露わになる。彼の顔立ちには野生的な強さと、揺るぎない意思が感じられた。


 その青年は、その黄色い瞳で私を静かに見下ろし、低い声で言った。


「困っていると聞いて、ベッドを空けた。そこへ運ぶだけだ。キミも来たらいい」


 その予想外の言葉に、私はあっけにとられ、一瞬で全身から緊張の糸が切れた。ザーラム兵ではない?


 娼婦の容体が心配で、私は急いで馬車を飛び出し、背の高い青年の後を追った。


 私が青年の後を追って宿に足を踏み入れると、中は外の寂寞とした雰囲気とは隔絶された、奇妙な熱気であふれていた。中央の暖炉の炎は燻りながらも薪を激しく爆ぜさせ、この貧しい村には不似合いなほど、立派な旅装束を纏った人々が数多くひしめき合っている。


「あら、またお客さん?今日はなんて日なの!?」


 くすんだ緑色のドレスを着た痩せぎすの老女が、商売っ気と驚きを交えた声で私を見て近づいてきた。


 老女が甲高い声で話している、まさにその時だった。


 宿の奥の席に深く腰掛け、入口に向かって鋭い眼光を投じていた、深いローブ姿の人物が、老女の声など耳に入っていないかのように弾かれたように立ち上がった。その人物は、青年の腕の中の娼婦の姿を捉えるやいなや、床板を強く踏み鳴らして、一瞬で私たちへと駆け寄ってきた。


「おお……英雄神ゾーディアよ……今日ほど主を近く感じた日は無い」


 老女は途中で言葉を遮られ、目を丸くしてその光景を見つめている。


 その人物は、長い銀色の髪をローブからのぞかせ、灰がかった青い瞳をしていた。その瞳は青年の腕の中にいる娼婦を見つめると、激しく震え、一瞬で涙を湛えた。


 銀髪の美女は、迷うことなくローブのフードを脱ぎ捨て、娼婦の青白い顔を覗き込むと、嗚咽を堪えながら抱きしめた。娼婦は荒い息を繰り返すだけで、目を空けることもできない。


 宿全体に困惑が広がる中、長身の青年は、理解できない状況に黄色い瞳を細め、静かに問いかけた。


「この者が……どうかなさったんですか」


 銀髪の美女は、嗚咽を押し殺し、感情の制御を失いかけた震える声で、しかし一点の曇りもない真実を告げるように、青年の言葉を遮った。


「私の……妹だ」


 その悲痛な告白が放たれると同時に、宿の中の喧騒は完全に沈黙した。

 長身の青年と、銀髪の美女は、それ以上の言葉を交わすことなく、一瞬視線を合わせると、宿の二階にある客室へと、娼婦を連れて駆け上がっていった。


 その様子を呆然と見送る私に、宿の女主人らしき老女が金切り声で迫ってきた。老女は途中で言葉を遮られた怒りと勘定をごちゃ混ぜにしたような顔をしている。


「ちょっと!3人も追加で上がって行ったわよ!?代金はどうするのさ!」


 老女の甲高い声は、その最高潮に達した。


「ん、んっ」


 老女の背後、暖炉の揺れる光を背負うようにして、人影が現れた。

 それは、ボロボロの厚いローブに全身を包み込み、顔には異様な仮面を被った人物。

 その者の身体は黒いローブで覆い隠されており、その存在はまるで影が物質化したように無音で不気味だ。その仮面の者は、全くの無音で老女の背後に浮遊していた。


「ひぃぃっ!」


 老女はその異様さと、生気のない無言の圧力に恐慌し、腰を抜かして尻餅をついた。私もまた、その尋常ではない光景とこれまでの精神的な疲弊から脱力し、床にへたり込んだ。


「ん」


 仮面の者は声を発することなく、ローブの袖から僅かに覗く手のひらで、貨幣の音がする革袋を老女に差し出した。


 そんな私たちの様子を見た彼らの仲間たちは、くすくすと笑い合う。

 宿の異様な空気が漂う中、暖炉の近くにいた金色の髪をした、赤い目の青年が、その異様な空気を打ち破るように、明るい声で私に声をかけてきた。


「俺たちがおごるよ、お嬢さん。いま、熱いスープを煮込んでいるんだ。少し待っててくれ」

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