シャルロッテ・ド・ガーネット
50代直前なった男が、気がつくと見知らぬ部屋にいた。
豪奢なドレス、重いカールのかかった真紅の髪、鏡の中にはつり上がった緑の瞳の令嬢――。
「……冗談だろ?」
思わず口をついた言葉が、柔らかく響く女の声になって返ってくる。
見覚えのあるこの姿。そう、娘が夢中になっていた乙女ゲームの“悪役令嬢”だ。
どのルートでも、最後は処刑か、牢獄行き。
「この悪役令嬢、悲惨~」と笑っていた娘の声が頭をよぎる。
まさか、自分がその中に入ることになるとは――。
ゲームの内容など、さっぱり知らない。
だが、どうやら“現実”として学園に通わねばならないらしい。
与えられた制服は、どう見ても制服というより舞踏会レベルの衣装。
胸元には宝石、裾には金糸の刺繍。ため息をつきつつ、それをまとって学園へ向かった。
門をくぐった瞬間、まぶしいほどの金髪が目に入る。
陽光を反射してキラキラと輝くその男――おそらく、あれが王子だろう。
「おはようございます」
口が、勝手に動いた。身体が自然に動く。すごい、これが“キャラ補正”というやつか?
しかし王子は、ちらりとこちらを一瞥しただけで、
「……おはよう」
と、ひどく素っ気ない声を残して歩き去っていった。
隣には、ふわふわのピンク色の髪をした少女――どう見ても“ヒロイン”が寄り添っていた。
一目見て、悟った。――あれは、いけない。
娘がインスタを眺めながら「これ、最低~。よくこんなん載せるね」と言っていた。
だが、当の本人を前にすると「インスタ、見ました~!」と声のトーンを上げて近づくやつ。……同類を感じる。
……王子、大丈夫か?
黙って観察していると、不意に背後から声がした。
「……大丈夫ですか?」
振り返ると、きちんとした姿勢の真面目そうな少女。整った制服、落ち着いた瞳。
――なるほど、今度は“優等生タイプ”か。少し好みだな。
「ありがとう、気にしてくれて……」
そう返して、軽く微笑む。
あまり話すと嫌われるからな――若い女の子ってのは、そういうところがある。
微笑みを残して、その場を静かに後にした。
その日、学園に小さな地震――いや、激震が走った。
「おい、聞いたか!? シャルロッテが、王子につっかからなかったらしい!」
「うそだろ!? あの“血の紅髪の嵐”が!?」
「それよりさ……女生徒に“ありがとう”って言ってたんだぞ!」
「あり得ない! 世界のバグだ!」
廊下という廊下がざわめき、生徒たちはまるで珍獣を見たような目で噂を飛ばした。
――その中心人物、シャルロッテ・ド・ガーネットはというと。
(ふむ、あの金髪は王子。ピンク髪はヒロイン。で、こっちは……先生か?)
まるで職場の新人チェックでもするように、周囲を冷静に観察していた。
彼女――いや中身おじさん――は、まったく気づいていない。
自分が今、学園史上もっとも平和的なシャルロッテとして記録されつつあることを。
平穏に学園の一日を終え、シャルロッテは屋敷へと戻った。
玄関をくぐった瞬間、広すぎるホールと金ぴかのシャンデリアが目に刺さる。
(……豪邸ってレベルじゃないな。前の家が急に質素に見えてくる……いや、別にボロ家じゃなかったんだけどな)
そんな軽い自己弁護を心の中でつぶやきつつ、部屋に戻って真面目に予習・復習をする。
“学生の基本”である。年齢に関係なく。
やがて夕食の時間。長すぎるテーブルの端に腰を下ろすと、父親が早々に口を開いた。
「シャルロッテ、最近はどうだ」
――来た。
あれだ、娘のことが気になって仕方ないタイプの父親。
悪い人ではないが、その質問は駄目だ。
“うざい”って言われて逃げられるパターンだ……。
「心配をかけないよう、努力しています」
苦心の末、丁寧な言葉をひねり出す。
父親は一瞬、時が止まったように固まり――目をうるませていた。
(おいおい、嬉し涙は隠せ……バレてるぞ)
「……そうか」
かすれた声でそう答える父。
その様子に少し胸が温かくなりながら、食事に手をつける。
……品数が、やたら多い。
しかも野菜が少ない。健康が気になる年頃としては見逃せない。
「料理長を呼んでくれないかしら?」
呼ばれて現れた料理長は、なぜか青ざめていた。
「な、何か問題でも……?」
声が裏返っている。どう考えても“怒られる前提”の反応だ。
「いえ。野菜が少なすぎます。もっと増やしてください。
あと、品数が多すぎます。肉か魚、どちらか一種類で十分です」
料理長はぽかんと口を開けたまま固まり――
「……わ、わかりました!」と背筋を伸ばして全力で退室していった。
その背中を見送りながら、シャルロッテ(中身おじさん)は思う。
(……うん。これで明日から少しは胃に優しい食事になるな)
翌朝、シャルロッテは珍しく夜明け前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光の中で、ひとり思う。
(……この身体、運動が足りん。)
昨日一日、学園で感じたことだ。階段を少し上っただけで息が上がる。
制服は重いし、ヒールは拷問だし、貧血気味だし――。
(若い頃の筋肉は一生の宝だ。中年になってからじゃ、筋肉がつく前に足腰がガタガタになるんだ……)
ふと、妻のことを思い出す。
昔はスレンダーで、どんな服も似合っていた。だが今は――。
(……まあ、その、腰まわりとか……人生の経験が積み上がった感じにな……)
人間、年を取ると“余計なところ”ばかり育つものだ。
ならばこそ、若いうちから鍛えておくのが重要。
「――よし、走るか。」
鏡の前のシャルロッテ・ド・ガーネット、真紅の髪を高く結い上げる。
その姿はまるで決意に燃える貴婦人……いや、完全に“朝活おじさん”だった。
誰もいない邸宅の周囲を、身軽な服装で走る令嬢の姿。
使用人たちは窓からそれを見て、顔を見合わせた。
「お、お嬢様が……走っておられる!?」
「えっ……あの、運動嫌いのシャルロッテ様が!?」
息を切らしながら庭を一周するシャルロッテ(中身おじさん)は、
汗をぬぐって満足げにうなずいた。
一汗かいたので、シャルロッテはシャワーを浴びることにした。
屋敷の浴室に足を踏み入れて、思わず感嘆する。
(……流石、ゲーム世界。トイレもお風呂も、現代日本式。こういうところは素晴らしいな。)
湯を浴び、汗を流す。
だが、そこで気づく。
(この石鹸……品質、悪すぎないか?)
泡立ちは悪いし、香りはやたら強いのに、洗い上がりはギシギシ。
娘がかつて、いろんなシャンプーやボディソープを試しては、
「うーん、いまいち。使っておいて」と俺に押しつけてきたのを思い出す。
妻はといえば、自分専用のブランド品しか使わない。
香り、泡立ち、仕上がり――否応なしに身体が覚えている。
(……これは、石鹸の見直しが必要だな。研究対象入りだ。)
結局、石鹸は諦め、軽く汗を流すだけにとどめた。
そして鏡の前。髪を整えながら、視線がふと香水の瓶に止まる。
(……香水、か。)
会社員時代の記憶がよみがえる。
あの日――隣の資料室で書類を整理していた時のことだ。
女性社員たちの笑い声が聞こえてきた。
『あの課長、臭いよね』
『そうそう、なんか匂う』
『香水が合ってないのよ。かければいいってもんじゃないのに』
『これ、かける?』
『それ、消臭スプレー』
(……あれは、心に刺さったな。)
あのとき、俺は静かに崩れ落ちた。
普段は笑顔で「香水、使ってるんですね~」なんて言っていた彼女たちが、
裏ではそんな評価をしていたとは……。
(香りは……大事だ。慎重にな。)
数ある香水の中から、一つひとつ香りを確かめる。
甘すぎず、重すぎず、上品に香る一本を選んだ。
ほんの少しだけ、手首に。
「そう――僅かに匂わせるのが正しい。」
鏡の中のシャルロッテ・ド・ガーネットは、まるで自信に満ちた貴婦人。
だが中身は、“香水の失敗を二度と繰り返したくないおじさん”である。
そうして彼女――いや彼――は、香りをまとい、
今日も堂々と学園へ向かって歩き出した。
重たい制服を着ながら、シャルロッテはため息をついた。
(これ、絶対布の量おかしいだろ……肩が凝る。)
どうにか改良できないものかと考えつつ、今日も学園の門をくぐる。
――いた。
また、王子とその取り巻きたち。
(おいおい、登校風景までテンプレか。毎日ここに立ってるのか?)
関わってもロクなことにならない。
軽く会釈だけして、さっさと通り過ぎる。
中身が50代直前のおじさん、余計なイベントフラグは絶対に踏まない主義だ。
朝、トイレの鏡の前に立って、シャルロッテ(中身おじさん)は思った。
(流石、公爵令嬢。姿勢はいいな……!)
背筋はまっすぐ、立ち姿も完璧。歩けば髪が優雅に揺れる。
どこから見ても“令嬢”。
――ただし、顔がちょっと怖い。
(む……口元が固いな。娘ならこういう時……)
記憶をたどる。
そう、娘はいつもやっていた――あの絶妙な口角の上げ方を。
いつでも、どこから見ても「優しそう」に見える魔法の角度。
(あの口角で、どれだけの男が騙されたことか……!)
鏡の前で、こっそり練習を始める。
キュッと上げすぎると作り笑い。
緩すぎると不機嫌顔。
何度も微調整を繰り返し――
(……これだ! 一番、綺麗に見える形!)
さらに目元もほんの少し柔らかく。
まさに“見ているだけで癒される系”の微笑み。
(あとは、これを常態化させるだけだ。)
その日、シャルロッテ(中身おじさん)は一日中、口角を意識して過ごした。
昼休みも、授業中も、廊下を歩く時も。
顔の筋肉が若干つりそうになりながらも、笑顔をキープ。……やめたら、敗けだ。
授業が始まる。
(ふむ、昨夜予習しておいてよかった。)
質問を当てられても、すらすらと答えられる。教師が目を丸くした。
「……よくできました、シャルロッテ様。」
「いえ、当然のことをしたまでです。」
(ドヤ顔してるけど中身はただの元サラリーマンだ。すまんな先生。)
昼休み。
取り出したのは、昨夜料理長に頼んで作らせた特製弁当。
(身体は食べ物からだ。適当なものは許さん。)
中身は良質なタンパク質と、彩り豊かな野菜。よく噛んで味わって食べる。
周囲の生徒が遠巻きに「なんかいつもと違う?」とざわつく。
食後は読書の時間。
(知識が足りん。若い頃はもっと勉強しておくべきだった……)
と、反省モードで本を読み始める。
ふと、視線を上げると――またいた。
王子とその取り巻きたち。
(うわ、またか。フラグ回避、フラグ回避。)
見なかったことにして、本に目を戻す。
……ん?
ページの文字が、くっきり見える。
いや、どころか、遠くの時計の針まで見えるぞ。
(……老眼が、無い。)
思わずページを握りしめた。
(なんてことだ……若いって、こんなにも見えるのか……!)
感動が込み上げ、瞳がじんわり潤む。
その様子を見た隣の生徒が小声でつぶやいた。
「……シャルロッテ様、本に感動して泣いてる……尊い……!」
違う。
中身はただ、視力が戻って感動しているおじさんである。
――そして次の日、学園はざわついた。
「ねぇ聞いた!? 昨日のシャルロッテ様、涙してたんだって!」
「うん、それに……なんか、すごくいい匂いだった!」
「授業態度も完璧で、しかも優しそうな笑顔だったらしいわよ!」
「どうしたの!? 誰か入れ替わったんじゃ――」
(……入れ替わってます。)
当の本人はそんな騒ぎなど露知らず、
今日も静かに“笑顔筋”を鍛えながら登校していた。
そんなある日、シャルロッテ(中身おじさん)はある重大なことに気づいた。
(……制服の胸が、きつくなったな。)
体型が変わったのか、ドレスの造りの問題か、どちらにせよこれは無視できない。
(よし、この際だ。制服はシンプルなのにしよう。重いのは面倒だ。)
だが、公爵令嬢の身分も忘れてはいけない。布は高級品であるべきだ。
(会社でも、威厳は重要だったな……スーツひとつでも見られていたからな……)
思い出すのは、若かりし頃、隣のデスクから聞こえてきた女性たちの会話。
「聞いた? あの課長、スーツ○○○らしいよ」
「うわ~、ひくわ」
「給料貰ってるんだから、もっと良いの着ればいいのに」
「ケチなんだって」
「靴も微妙だよね~」
(……服装に金をかけるのは、武装と一緒なんだよ……!)
頭の中でプランをたてる。
「よし、高級素材、シンプルデザイン、動きやすさ重視――そして威厳!」
制服改革計画――中身50代おじさんの、美学とプライドが炸裂する瞬間である。
こうして、今日もシャルロッテは“優雅さと威厳を両立させる公爵令嬢”として邁進するのであった。
こうして、いつしかシャルロッテ・ド・ガーネット――かつての悪役令嬢――は、悪役ではなくなった。
学園でも邸宅でも、誰からも愛される存在になり、歩くたびに品格と優雅さが漂う。
中身が50代のおじさんだろうと、誰も気にしない。むしろ自然に馴染んでしまうのだ。
王子も、ふと気づいた。
(あれ……? シャルロッテって、こんなに綺麗だったっけ……?)
微笑む口角、柔らかい瞳、凛とした姿勢、滲み出る知性――すべてが完璧に調和している。
……王子は思わず立ち止まった。
こうして物語は静かに幕を閉じる。
悪役令嬢はもはや悪役ではなく、ただ一人、堂々とした令嬢として、世界の中に立っていた。