S-11 「正直いって、チビリました」
バイレスリーヴ東/黒き森/魔術師のアトリエ【視点:臆病者オリアン】
アトリエの古びた扉を潜り抜けた瞬間、僕たちは奇妙な感覚に包まれた。
「……蔦が」
最初に声を発したのは、イルだった。彼女の視線の先にあったのは、僕たちが出てきたはずのアトリエの木の扉。
信じられない光景が広がっていた。今、確かに開けて出てきたはずのその扉が、すでに分厚い蔦に覆われ、まるでずっとそこに存在していたかのように壁と一体化している。
「えっ……」
キノルの小さな驚きの声が聞こえ、彼女は慌てて腰の皮袋を確認する。大事そうにしまわれたニーネッドさんの日記を見て、アトリエの中での出来事が幻想ではなかったことを確認した。
キノルは壁をじっと見つめ、何かを調べているようだったが、やがて首を振った。
「……師匠の魔法?……じゃない気がする」
その呟きは、僕の心をざわつかせた。ニーネッドさんの魔法でなければ、一体何がこの現象を引き起こしたのか。グリンネルは、そんな僕たちとは異なり、どこか遠い目をしていた。
「不思議な空間だったなぁ」
「よくわかんない。どうせ師匠に聞いても教えてくれないだろうし。行こっか」
キノルは結論を出すことを諦め、先を急ぐよう皆に促した。
僕たちは、キノルが指し示す通り、アトリエから続く細い道をたどり、歩いてきた場所まで戻った。その瞬間、僕は息をのんだ。
背を向け、倒れている野党たちを見下ろす人影。その姿は静かで、動かない。ただ、そこにいるだけで、全身にぞわぞわと鳥肌が立つような不気味な気配を放っていた。
「オ前達、ダナ?」
その人影は、ゆっくりと僕たちの方を振り返る。すると、その巨大な影が膨張し、白い毛皮に覆われた。
四肢が伸び、耳が尖り、鋭い爪が姿を現していく。それは、人間と狼が混ざり合ったような、恐ろしい獣人だった。
「《ライカンスロープ》か!?」
グリンネルの叫び声が、静寂を切り裂いた。ライカンスロープは一瞬にして姿を消し、次の瞬間には、眼前でグリンネルと激突した。僕が認識するよりも早く、グリンネルは剣の鞘を構え、ライカンスロープの爪の斬撃を受け止めていた。
「な、なんでこんな所に⋯」
ライカンスロープ。人が到達できない身体能力を持つ亜人。
領内にあった彼らの集落は、僕が幼い頃に外海の化け物に襲われ、全滅したはずだ。そう記録で読んだ覚えがある。まさか、その生き残りがいたというのか
その巨体から放たれる一撃は、目で追いきれない速度にもかかわらず、大槌のように重く、グリンネルがその攻撃を受け止めるたびに、彼の足が地面にめり込んでいく。
キノルは即座に呪文を唱え始め、グリンネルに向かって放つと、彼の体を柔らかな光が包み込んだ。
ライカンスロープはグリンネルから離脱し、まるで風のように一瞬で木の上に飛び乗り、凄まじい速さでキノルに飛びかかっていく。
キノルは微動だにせず、呪文を唱え続ける。その間一髪のところで、グリンネルが再び跳ね上がり、ライカンスロープの攻撃を弾いた。グリンネルとキノルの攻防は完全に調和しており、お互いへの信頼が見て取れる。
「キノルは何を?」
隣で見ていたイルが僕に尋ねてきた。
「おそらく能力強化魔法です。僕も実際に見るのは初めてですが……。強敵に遭遇した際に使われるものです」
あの戦いに、僕が入り込んでも、おそらく瞬殺される。僕は剣を構えつつ、息を潜め、それでも何か力になれることはないかと思案した。
イルも僕と同じ結論に至ったのだろう。隣で木の棒を手に取り、その時に備えて構えている。
強化魔法をかけてもなお、グリンネルが押されている。
彼の腕や身体には、ライカンスロープの爪に裂かれた傷から、血がにじみ出ていた。グリンネルが肩で息をし始めた。
これはかなりまずい。彼が倒されたら、僕たちは間違いなく一網打尽だ。
「キノル!さっきのあれは使えませんか?!」
僕は閃光魔法でライカンスロープの目を潰すことを訴えた。
「動きが早すぎて、逆にグリンネルの隙になっちゃう!」
キノルは、僕が思いつくようなことは当然考えていたようだ。確かに、あのライカンスロープ相手に一瞬でも目を閉じていたら、それは致命的な隙にしかならない。
じゃあ、どうすれば……。無力な僕は、ただ何かできることを探した。
「いくよオリアン!!」
隣りにいたイルが、僕の腕を引っ張って戦場に躍り出た。
「キノル!後はよろしく!」
僕は、一瞬のことで何が何だか分からなかった。
(お、囮作戦!?)
目の前に立ちはだかるライカンスロープ。
その恐怖に圧倒され、全身の毛穴が縮こまり、おそらく少し漏らしてしまった。
ライカンスロープは、僕たち二人を見て、理解に苦しんだのか、僅かに思考し直したようだった。
しかし次の瞬間、僕の頬に何かが掠った。気付いたら、僕はイルに強く突き飛ばされており、尻もちをついていた。頬はジンジンと熱くなり、瞬く間に血があふれ出す。
イルは木の棒を捨て、ライカンスロープの前に仁王立ちしている。
自殺行為にしか思えなかった。
しかし、その背中は、先ほどまでの彼女とは、まるで別人のようだった。
一瞬、森のざわめきが消え、時間が止まったかのような感覚に陥る。ライカンスロープの血走った瞳が、イルの全身を射抜くように見つめ、その動きはぴたりと止まっていた。
「何者ダ……オ前ハ」
一瞬、ライカンスロープの動きが止まった。
「今!」
イルが合図と同時に飛び退く。彼女の背後に隠れ準備してたキノルが眩しい閃光魔法を放った。
「グオオォォォ!」
ライカンスロープは閃光をもろに浴び、一瞬、その巨体を大きくのけぞらせた。しかし、その苦悶の叫びはすぐに威厳ある咆哮へと変わり、獲物を取り逃がしたことへの苛立ちを森全体に響かせた。
彼は、樹木を薙ぎ倒しながら、しかし明確な意思を持って、森の奥深くへとその姿を消していった。
「今のうちに!走れっ!」
グリンネルの声が、鼓膜を破るかのように轟いた。僕たちは、もはや理性を失い、本能のままに森の中を全力疾走した。
背後からは、折れる木の枝と倒れる樹木の轟音が、まるで地鳴りのように響いている。
視界を取り戻したライカンスロープの威嚇的な咆哮が、僕の耳の奥で幻聴のように鳴り響き、それがすぐ後ろから聞こえるような気がした。
恐怖が、背中に張り付くような冷たい殺気となって、僕を追い立てる。
振り返る余裕なんて、全くなかった。
心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴り、このままでは本当に死んでしまうという切迫感が、全身を支配していた。
「あそこが森の外だ!」
グリンネルの声が、僕たちをさらに奮い立たせる。すると、視界が急に開け、木々の密度が薄くなっていくのがわかった。
地面を覆っていた暗い苔は消え、かわりに草が生え、足元が軽くなる。森の重苦しい空気は、次第に薄れていき、代わりに夕焼けに染まり始めた空の光が差し込んできた。
グリンネルは森の出口が見えたところで、僕たちを先に行かせ、最後尾に回って後ろを警戒した。
「森の外に出てもしばらく走れ!」
グリンネルが叫んだ。森を抜けると、空は赤く染まり始めていた。僕たちは、バイレスリーヴへ通じる街道まで止まることなく走り続けた。
そして、先頭を走っていた僕が、最初に力尽きて草原に倒れこんだ。続いてイル、キノルと皆、僕の周りに転がり込む。最後に、グリンネルまでもが、大きく息を吐きながら倒れ込んだ。
心臓が、まだ喉の奥でドクドクと鳴っている。脚は震え、全身から冷たい汗が噴き出していた。あんなに恐ろしい思いをしたのに。なのに、僕の口から笑いが漏れ出した。
「はぁ、はぁ、ははは……ははははっ!」
恐怖で泣きそうだったはずなのに、なぜか笑いが止まらない。
その奇妙な笑いに釣られるように、僕の周りで倒れこんでいたイルが、グリンネルが、そしてキノルが、次第に顔を見合わせて笑い始めた。僕たちの間に、安堵と達成感、そして、言葉にできない絆が、笑い声となって満ちていった。
「はぁ、はぁ、とんでもなく強かった!」
グリンネルが、その実力を認めざるを得ないといった様子で言った。
「はぁ、はぁ、死ぬかと思った」
キノルも、彼と同じように相当な危機感を感じていたようだ。
「オリアン、私達、やってやったじゃん!」
僕はただ、彼女に振り回されていただけなのに。イルはまるで、二人で成し遂げた手柄のように無邪気に笑ってくれた。
「はぁ、はぁ、はぁ……そうですけど。正直いって、チビリました」
僕の言葉に、みんなが再びどっと笑った。笑い声が止んだあと、わずかな静寂の中で、グリンネルが口を開いた。
「オリアン、剣闘士探してるんだろ?俺たちが戦ってやるよ!」
僕は、その言葉を聞いて、一瞬聞き間違えたのかと思った。心臓の高鳴りが、鼓膜のすぐそばで激しく響いている。
確かに、心のどこかでその考えが頭をよぎっていた。
彼らと共に旅をして、その強さと優しさ、そして何よりも本に対する深い愛に触れるうちに、この冒険が、僕の家を取り戻すための剣闘士探しに繋がるのではないかという淡い期待が芽生えていた。
しかし、それを言葉に出すことはできなかった。僕の目的を口にすれば、今始まったばかりのこの関係が、ただの利害関係、僕の目的を達成するための道具と化してしまうのではないかという恐怖があったからだ。
そんな僕の秘めたる想いを、グリンネルはすべて見透かしていたかのようだ。
「本とお家、取り戻そう」
キノルも、それに賛同してくれる。
「オリアン、もちろん私もだからね!」
イルまでもがそう言ってくれた。
「みんな……ありがとう」
感動のあまり、それを言うことが精一杯だった。言葉を交わさずとも、互いの心を知ることができる。あの日記に書かれていた言葉が、今、僕たちの間で現実のものとなった。
――仲間との旅は、目的より多くの財産を齎す――
僕は頭の中で、その言葉を何度も何度も反芻していた。




