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S-108 「はいっ!《ファイネ6-14》」

ザーラム共和国属州/サフラヒル/コラン村付近海岸【視点:漂流者】


 ゴツッ。


 重く鈍い衝撃が頭蓋を揺らし、泥沼のような眠りから意識が浮上した。全身を包むのは、生暖かい海水と、打ち付ける波の感触。


 重い瞼を開けると、目の前には一本の黒ずんだ丸太が、ごつごつした岩場に打ち上げられ、潮の満ち引きに合わせて虚ろに揺れていた。


 僕の身体もまた、その丸太と同じように、海岸線に、上半身だけが投げ出されていた。


 ずきっ!


 頭部に鋭利な痛みが走り、全身を蝕む鈍い痛みがそれに続く。


 体中の倦怠感と激痛に耐えながら、濡れた身体を這うようにして海から引き上げ、恐る恐る陸に上がった。

 砂と岩の境目には、懐かしい香りのする低木や草花が、乾燥した大地に根を張っていた。


 そして、遠い海岸線沿いの薄曇りの向こうには、煙突から細い煙が立ち昇る、小さな漁村のような集落がぼんやりと見えた。


「…ついた……のか?……やっと、人の住む土地に……」


 あの日、島からの脱出船が嵐で沈んでから、どれだけの時間が経っただろうか。


 僕は運悪く、大海原の只中にある、名もなき小さな岩礁に流れ着いた。


 草木一本生えない、絶海の孤島。

 そこで僕は、雨水を啜り、打ち上げられた魚を生で喰らい、照りつける太陽と凍える夜風に耐え続けた。


 来る日も来る日も、水平線を睨み続けた。

 指折り数えて、およそ半年。

 その間、僕はあの岩礁で孤独と戦い続けてきたのだ。


 数日前の嵐で、イチかバチか流木にしがみつき、身を任せたのが奇跡だった。


「…生きて……戻ってこれたのか」


 ボロボロになった自分の手を見る。爪は割れ、肌は潮焼けでボロボロだ。


 だが、生きている。

 生き延びた理由はただ一つ。


(ヴェナ……!)


 あの日、離れ離れになった彼女。

 彼女も生きているはずだ。いや、生きていてくれなければ困る。


 僕が半年も遅れてしまった間に、彼女はどうしているだろうか。手足を失い、声すら失ったあの不自由な身体で、誰かの助けを得られているだろうか。


「ヴェナァァァ!!」


 半年ぶりに人里へ向けて放つ声は、枯れて掠れていた。


 彼女を探さなければ。

 半年という絶望的な時間のズレを埋めるために、僕はよろめきながら立ち上がり、集落の方へと歩き出した。


 ■■■


 ザーラム属州サフラヒル/コラン村


 太陽の光は分厚い埃雲に遮られ、空はくすんだ灰色に淀んでいた。


 赤茶けた大地はひび割れ、飢えと疲労で目つきの悪い農夫や子供が力なくうずくまっている。


 剣と槍を携えた薄汚れた兵士たちが、そんな絶望的な農家に押し入り、略奪を行っている。


 そんな荒廃した村を、僕は幽鬼のように彷徨っていた。


 半年間、まともに人と話していない。髪も髭も伸び放題で、身に纏っているのはボロ布だけ。今の僕は、村民以上に哀れな姿をしていたことだろう。


 兵士の一人が、そんな異様な僕を見つけ、近づいてきた。


「そこのお前!見ない顔だな。どこの家の者だ!名は!」


 兵士の激しい怒声に、疲弊しきり、社会性を失っていた僕の身体は、意識とは無関係に反射的な行動をとってしまった。


「はいっ!《ファイネ6-14》……」


 口に出した瞬間、全身に冷たい水を浴びたような衝撃が走る。


 違う。僕はもう、あの実験体じゃない。

 脳が身体に追いつかず、染み付いた屈辱的な習慣が命取りになりかけた。


「じゃ、じゃなかった。あ……《アストン・カッシアン》です。家は……フロースフォンスの6番街で……」


 兵士は、僕の曖昧な返答と、この半年の漂流生活で薄汚れた姿に、疑念の色を濃くする。


「…何だ?……フロースフォンス?嘘をつけ!そのなりで、こんな戦乱の地まで来れる訳がないだろう!……まさか、イッススの暴動の関係者じゃないだろうな」


「イッスス?いや……本当で。ていうか、家から直接来たわけではないっていうか……。半年間、岩礁にいまして……」


「半年、岩礁?頭がイカれてるのか。おい、ちょっとこい!」


 兵士の荒々しい手が僕の腕を掴むために伸びてきた。


 ■ ■ ■


 バイレスリーヴ、国家元首の館【視点:世界(観測者)】


 バイレスリーヴの夕刻。


 バイレスリーヴの国家元首の館は、深い夕刻に包まれ始めていた。西の空は血のように濃い赤と琥珀色に染まり、内海の水面はそれを鏡のように反射して怪しく煌めいている。執務室の分厚い壁と重厚な木材が放つ古びたインクと蜜蝋の匂いは、ムスタの周囲のピリピリとした空気を緩和しきれていなかった。


 誰が見ても仕事嫌いの「不良聖職者」ムスタだったが、国家元首の代理という初日にして、その手際は驚くほど迅速で冷徹だった。最後の署名を終えるまで、彼の表情は一切動かない。


「いやぁ、すまんね。久しぶりの仕込みで手間取っちまったよ」


 熱気と、肉とハーブの芳醇な匂いと共に、一人の男が滑り込んできた。黄金の潮風亭の店主にして、新任の冒険者ギルド会長、《グラース・ラクロイグ》だ。彼の革のエプロンは外されていたが、腕にはまだ調理の熱が残っているようだ。


「終わったぞ!…ふぅ。随分と気合が入ってんな、グラース。晩餐の酒は、上等な古酒を用意したんだろうな」


 ムスタは最後の文書に印章を押し付け、使い込んだペンを卓に放り出す。


「相変わらずの不良聖職者だ、司祭殿。その怠惰ぶりには、海洋神ネプタリオン様も呆れてますぜ」


 グラースは肩をすくめ、彼らしい軽口で返す。


「私共はこれにて」


 ムスタが手を一振りすると、使用人たちは音もなく執務室から退室した。扉が静かに閉じ、重苦しい静寂が訪れる。


 客間には既に、商業者ギルド会長の《ルーガット・ラガヴェリン》が静かに鎮座していた。彼は一切動かず、ムスタとグラースを待っていた。


 二人は重厚なソファに腰を下ろす。ルーガットは、座ったまま二人の顔を交互に見る。その眼光は、達観した知恵の奥に、獲物を狙う老獪な狐のような鋭さを宿していた。


「使用人は、完全に退いたか」


 ルーガットが低い声で問いかける。グラースは、ムスタが片付けた執務室の奥まで視線をやり、誰もいないことを確認して頷いた。


 グラースの面持ちは、黄金の潮風亭の暖かさとはかけ離れた、蒼白な絶望に覆われていた。その声は、元上級冒険者であった彼らしからぬほど震えている。


「あの噂……マジなんですか、ルーガットさんよ」


 彼が話す「噂」とは、もちろん、国家元首オリアンの身に起こったことだ。


「…はて。何のことか。儂は噂話をするために、早く来た訳では無いのだがな」


 ルーガットは、静かにそう返し、惚けるように振る舞う。しかし、その顔に刻まれた険しさは、この国の存続を憂うものだった。


「グラース、この爺さんの口の堅さは、巨人族でも抉じ開けられん程だぞ」


 ムスタの言葉に、グラースは諦めたように首をすくめる。


「して、グラース。冒険者ギルドの件はどうか」


 とルーガット。


「前任が優秀だと苦労するが…ようやく慣れてきたところです」


 ルーガットは眉を顰め、鋭い眼光をグラースに向けた。


「グラース。貴様の個人的な調子などどうでもいい。冒険者ギルドの軍隊化、規則書き換えの可否について、現実的な回答を聞いておるのだ」


 ルーガットの鋭い目つきは、一瞬たりとも緩まない。


「そっちか!…ぬるま湯に浸った連中を、いきなり軍隊化するのは無理です。ギルド細則の書き換えも反発は免れません。現実的かは分かりませんが、緊急事態令を発令しての『強制クエスト』という形での元首直々のオーダー。拒否すれば『階級剥奪』と脅すしかありません。ですが、やらせるからには国が破格の報酬を約束するべきでしょうな」


 グラースの報告は、ムスタにとっても納得のいくものだったようだ。そして、今度はムスタが、横目でルーガットに問いを投げた。


「ルーガット翁の知恵はどうなんだい。ザーラムを潰す計略があると言っていたが?」


 ルーガットは目を細め、静かに答えた。


「儂は商売と金勘定しかできん商人だ。軍略や謀略はてんで分からん。だが『不必要なものを不必要な時に買わせること』には多少覚えがある。ここで詳しくは語れんが、既にタネは撒いてある」


 ルーガットはそこで言葉を止め、まるで未来の光景を宣告するかのように、ゆっくりと言い放った。


「…この国を見くびった奴らには、我がバイレスリーヴ商業者ギルドが何たるかを、『不必要』とともに懇切丁寧に教えてやろう」


 ■ ■ ■


 ザーラム共和国首都/ザハリア【視点:執政官バージェス】


 城の深部にあるバージェスの私室は、夏の熱気をとともに、濃厚な香油と酒の匂いが混じり合う甘美な空間だった。


 長身巨体の執政官バージェスは、豪奢な絹の寝椅子にもたれかかり、傲慢さが顔に張り付いたような表情で、片手でワイングラスを揺らしていた。


 ワキールからの報告内容。連合王国の《血の間》の手の者が、バイレスリーヴの国家元首の若造を暗殺したことを反芻した。


 儂は、鼻で笑った。


(つい先日、決闘大会などという見世物を経て、血みどろになりながら成り上がったというのに、哀れなものだ。しかし、《血の間》の連中の眷属は、いたるところに潜んでいる。所詮、吸血種だと侮っていたが、見上げたものだ)


 儂はグラスの酒を一気に飲み干した。


(血の間の連中は、儂を、この新興国の眼前に、金をぶら下げることで、東岸制圧の先鋒として、いいように扱っているつもりだろう)


 ワイングラスを豪快に床に叩きつけ、儂は重い身体を立ち上がらせた。


(いまはそれでよかろう。これほど楽に金が稼げることはない。儂には金が必要なのだ)


 目の前には、贅を尽くした裸体、均整の取れた肉体を露わにした、新たな親衛隊《黄金衆》たちが、彫像のように整然と並んでいた。鍛え上げられた肌からは、夏の熱気の中でも冷ややかな規律の匂いが感じられる。


 お気に入りのシェルクを失った喪失感は、ずいぶんと癒えてきた。


 儂は、満足げに笑みを浮かべた。王国から得た戦争資金と、併合した王国から得た富を惜しみなく使い、新しい黄金衆を仕入れ、ほとんどが使い物にならなくなった情婦たちも一新したばかりだったのだ。


「シャルド!」


 新たな隊長に任命したシャルドは、亡きシェルクと瓜二つの厳格な面差しをしていた。


「さぁ、儂に快楽を」

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