S-111 「皆エルフの血を引くと?」
内海/バイレスリーヴ・帝国間航路【視点:世界(観測者)】
内海の穏やかな紺碧の海を切り裂き、一隻の帆船がバイレスリーヴからゼーデン帝国へと進んでいた。船倉の奥深く、ランプの灯りが油の匂いと共に辛うじて暗闇を追い払う。湿気を帯びた空気が満ちるその一角に設けられた粗末な檻の前で、銀髪の青年ノエルは魔導書を読んでいた。
魔術の素質がないと諦めていた彼だったが、隠れ山に向う際にイルと行動を共にした彼は、彼女からきっかけを与えられ、そして、彼女の神がかった実力を目の当たりにして、自分の中に確実な変化を感じていた。
ランプの小さな炎が揺れるたび、ノエルの青がかった灰色と琥珀色のオッドアイが奇妙な光を反射する。その瞳の奥には、ルーガットに「良い経験になる」と押し切られ、皇帝の依頼という重責に直面する若者特有の警戒の色が滲んでいた。
彼の目の前の檻の中には、中老の男性、帝国百影将軍ゲアラハ・ジス・バルブレアが静かに腰を下ろしていた。ゲアラハの肉体は衰弱しているものの、その眼光は研ぎ澄まされ、ノエルを鋭く射抜いていた。
「…青年よ」
「……」
ノエルは魔導書を閉じず、視線だけを上げた。ゲアラハの真意が読めず、内心で警戒態勢をとる。
「私は、帝国へ戻れば死刑は免れんだろう」
「…私に、この船から逃がせとでも言うのですか」
「ははは。そんな命乞いなどせんよ。ただ、私が抱えて死ぬには勿体ない『秘密』があってね。それを君に話すことで、私は心置き無く死にたいのだよ」
「私は、他国の諜報ギルドに所属する身分。帝国のことは詳しく知りませんし、何の影響力も無い立場ですが」
「構わんさ。私にとって暴露の相手は、もはや誰でも良いのだ。この真実が、いずれどこかで役立つならばそれでいい」
ノエルは、一瞬ためらった後、魔導書を膝の上に置いた。この中老の将軍が、死を前にして何を吐き出そうとしているのか、商才に長けた者の冷静な分析力が働いた。
「そういうことなら。聞きましょう。情報を得る機会は、無碍にはできません」
「うむ。感謝する」
ゲアラハは、檻の冷たい鉄格子にもたれかかり、遠い目をする。
「帝国は、長きに渡り栄光を示し続けてきた。建国の祖、英雄神ゾーディアの子孫たる者たちによる人間の国だ。その皇帝には、その時に最も実力を有する者が君臨し、広大な領地を治めている」
「実力主義、ですか。それはこのバイレスリーヴにも通じる原理ですが、ずいぶん血筋を強調しますね」
「いかにも。何故なら、国民の誰もがゾーディアの血を引く。つまり、誰もが皇帝になり得る資格を持つからだ。武力を礎としたこの帝国は、実力主義を常としてきた」
「……」
ノエルは唇を噛む。その言葉は、才能と血筋、どちらも持たぬ自らの境遇を鋭く抉るようだった。
「だが現実は違う。実力者となるためには、幼少からの教育、武芸、政治的な思考も必要となる。故に、皇帝は、実力者を育てるノウハウのある『名家』出身者であることが殆どだ」
「ふむ。つまり、その実力主義というのは、名家の血脈を維持するための体裁に過ぎない、と。実に、人の世らしいね」
「その通り。そして、現皇帝ソラスは、長らく皇帝を輩出できず、没落していた《ファラン家》の出身だ。奴は、一族の復興を目指してか、皇帝の座をファラン家の欲しいままにしようと企んだ」
「座の独占、ですか。帝国の実力主義に真っ向から逆らう、最も危険な企みだ。成功の算段は?」
「青年よ。おまえが皇帝なら、皇帝の座を独占するために、どのようなことを考えるか」
「至極単純です。貴方たち百影を使って、他の一切の可能性の芽を潰します」
「まぁ、そんなところだろう。過去の皇帝にも、そのように考えた者はおり、特段珍しいことではない。ただ、奴は、ゾーディアの血の掟を秘密裏に破ったのだ」
「帝国人以外の血を入れた」
「そうだ。しかも、豊穣の神の血を引く、長寿種のエルフと交わり、子をもうけたのだ」
「なるほど…子の寿命を伸ばそうと、ゾーディアの子孫という絶対的な前提を自ら穢した。それは、帝国の根幹を揺るがす致命的な瑕疵だ」
「奴はそれが皇帝となる条件に反している事を認識しているが故、巧妙に隠した。公には、乳母を王妃役に仕立てながら、素性もわからないエルフと3人の子を作った」
「では…今の3人の皇女たちは、皆エルフの血を引くと?」
「いかにも。だが、ゼーデンでは、女に皇帝となる資格は与えられておらん。故に、問題とならなかったのだが、四人目の男子が産まれたのだ」
「四人目の男子。それが、ファラン家による帝国の永久支配を完成させるための切り札だった、と」
「その事実を唯一知っていた乳母は、私にその事実を密告して自殺した。公には出産の予後が悪く病死したことになっているが…。その息子が皇帝となること、すなわち、帝国数百年の礎が崩壊することを意味する。《シーラ》…いや、その乳母から事実を告げられた私は、即座にその赤子を殺害したのだ」
「……っ」
ノエルは息を飲み、無言で将軍を見据える。その銀髪の下、異なる色の瞳の焦点が定まらない。
「赤子には罪はない。争いの根源は、ソラスにある」
「……そうなのかもしれませんが」
ノエルはそれ以上言葉を続けず、ただ静かに問いかけた。
「話を聞いてくれたことに感謝する。私の魂は随分軽くなった。《イデア》で彼女に合わせる顔は無いがな」
イデアとは、ウニヴェリアよりももっと古い概念で、肉体から解放された全ての魂の逝きつく先として、この世界で信じられている場所。
ノエルは、帝国の諜報を長きにわたり支えてきた、百影将軍ゲアラハのこの暴露を聞かされたことに、唐突に不安を感じた。
「……私への暴露は、貴殿の復讐の種が撒かれた、という認識でよろしいか」
「ははは、深読みしなくてもよい。裏も表もない、死にゆく者の嘆きだ」
彼はそういって、満足げにローブにくるまった。
ノエルは小さなため息をつき、眉間に皺をよせ、静かに魔導書に目を落とした。




