S-10 「三、二、一!」
バイレスリーヴ東/黒き森【視点:臆病者オリアン】
ヒュッ
僕の耳元を何かが掠めた。理解するより先に心臓が凍りついた。遅れて、背後で何かが弾けるような、鋭い音が響く。
「姿勢を低く!茂みに隠れて!」
グリンネルの鋭い声が、僕の思考をかき消した。腰が抜けたようにしゃがみ込み、背後を振り返ると、薄暗い闇の中に、矢が突き刺さっているのが見えた。
僕は全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。野党だ。野党が、僕たちを襲ってきたんだ。
ガサガサと、複数人の足音と気配が、僕たちが隠れている茂みにじりじりと近づいてくる。
「敵は暗闇でも目が利くようだ。キノル、照らせるか」
「すでに準備完了」
死がすぐそばに迫る緊迫した状況だというのに、グリンネルとキノルは互いの動きを完璧に読み合っていた。
彼らが交わすのは、かすかな視線と、わずかな合図。そのたびに、二人はまるで一つの生命体であるかのように、迷いなく連携する。
「三、二、一で目を閉じて」
キノルが、僕とイルにだけ聞こえるように、小さな声で囁いた。
「三、二、一!」
僕が目を閉じた瞬間、瞼を貫通するほどの眩しい光が、付近一帯の闇を消し去った。僕は恐怖でギュッと目を瞑り、両手で耳を塞いだ。
「ぐあぁ!」「目がっ、目がぁ!」
目を開けて声のする方を警戒すると、何人かの人影が、やみくもに武器を振り回している。その中を、森の木々をものともせずに駆け抜け、次々と野党を倒していくグリンネルの姿が見えた。
森の奥の暗さ、相手の暗闇での目の良さを逆手に取った、素晴らしい戦術だ。
「くそがっ!『アイツ』以外にも強いやつがいるのか!」
目をこすりながら、光の影響で弓をこちらに向けても狙いが定まらない一人の野党が、悔しそうに叫ぶ。
「アイツ」とは、何だ。
彼らは僕らの誰かを知っているのか。それとも、僕たち以外にも、彼らと敵対する何者かがこの森にいるのだろうか。
「うぉぉぁぁあ!舐めるんじゃねぇ!」
男は弓を捨てると、腰の剣を引き抜き、熱り立った様子で僕とイルに向かって突撃してきた。あまりの迫力に、僕の足は竦み、心臓が警鐘を鳴らす。
それでも、ここで逃げるわけにはいかない。僕は、震える手に力を込め、剣を強く握りしめた。
恐怖が全身を支配する中、僕は一歩前に踏み出した。目の前には、ただ男の凶暴な形相があった。
ドンッ。
鈍い音とともに、その男の足は止まり、その場で崩れ落ちる。それは背後から急所を突いた一撃だった。彼の影からグリンネルが現れ、辺りは再び静まり返った。
「グリンネルとキノルはすごい。相性完璧だね」
僕と共に姿勢を低くしていたイルは、茂みから顔を出し、安堵したように辺りを見渡しながら言った。
「お馴染みの連携の一つ」
キノルは得意げに言った。この二人の動きは精錬されており、今まで非常に多くの実戦を積んできたに違いない。
「この野党がおかしなことを言っていたのが気になるな。『アイツ』以外にもって」
グリンネルが、倒れている野党を見下ろしながら呟いた。
「うーん、誰かと勘違いしているとか?」
彼の疑問に、イルは首を傾げて答えた。
「一応、俺たち以外で彼らと敵対した何者かが森に潜んでいる可能性も念頭に、行動しよう」
グリンネルは警戒を緩めることなく、あたりを注意深く観察する。
「もうすぐ着くけど、油断は禁物」
キノルは地図を広げて目的の場所を改めて確認した。
僕は、彼らの言葉に頷きながらも、背中に冷たい汗を感じていた。この森には、僕たちの知らない何かが潜んでいる。
■ ■ ■
野党の襲撃を切り抜け、僕たちは再び森の奥へと足を進めた。張り詰めていた緊張感は少しずつ和らいでいたが、不気味な暗さと湿った空気に、僕の心臓はまだ落ち着きを失っていた。
どれくらい歩いただろうか。キノルが地図とあたりを見比べて、立ち止まる。
「この辺りのはずだけど……」
グリンネルはゆっくりと剣を鞘から抜き、目の前の蔦の壁に歩み寄った。彼は剣を構えると、その切っ先を迷いなく蔦の絡まりに突き入れた。
蔦が切り裂かれるたび、植物特有の青々とした匂いがあたりに立ち込めた。
そして、その向こうに、古びた木の扉が姿を現した。それは、長い年月をかけて森に隠されていた、まるで、この森に住む何者かの秘密の入り口のようだった。
「本当にあった……」
僕は思わず声を漏らした。その扉は、僕たちがこの旅で探し求めていた、すべての答えを秘めているかのようにも見えた。
グリンネルを先頭に、軋む扉を開けて中へ入る。中は、外の不気味さとは一変し、まるで時の流れから切り離されたような、静かで穏やかな空間が広がっていた。
僕が泊っている宿、《赤帽子》の客室くらいの広さの部屋は、埃とカビの匂いが充満しており、空気中を舞う微細な埃が、天井のひび割れから差し込む一筋の光を反射して、幻想的にきらめいている。
隅には、分厚い埃をかぶった羊皮紙や羽根ペン、インクが置かれた朽ちかけた机。その横には、埃で真っ白になったチェストが置かれていた。
「これだ」
キノルの声に、グリンネルがチェストの埃を払う。すると、精緻な装飾が施された美しい木箱が現れた。
チェストには鍵がかかっていたが、キノルは師匠から預かっていた小さな鍵を鍵穴に差し込み、カチャリと音がして鍵が開く。
蓋を開けると、そこにはいくつかの古びた本や、ガラクタが無造作に入れられていた。キノルは、その中を宝探しをするように漁り、一冊の薄い本を見つけ出した。
それが、師匠の字で書かれた日記。この旅の目的物なのだという。
「師匠が使っていた部屋……」
キノルは感慨深そうに、部屋の中を見渡した後に日記を開いた。
「旅の記録。とくに変哲もないことが書かれてる」
彼女はパラパラとページをめくり、時折微笑んだ。しかし、日記の最後のページに差し掛かると、彼女はふと息をのんだ。そこには、彼女の師匠の字で、こう書かれていたのだ。
『――仲間との旅は、目的より多くの財産を齎す』
その言葉は、僕の心に深く響いた。それは、僕が今感じていることそのものだったからだ。
「賢者オリエンスが《嘆きの地の旅路》で詠んだ詩の引用ですね。お師匠さんも昔はこうして旅していたのでしょうか」
と、僕の口から、自然と本の知識がこぼれ落ちる。
「オリアン、私も言おうとしてた」
キノルの弾んだ声に、僕たちは思わず顔を見合わせて笑った。
僕たちは本を介して、こんなにも通じ合えたのだ。イルもグリンネルも、そんな僕たちを見て微笑んでいた。
言葉を交わさずとも、彼らも僕たちの気持ちを理解してくれているのが分かった。互いと目を合わせることはあまりなかったが、それでも、心が確かに通じ合っているのが嬉しかった。
「良かったな!キノル。さて、目的の物も手に入れたことだし、暗くならないうちに帰ろう!」
グリンネルが皆に声をかけたその時。
「何これ」
アトリエの本を漁っていたイルが、古びた一冊の本を開いて固まっていた。
彼女の背後から覗くと、そこには…
■ ■ ■
―――その名を全て呼んではいけない。
【ある男の手記】
奴らは私を狂人だと言う。憐れみと、恐怖を混ぜ合わせたような、あの忌々しい目で私を見る。だが、断じて違う。狂っているのは私ではない。この世界の方だ。
太陽は汚らわしいほどに眩しく、空気は腐敗した雑音で満ちている。正気面をした貴様らが築き上げた、この無秩序な陸にいるくらいなら。この息苦しい「正常」に殺されるくらいなら。
あぁ……聞こえる。潮騒ではない。もっと底知れぬ、脳髄の奥から響く呼び声。深蒼の冷たい腕が、私の視界を、思考を、存在すべてを抱きしめようとしている。
怖い?いや、歓喜だ。ここは暗い。いや、眩しい?どっちだ?どっちでもいい。境界線が溶けていく。私が溶けていく。
狂っているのは私じゃない。だから私は、その禁忌の音に縋り、求める。溟海こそ、真実の世界……ル……ヌ……ラ……あ。あ?あ、ア、あ……目が、う。視られテる。ミてル。視、て、ぇ、ェ、ェ、ェ…………。
―――男のいた場所には、彼の体温を奪った露が、薄く広がるように滲んでいた。
■ ■ ■
「なんで…こんなところに」
その本は、僕が持っている古文書《深海からの呼び声》と似ているが、それよりもずっと古く見える。世界に一つしかない筈なのに。何故…
微動だにしないイル。その彼女の顔は、開かれた古文書に吸い込まれそうになるほど、近づいているように感じた。
心なしか、肌寒さを感じた。
「イル!ほら、いこう!」
グリンネルの声を聞き、彼女はビクッと身体を震わせた。
「あ、ごめん。ぼっとしてた」
彼女は何事もなかったかのように、本を古びた棚に戻し、振り返った彼女はいつもの神秘的な明るい表情だった。
もし彼女の顔が何か別のものに変わっていたら⋯と、僕はとてもありえないような、仄暗い不安を感じた。




