S-103 「私こそ…ごめんなさい」
血の間【視点:世界(観測者)】
「⋯まさか。ヴェルメリオが死んだ」
退屈そうにしていた血の間の支配者。原初の吸血種、ソルフがその目を見開いて呟いた。
それまで、緩慢だった血の間の雰囲気が瞬時に凍りつく。
「うそ⋯嘘でしょ!?嘘よね?!」
彼の隣に鎮座し、新鮮な血が注がれたグラスを傾けていたメラハは、グラスを落とし、取り乱したようにソルフに迫る。
しかし、ソルフはメラハの問いに答えず、目を閉じ、深いため息をつくことで、それが真実であることを示した。
メラハの表情は引きつり、沈痛な面持ちで、頭を落とし、声すら出なくなる。
暫くの沈黙。そして、メラハはわなわなと怒りに震えながら、頭を上げて血の間に控え、視線を外している影の男、エリュトロンを睨みつけた。
「エリュトロン!敵は、誰なの?!」
メラハは瞳を猫のように縮め、問い立てた。
「⋯わかりません。ただ、坊っちゃんが向かった先にいた敵と言えば、バイレスリーヴの《黒き監視団》でしょう…」
エリュトロンは、自分が言いだしたことで、ヴェルメリオが死んだことを咎められるかと懸念したが、メラハの怒りの矛先が自分ではないことに安堵しつつ、答えた。
「何それ…あり得ないわ。あの子が死ぬなんて!!」
メラハは、仮想敵は帝国であると踏んでいたようで、怒りの炎を燃やしながらも、若干怯んだ。
「貴方の眷属、居るんでしょ?!バイレスリーヴの国家元首の近くに!!」
エリュトロンの得ている情報の質から、メラハはその事を察していた。
「まぁ⋯おりますが」
エリュトロンは嫌な予感を漂わせる。
「殺させなさい!そいつに!弱小国の元首を!あの子を殺したことが、どういう事なのか、先ずはそいつに思い知らせてやるのよ!!」
血の間の支配者と后の命令は絶対だ。
エリュトロンとしては、貴重な情報線を感情で動かしたくなかったが、そう言われると断ることが出来ない。そもそも、ヴェルメリオ死亡の件は、あまりに想定外とは言え、自分が撒いた種とも言える。
「メラハ⋯。息子がなぜ死んだのかまだ分からぬ。恐らく、殺されたのだろうが。⋯だとすれば⋯息子を殺す程の実力者が、かの小国にいるのかもしれん」
ソルフはメラハとエリュトロンのやりとりを見ていて、重い口を開いた。
「殺した奴を縊り殺してやりたい気持ちは、同じだ。だが、一方で冷静さを欠いてはならぬ。我々は常にそうしてきた。お前もかつて人間だった時はそうだったであろう」
ソルフは静かにメラハを見据えて語る。
「⋯うっ⋯でも⋯あの子が⋯」
メラハは自分の腹部に手を当て、忘れられないヴェルメリオを産み出した時の苦しみを思い出すかのよう。
「⋯ただ、バイレスリーヴの元首の首一つくらい、取らせても良いだろう。そして、東側征伐計画は前倒しだ。我ら血の希望を摘み取った事の意味を…たっぷりと教えてやるとしよう」
ソルフは似合わぬ怒りを滲ませ、エリュトロンに視線を送った。
「⋯御意」
エリュトロンは険しい表情でそれを承諾した。
「……」
そのやり取りを血の間の壁際で、バルロフは無表情で眺めていた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ元首の館【視点:世界(観測者)】
深い夜、バイレスリーヴ元首の館の執務室には、書類を読み込むオリアンの姿があった。
彼は、山積みの仕事を一つでも進めようという意図もあったが、黒き監視団の任務の行方が気になって眠れないということもあってのことだった。
「はぁ…」
オリアンは大きくため息をついた。それは、百影の残党狩りと言う極めて危険な任務を、今となっては止めておくべきだったと後悔していたからだ。
(もしイルが…。ディナリエルさんが戻ってこないようなことがあったら…僕は)
彼は机に両肘をついて頭を抱える。
そんな彼の耳の奥には、イルと別れる間際に口から出た言葉が張り付いていた。
--「ヴュールの勘ですか」--
(今思えば、これから命を賭して戦おうとする者にかける言葉ではない。彼女が正体を明かしてくれてから、彼女が僕と距離をとっていると思ってきたけど…実は僕のほうが変に意識して距離をとってしまっていたんじゃないか)
オリアンは強い後悔の念に苛まれ、頭を搔きむしる。
(イルが戻ってきたら、先ず謝ろう。他の何をおいても)
彼は椅子から立ち上がり、執務室の窓を開けて夜の空と海を眺めた。
「深海神ルヌラ⋯そして常闇神デヒメル⋯どうか、どうか⋯皆を⋯お守りください⋯」
薄雲がかかった夜の空に向かって、一人、長く祈りを捧げた。
その時、執務室の扉から小さなノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
オリアンが扉に向かって声を掛けると、そこには控えめな笑みを浮かべるファウラの姿が。
「失礼します。遅くまで、お疲れ様です」
彼女は、トレーに焼き菓子と陶器のカップを乗せている。
「小腹が空いたかなと思いました」
ファウラは、数日で使用人の仕事をすっかりと覚え、その働きも良く、夜のシフトにも入っていた。
「ファウラさん」
ファウラは、トレーの上の焼き菓子と紅茶を執務室の脇卓へ置いた。
「何をされていたんですか?」
ファウラは、オリアンが窓を開け、その側に立っている事を気に掛ける。
「少し夜風に当たっていたんです」
ファウラはオリアンの側に近づいて窓を覗いた。
「結構⋯高いんですね」
崖の上に建っているこの屋敷は、街や海が一望できる反面、高所恐怖症には見下ろせないだろう。
オリアンは、何か不安を感じたかのように、側に立つファウラを気にする。
「せっかくの紅茶が冷めてしまいますね」
彼は、その不安を払うかのように窓から離れ、自分の席へと戻った。
机の上には、彼が愛用しているペンが置かれている。その鋭利なペン先は、ランプの光を反射して鋭く輝いていた。
オリアンは、慌てた様子で、そのペンを手に取り、机の引き出しにしまった。
「口に合うかは分かりませんけど…」
脇卓の上には、湯気が立ち上る紅茶と、焼かれたばかりで香ばしい匂いがするクッキーが置かれている。
彼は思わず乾いた喉を鳴らす。
黄金の潮風亭では、客と店員としてオリアンにファウラが給仕をしていたが、この館ではこれが初めてとなる。
しかし、オリアンの手は、それらに伸びない。
何故なら、彼の脳裏には、ファウラの事を「不吉な色」と指摘した、イルの忠告が脳裏に焼き付いているからだ。
「⋯あの…とてもありがたいのですが。もうすぐ寝ようとしてましたので。良ければ、ファウラさんが召し上がってください」
(杞憂であってほしい)
オリアンはそう願っていた。何故なら、元首となってからの業務の多忙と、イルとのわだかまりによる心の荒みを、彼女の気遣いとやさしさが、心身を癒してくれたことを、恩に感じているから。
「オリアンさん…最近全然寝てなくて、元気だしてほしいって思って作ったんですけど…私、余計な事をしてしまいました」
ファウラは微かに俯き、微笑みを残しながら、脇卓の紅茶と焼き菓子を下げようとした。
「あっ、いや…ごめんなさい。焼き菓子を一つだけ…」
オリアンは、ファウラの反応を見て慌て、皿の上の焼き菓子に手を伸ばす。彼女の息は、トレーを持つ手は、小刻みに震えていた。
「私こそ…ごめんなさい」
ファウラはオリアンが焼き菓子を選ぼうと視線を集中させたところで、トレーの中に隠していた猛毒が塗られた針を、オリアンの首筋に向かって突き出した。
(……不吉な色)
イルの言葉が、脳裏を過った。
ガッ…




