マルチエンドなこの世界
自分が前世で読んだ漫画の世界に転生したと気付いたのは、割と早い段階だった。
あらまぁ、このままいけばあの漫画通りの展開になって断罪されたりしちゃったりなんかして……?
そう思った私は、さぁてどうしたものかしら……と数秒だけ悩んだのである。
一番手っ取り早いのは、悪役令嬢と対立する――つまりは、ヒロインを排除する事だ。
ヒロインがいなければ悪役令嬢は悪役令嬢としての役目を果たす必要がない。
だがしかし、もし仮に。
世界の強制力とか原作の修正力といったものが存在していたとしたら。
前世だったら創作にはありがちだよね、で笑い話にできるけど、しかしここは前世と比べて異世界に該当する。
どんなとんでも展開があったとしてもおかしくはない。
であれば、悪役令嬢が破滅しないためには、なるべく原作に沿いつつ上手い事回避しないといけないわけで……
……難易度高くありません?
下手に原作から逸れるような事をして修正力だの強制力だのが発動した場合、やってもいない悪事が何故だか私がやった事にされる恐れもあるわけで。
確かに今は私、悪役令嬢以前にそれなりの身分の令嬢なので、できる事はそこらの平民より全然ありますけれど、それにしたって難易度高くありません……?
ざっくり原作の話を述べるのならば。
まぁありがちな話なので三行で説明する。
身分違いの恋。
そんなヒロインを陥れようとする悪役令嬢。
最後はヒロインちゃん大勝利。
これだけ見ればとても王道。
もう少し詳しく述べるのならば、悪役令嬢アイリスの婚約者である公爵家の令息ルキウスは、ある日お忍びで市井に出向き、そこで孤児院で暮らす少女と出会う。
貧しいながらも凛とした少女にどこか気になるものを感じ、ルキウスはそこから少女――ヒロインであるミーシャと何度か顔を合わせそうしていくうちに少しずつ惹かれていく。
ところがそれを面白く思わなかったのが悪役令嬢たるアイリスだ。
最近婚約者であるルキウスの様子がおかしい。どこぞの令嬢に心奪われでもしたのだろうかと思い調べてみれば、令嬢どころか孤児院暮らしの平民にその心が向けられている。
なんという事……!
アイリスの権力をもってすれば平民一人消すのは容易だが、しかしそこで簡単に殺されてしまっては話にならない。メタメタな話だが、同時に高貴なるものが下々の存在に対して全力でかかるなど、みっともない……という風潮が貴族にはうっすら存在しているという事もあって、悪役令嬢はヒロインである少女へじわじわ嫌がらせをして追い詰めるのである。
だがそれらを乗り越えたヒロインはなんと実はとある貴族の血を引いた存在だと発覚する。
結果として、アイリスは悪役として転落し、ルキウスとの婚約は破棄され戒律がとても厳しいとされる修道院へ送られる事で舞台から消えるのだ。
実は高貴なる存在だと判明するミーシャだが、その決め手は彼女が生まれた時に持たされていた指輪である。
原作ではミーシャの両親は許されぬ恋をした結果駆け落ちをしていた。
ミーシャの母は王家と縁がある侯爵家の出で、男は低位身分だったが跡取りにもなれぬ者。
そしてミーシャの母には当時婚約者がいたのだが、それらを捨てて二人は駆け落ちし、今までの生活とはがらりと異なる環境に身を置きながらも、貧しいながらもそれでも小さな幸せを見出しつつ生活していた……らしい。
そこら辺は原作もふわっとしか描写がないのでこうして転生したアイリスも詳しくはない。
ただ、では何故ミーシャが孤児院にいるのかとなると。
確かに貧しいながらも幸せに暮らしていたミーシャの両親であるけれど、しかしそれはミーシャがこの世に生を受けた時にその幸せは崩れ去った。
母親が出産に耐え切れなかったのだ。
ミーシャを産み落とした直後にはもう死んでいた。
愛する女の忘れ形見であるミーシャを、父である男はしかしこの子のせいで愛する妻が死んだと思ってしまった。
まぁ、十月十日胎の中で育てていた女と違って男は産むわけではないので、愛着が持てなかったのだろうなとは思う。
勿論そうではない男性も世には多くいるけれど、しかしミーシャの父に関してはそういう相手だったというだけだ。
結果として男はその場で赤ん坊を殺してもおかしくなかったが、流石に人殺しまではできなかったのか、はたまたギリギリほんの少しだけ残っていた良心とか父性かは知らないけれど、ミーシャに母親が唯一彼女の実家から持ってきていた彼女の身分を示す家紋が刻まれた指輪を紐に通し、首からかけて――
そうしてミーシャは孤児院の前に捨てられた。
ちなみにその後父親だった男は捨てた事への後ろめたさと目撃者が出る前に速やかにその場から逃げなければという気持ちからか、周囲への注意を疎かにし馬車に轢かれ命を落とした。
その時の音で孤児院の院長が何かあったのだろうか、と外に出た事ですぐにミーシャの存在に気付き、彼女は無事に孤児院に引き取られたのである。
ミーシャの存在に気付くのがもう少し遅かったなら、季節は冬だったし最悪凍死していた可能性もあった。
ともあれ、無事にミーシャは孤児院で育っていったのだ。
そうしてある程度の年齢になって、孤児院を出て独り立ちしなければならない、という準備を始めていた頃に彼女は。
アイリスの婚約者でもあるルキウスと出会い、そうして恋に落ちるのである。
お忍びで身分を隠しているとはいっても、やはり隠し切れない育ちの良さにミーシャは薄々自分が好きになった相手は高貴なお方であると気付いていた。
けれども相手から直接言われたわけでもないうちは、まだ、この恋は許されるのだと思いたい気持ちもあってか、原作ではとてもじれったい展開になるのである。
ミーシャがそろそろ孤児院を出なければならない、という直前になって、ミーシャを見たとある貴族が彼女を家に引き取る。
その貴族がミーシャの血縁だった、というわけではない。
ミーシャを引き取った貴族は、ミーシャの母親の生家と交流があり、ミーシャを見て母の面影を感じ取り、もしかして……? と思った事で彼女を引き取った。
直接ミーシャの祖父母にあたる相手に連絡をしなかったのは、単純に祖父母が孤児院のある王都にいないからであり、またのんきに連絡をしている間にミーシャが孤児院を出てしまう可能性が高かったからである。
なので早急に養子として引き取り、そこから彼女の身元調査が始まって、決め手は母の残した指輪である。
祖父母にしてみれば駆け落ちして行方知れずになっていた娘の残した子。
思うところがないわけではないが、それでもミーシャにまで罪があるでもない。
駆け落ち当時は許せなかったものも、しかし長い年月が過ぎた事である程度の後悔にもつながっていたのだ。
今なら許してあげるべきだった……と思えていたからこそ、母の生き写しだったミーシャは受け入れられた。
引き取られた家から、更に母の実家である家に、と身分も平民から子爵家、そこから侯爵家と上がり、そうなった事でミーシャは公爵家の令息であるルキウスと結ばれる事に関して、身分と言う点では何の問題もなくなってしまった。
アイリスは伯爵家の娘だ。
そんな娘が嫌がらせをしていた相手が実は自分よりも上の身分だった、となれば。
当時は平民だったのだから知らなかったというのはそうだが、だから無罪というわけにもいかない。
結果としてアイリスはルキウスとの婚約を破棄され、そうしてルキウスとミーシャは結ばれるのである。
「突っ込みどころはいくつかあるけど、まぁ創作物なんて大体そんなものだし、勢いがあってナンボみたいな部分もありますものね……」
推理物だったらボロカスに叩かれても仕方ないかもしれないが、それ以外のジャンルならまぁ……多少のアラはご愛敬とでもいうべきか。
思えばいくつかの伏線も回収されてなかった気がするので、もしかしたら前世のアイリスが死んだ後でそこら辺スピンオフとかで回収されたりしていた可能性もあり得る。
スピンオフが出なくても、作者個人がどこぞの創作投稿サイトなどで補完していたりだとか。
どちらにしてもその情報を今のアイリスは知りようがないので、どうしようもないのだが。
前世の記憶を割と早い段階で思い出したのもあって、ルキウスとの婚約は仮婚約にならないか両親に相談した結果、現在正式な婚約にはなっていない。
アイリスやルキウスが成長していく上で、政治事情が変わらないとも限らないし、そうなった時婚約の結びなおしをすると大変なのだ。
なので二人が結婚できる年齢になるまでは仮の婚約という形に落ち着いた。
何事もなければ仮という部分が外れて正式な婚約者となり、そのまま結婚へ至るだろう。
なんて両親は言っていたが、何事かはあるだろうなというのがアイリスの正直な感想である。
原作でのアイリスは幼い頃に婚約者だとされたルキウスをえらく気に入って、恋というよりいっそ執着に近い感情を抱いていた。
そのせいでことあるごとにルキウスと関わろうとして、結果ルキウスはそれに辟易する形となるのだ。
まぁ、幼い男児に色恋のなんたるかを理解しろというのは難しいだろう。まだ恋とか何それ状態だろうし、そうでなくとも友人とバカやってる方が楽しいと思う年齢だ。
なのに、そこにアイリスがルキウスの都合も無視してべったり、となれば。
原作のアイリスとルキウスは間違いなく相性が最初の時点では悪かった。
ところが今の二人は、仮の婚約なので距離感も正式な婚約者より程々であるし、何よりアイリスが原作のアイリスとは異なるのもあって、とてもさらっとした関係。
なのでそこまで拗れてもいない。
拗れていないから上手くいっている、とは限らないが。
拗れてなくたってルキウスとミーシャが出会う事はあり得るし、二人が恋に落ちる可能性だって勿論ある。
――と、ここでアイリスはふと思い至った。
別にヒロインであるミーシャを虐めるつもりはないけれど、それでも原作の通りに進む可能性はある。
やってもいない虐めをしたなんて言われて戒律の厳しい修道院に送られるのだけは避けたい。ルキウスとミーシャがくっつくのはまだ許せる。
であれば、私がすべきことは――
というわけで。
アイリスはミーシャがいる孤児院へ赴き、彼女を引き取る事にした。
ここで下手にミーシャを害そうとすれば、原作の修正力が働く可能性もある。
だが、アイリスがミーシャを引き取る事に関しては邪魔が入らないのではないか、と考えたのだ。
ミーシャは貴族の家に引き取られる。
そうして身分という壁がなくなればルキウスと結ばれる。
これを最初からどうにかしようとすれば修正力が働く可能性もあるが、そうでなければ。
ミーシャが最初子爵家に引き取られようとも、伯爵家に引き取られようとも最終的にルキウスとくっつくのに問題がなければいいのでは? とアイリスは考えたのである。
結果として、それは問題なくできてしまった。
最初アイリスはミーシャを自分付きの侍女にするべく引き取った。
そもそもが今まで平民として暮らしてきた孤児だ。身分だけ突然ランクアップさせたところで、立ち居振る舞いが淑女になるわけでもない。なので最初は礼儀作法を学ばせるつもりで、侍女にしたのだ。
勿論、普通に考えたら孤児が貴族令嬢付きの侍女になるなんて大出世だ。
孤児院を出てこの先一人で生活しようにも、上手くいかない場合はあるし、大きな怪我や病気になればその時点で人生詰む。この世界はアイリスが前世で生きていた日本よりも福利厚生は充実していないので。
衣食住をきっちりそろえるとなると、親がいる平民ならまだしも、孤児は中々そうもいかない。
原作ではミーシャを引き取った子爵は、元々王都から領地へ戻るつもりだった。その時にたまたまミーシャを見て、その面影に知っている存在を見出したからこそ彼女を引き取ったのだ。
アイリスが調べた時点で子爵はまだ王都にいたけれど、それだって王都に用事があって訪れただけなので、用が済んだらさっさと領地へ戻るべく去ってしまっている。というか子爵はそうやってちょくちょく王都と領地を往復しているので、ヒロインとの出会いは少し何かが違えばもっと早くにあったのかもしれなかった。
だがミーシャが子爵の家に必ずしも引き取られなければならない、というわけではないようだった。
それどころか、伯爵家という本来ミーシャを引き取る子爵家よりも上の立場の存在に引き取られたのだから、世界的にもそれで良しとなったのかもしれない。
いや、それよりも。
(どうにもヒロインさんも私と同じ転生者のようだし、もしかしたらそのせいで修正力が消えたか、そもそも最初からなかったのでは……?)
そう思いはしたものの、修正力があったかどうかなんて最初から確かめようがなかった。
聞いたら神の使いとかがひょいっと現れて教えてくれるようなものでもないのだ。
(修正力とか強制力を恐れていましたけれど。
これ、もしかしなくても私の独り相撲だった……?)
そう考えるとアイタタター……なんて言って額に手をぺちんと当てて天を仰ぎたい気持ちになったけれど。
まぁ、修正力とか強制力とか。
そんなものがない、というのなら。
(それならそれで、何も問題はありませんね)
自分が戒律の厳しい修道院に行く未来さえ回避できればアイリス的にはオールオッケーなのであった。
――前世で読んでいた漫画の世界に転生した、と知ったヒロインでもあるミーシャは、最初こそ孤児院での生活に不満を持っていたが、しかし最終的にはハッピーエンドが待っているとなれば。
露骨に不平不満を漏らす事もなく、ただその未来が来るのを待つだけであった。
プライバシーも何もあったものではない孤児院生活は、とてもストレスだった。
隙間風が入ってくるし、周囲の子の話し声も聞こえてくるし、そうでなくとも落差が激しすぎるのだ。
一応孤児院を経営している院長先生やその手伝いをしているシスターもいて、最低限の読み書きくらいは教えてくれたけれど、まぁこれが酷い。
大人が酷いのではない。
同じ孤児という立場の子だ。
勿論、先を見据える事ができる程度に頭のいい子はきちんとお勉強を習うけれど、目先の事しか見えていない子たちは遊ぶ事に夢中でお勉強となると途端に唇を尖らせて「えー」と不満を漏らすのである。
やる気もないので中々身につかない。
ミーシャはそんなおバカな子たちを見て戦慄した。
バカだから目先の楽しそうな事にホイホイ飛びつくし、こいつら簡単に騙されそう。
ってか、読み書きとか簡単な計算もできないとなれば将来どうするつもりなのかしら……?
仕事とか、単純作業しかできないんじゃないの?
職人に弟子入りして見て技術を盗め、とかでやってくつもりなのかしら?
でも、今の状態からして絶対そういうの苦手そう。
え、ちょっと考えたらお先真っ暗じゃない?
儲け話に簡単に乗っかってそれが実は犯罪でした、ってオチが普通にありそう。
前世だと漢字はまだでも平仮名とカタカナくらいは読めていないとおかしい年齢の子たちは、しかしここではマトモに読み書きもできていないのである。
このまま成長したらどうなるんだろう……?
生まれてから死ぬまで底辺に違いないわ……!
その点自分は先の未来を知っている。
だからこそ、前世と異なる文字であろうともどうにか必死に学んだ。
猿みたいに騒がしい子たちとは距離をとって、そこそこ話が通じる子たちと関わった。
何人かは裕福な商人とか、そういう家で働く人間が欲しいという事で引き取られていったけれど、しかしそれはたまたま孤児院に来て目についた相手を引き取るのではなく、その子たちが直接自分を売り込みに行ったからだ。
ミーシャはそういう事をしていなかったので、特にそういう話も出てこなかった。
引き取られていった子たちも、特にミーシャを推薦するつもりはなかったようだ。
もしかしたら自分の立場が脅かされるとでも思ったのかもしれない。
そのうち貴族に引き取られると知っていたミーシャは、その日が来るのを待った。
そうして引き取られた先は、しかし原作と異なる家。
「どういう事……?」
思わず呟きが漏れるのも仕方なかったが、聞けば侍女として引き取りたいのだとか。
ミーシャはまだルキウスと知り合ってすらいない。けれど、貴族の家の侍女ともなれば、そちらの方がもしかしたら出会う機会も増えるのではないか……と考えて、その家に行く事を決めた。
そうしてそこが、ヒロインを虐める悪役令嬢の家だと知ったのである。
原作とは違う展開。
それだけで自分以外にも他に転生者がいると察する事はできたし、ハッキリと誰がそうと言われなくてもこの時点でミーシャは察してしまったのである。
ヒロインである自分が転生者なら、悪役令嬢も転生者でおかしくはない、と。
もしかしたらここで自分は殺されてしまうのではないか、そんな風に最初は考えた。
だからつい、警戒してしまった。
原作ではヒロインに嫌がらせをしまくった悪役令嬢だ。しかもここは相手のホーム。
何かをされても簡単にもみ消されてしまうのではないか……最悪殺されてしまうかも。
そんな風に思ってしまったのである。
そしてその想像が合っているかのように、周囲は自分に対して冷たかった。
これはきっと悪役令嬢の仕業ね……! と思っていたので、いつか反撃に出る機会を窺っていたのだが……
婚約者候補であるルキウスと出会って、それが間違いであったと気付いたのだ。
原作でミーシャはお忍びで市井にやってきた、貴族だけど平民の振りをしていたルキウスと交流を重ねていた。
だが今、こうして出会った時点でミーシャは侍女見習い、ルキウスは正しく公爵家の令息という立場だ。
だからこそ原作と同じように接する事はできなかった。
原作で最初に出会った時のように天真爛漫なヒロインムーブをした結果、ルキウスは不愉快なものを見る目を向けて、早々にミーシャと目を合わせる事もなく、声をかけるでもないままに去っていってしまった。
その後侍女頭からミーシャはお叱りを受けた。
確かにミーシャには貴族の血が流れてはいるけれど、しかし今はまだその事実は明るみにでていない。
つまりは周囲はミーシャの事を平民だと知っているし、そんな相手が無礼にも公爵家の人間に声をかけたのだ。
そう言った部分をみっちりと叱られる事となってしまった。
叱られて、罰として食事を抜かれたミーシャはふてくされて、部屋で大人しくしていればいいのに咄嗟に屋敷を抜け出して孤児院へと向かった。
今からでも原作でミーシャを引き取った貴族と出会えば、何かが変わると思ったのだ。
けれど、ミーシャはすっかり忘れていたのだ。
ミーシャが引き取られる事になったのは、まさしく孤児院を出る直前だった。
原作では正確な日付はなかったが、しかしここで暮らしていたミーシャは知っている。自分がいつ孤児院を正式に出て行く事になっていたかを。
既にその日はとっくに過ぎている。
侍女見習いとして日々忙しくしているうちに、すっかりその日は過ぎてしまった。
今からでも子爵を探せば何かが変わるかも……
だが、孤児院に子爵が訪れたのはあの日だけ。普段からよく足を運ぶ人ではなかった。
であれば、ここにいても子爵に繋がる情報は得られない。
結局とぼとぼと屋敷に戻って、そうして暇を見つけては子爵の事を調べる事しかできなかったのである。
「――子爵でしたら、既に領地に戻られましたわよ」
そうミーシャに告げたのは、言うまでもなくアイリスだった。
休憩時間に書斎に忍び込んで貴族名鑑を確認していた時の事だ。
「……っ!?」
「あら、何を驚かれてますの?」
「だって貴方が……!」
「私? 確かに原作ではあの子爵が貴方を引き取るはずだった。けれど実際は私が引き取っている」
「そう。そうよ、やっぱり貴方も転生者だったのね。一体わたしをどうするつもりなの!?」
「どう、と言われましても……私は、もしあの物語のように貴方がルキウス様と結ばれるのなら、それでもいいと思っておりますのよ?」
「嘘! だったら」
「だから、そのためにまずは礼儀作法を覚えてもらおうと思いましたの」
「……え?」
何を言われたのかすぐにミーシャは理解できなかった。
こてん、と首を傾げるようにして、アイリスはそんなミーシャを見る。
「だって、考えてもみて下さいな。仮に貴方の本当の家に戻ったとして、お話の世界ならそこで結ばれてハッピーエンドで終わりますけれど。
この世界は今の私たちにとっては現実ですのよ?
つまり、そこで終わりではないのです。
そうなるとどうなるか。
公爵家へ嫁入りする貴方は、まず礼儀作法などが全然できていないので、それはもう大変な思いをしながらも急ピッチで覚える事になります。礼儀作法だけではなく公爵夫人として必要な知識も。人との接し方も。
物語では決して語られる事のなかった裏では、とんでもない目に遭うのです。
流石にそれは可哀そうだな、と思ったからこそ、私はこうして礼儀作法を身につける機会を、と一足先に貴方を引き取る事に致しましたの」
でも……とアイリスが俯く。
「でも、貴方は侍女としてもまだまだで、いつも周囲から叱られてばかり。本当に礼儀作法を覚えるつもりがあるのかもわからない始末。
最初から完璧を望んだりはしていないからこそ、まずは侍女として、それこそ低位身分の令嬢のように行儀見習いから始めるべきかと思いましたのに……」
俯いていた顔が僅かに上がる。
「それだけではありません。貴方、初対面のルキウス様に対して失礼な態度をとったようね。
折角私、ルキウス様とは正式な婚約を結ばず仮婚約に留めておきましたのに……そうする事で私が悪役令嬢をしなくても貴方がルキウス様と結ばれるように……と手はずを整えたのに……」
「え?」
悪役令嬢は味方だった……?
そうミーシャが困惑しているのを感じ取ったかはわからない。けれどアイリスは、
「私だって好き好んで人を虐げるような真似したくはありませんし、何より原作のヒロインの事は嫌いではありませんでしたもの。
だから、自分が破滅しないように、それでいて貴方が幸せになれるであろう道を模索いたしましたのよ」
かすかに笑う。その表情に悪意は無い。それはミーシャにも理解できてしまった。
だからこそそんな風に言われて、ミーシャの頭は混乱しつつあった。
実際のところどうなのか、と問われれば。
アイリスは割と本心で答えていた。
少し早めに引き取って、ミーシャに礼儀作法を叩きこんでそうしてルキウスと出会えば、それとなく二人の様子を窺って、上手くいきそうなら我が家の養女……にはできなくても、寄子のどこかに引き取ってもらってそこから同派閥の高位貴族の家に引き取ってもらい、身分を整えた上でくっつける事くらいは、原作を崩壊させた以上やるつもりではあったのだ。
ヒロインだって玉の輿狙いで頑張ってくれるだろうと思っていたのに、しかしそこでアイリスの思惑は外れた。
彼女はいつまで経っても中々礼儀作法が身につかなかったのである。そうこうしているうちに屋敷に訪れたルキウスに対して失礼な態度を取ってしまった事で、ルキウスから見たミーシャの第一印象は最悪になってしまった。
今後、彼女は自分の目のつく範囲におかないようにしてほしい、と言われてしまったのである。
彼が来る時は事前に連絡が来るので、そうなればミーシャとルキウスが出会うような事にはできようもない。
それこそ不測の事態が起きるか、ミーシャが言いつけを守らずやらかすかのどちらかだ。
そしてもしやらかしたのであれば。
今のミーシャはまだ正式な貴族ではない。
確かに血筋は貴族のものだが、しかしそれはまだ明るみに出てすらいないのだ。現時点でミーシャが貴族の血を引いていると知っているのは前世で原作知識を得ている転生者だけだ。
なので今の時点でミーシャが自分は貴族の血を引いていると言ったところで、まずは身分を詐称した疑いが向けられる事になる。疑いを晴らすためにはミーシャが持っているであろう母親の指輪と、あとは彼女の祖父母にあたる人物の協力が必要になるとは思うが、ミーシャの祖父母にあたる人物に貴方たちの血縁かもしれない人物がいます、と話を持ち掛けたところですぐさま向こうが足を運ぶかどうかもわからない。
その場合ミーシャの出自がハッキリするまでに時間がかかる可能性があり、場合によっては早々に平民として処分される可能性も出てしまう。ここが日本であるならばはっきりするまでの猶予は与えられるかもしれなかったが、日本どころか異世界なのだ。ましてやその時点で平民扱いのミーシャが丁重に扱われるか、となると……どちらかといえば死ぬ可能性の方が余程高い。
それをミーシャが正しく理解しているかも謎だ。
(もしかしたら理解できていないかも……)
もしミーシャが自分はヒロインなのだから何をしても上手くいく、と思っているのならアイリスが何をしたところで駄目だろう。
アイリスは自分がわざわざ悪役令嬢の立場になりたくはなかった。人を虐める、という行為を率先してやりたいわけではない。自分の身を守るために、降りかかる火の粉を払う事はあってもそうでもないうちから誰かを害するというのはどうしようもない状況にならない限り極力やりたくはなかった。
だがアイリスが悪役令嬢をしない事で、最初の頃に恐れていた物語の修正力とか強制力、はたまた同じ転生者であるミーシャがこちらに悪役を押し付けて無理矢理冤罪を吹っ掛ける……などという事も考えられたからこそ、アイリスはアイリスなりに穏便にミーシャがルキウスと結ばれたいのであればそのための布石を、と考えたのである。
アイリスが原作通りにミーシャを虐げた結果婚約破棄をされれば、家にも迷惑がかかる。アイリスはそれを望んではいなかった。家族との仲は悪くないのだ。だからこそ、原作のような事になれば家族に迷惑をかけてしまうとわかりきっている状況で、原作通り悪役令嬢をこなそうなんて思うはずもない。
本当ならミーシャを孤児院から引き取る時に話ができればよかったのだが、あの時点で二人きりで話をするという事ができなかった。どうしたって第三者の目が存在していたので、転生者だとか、原作だとかの話などできるはずもなく。
引き取った後も周囲に誰かしらの目があったので、二人きりになる事が難しかった。
アイリス付きの侍女見習い、という事にしたので機会があれば二人きりになれるはずだったのに、しかしミーシャのやる気がなかったせいか常に彼女は他の侍女がついていて、アイリスがミーシャと二人で話したい、などと言ったところで聞き入れられない状況だったのだ。
せめて彼女がもう少し優秀であったなら……
やる気もなく雇い主に対してあまりよろしくない態度だったのもあって、周囲はアイリスとミーシャを二人きりにできないと判断していたのだ。
そうでなくとも原作と異なる展開にしてしまったアイリスを警戒していたようなので、二人きりで話をしたいといったところで、果たして聞き入れてくれたかはわからない。
孤児院でミーシャを引き取る時に直接話ができれば一番良かったのかもしれないが、それもできなかった。ミーシャを引き取りたい旨を伝える事はできたけれど、実際引き取る時そこにアイリスはいなかったし、迎えに行ったのはアイリス付きの侍女の一人だ。彼女に事情を説明できれば良かったが、しかし彼女は転生者ではないためにそんな話をしたところでアイリスの頭がおかしくなったと思われても困る。
それでもと行動に出たものの、結果としてアイリスの思惑通りに展開は進んでくれなかったのである。
だが、それでもミーシャはやって来たのだから、機会があると信じていたのに。
台無しにしたのが果たして誰だったか、と言われればアイリスもそうだがミーシャもまた同様だった。
アイリスは自分が悪役令嬢にならないために穏便な手段をとろうとしたけれど、だがミーシャはそうは思っていなかった。それはなんとなく察する事ができた。
本来子爵家に引き取られるはずがそれよりも家格が上の家に引き取られた事で、もしかしたら原作よりももっと楽にヒロインとしてハッピーエンドを迎えられるかもしれない、だとか、そんな風に都合よく考えたのかもしれない。
言うのが遅れてしまったけれど、それでもアイリスは別にミーシャを不幸にしてやろうなんて考えたわけではない。そこは確かだ。ただ、ミーシャの幸せのために自分が不幸になりたくはない、というだけで。
そこら辺も含めてアイリスは今がチャンスとばかりに自分の考えを伝えたのだけれど。
それでもまだ、ミーシャはどこか不満そうだった。
「……貴方がこのままこの家にいたくない、というのなら、それも仕方がないと思っています。
この家を出て改めて貴方の祖父母の家に行って身分を確定させるというのならそれでも構いません。
けれど、ここで侍女としてある程度礼儀作法を覚えた方がいいのではないか……と私は思っています」
平民、それも孤児として生活していたミーシャに貴族としての立ち居振る舞いは現在できていない。
前世でそれなりの教育を受けていたといっても礼儀作法は前世と今とでは異なる。
例えばミーシャが原作とは異なる未来――ルキウスと結ばれる事を望まないのであれば、それでもいいのかもしれない。けれどミーシャがルキウスと出会った時、彼女はルキウスに近づいていた。
原作と異なる出会いであってもそうしたという事は、ミーシャはルキウスと結ばれる事を望んでいると考えるべきなのだろう。
仮に本当の家族――祖父母のいる家で学ぶにしてもだ。
王都から離れた領地となると、ルキウスと出会う機会はぐんと減る。
原作では結ばれるまで秒読みみたいな状態で、少しだけ待っていて下さい……とミーシャがルキウスに言い残していたけれど、今の状況で離れたとして、肝心のルキウスの好感度は上がってすらいない。それどころかゼロか、マイナスだ。その状態でミーシャが貴族としてルキウスの前に現れたところで、以前アイリスのところで行儀見習いとして入ったくせにマトモな礼儀もなっていない相手、という悪い印象しかないはずだ。
それならばまだ、ここで貴族令嬢として必要なものを身につけつつも、ある程度の頃合いでアイリスがルキウスにミーシャを紹介する流れを作る方がミーシャにとっては可能性がありそうな話ではある。
アイリスはアイリスなりに考えているのだが、それがミーシャに伝わるかどうかは別の話だ。
実際にミーシャは少しだけ考え込んだ。
確かにここで貴族令嬢として必要なものを教えてくれる、というのであればそれに乗っかるべきなのだろう。
けれどミーシャは最初の時点で悪役令嬢が何かを仕掛けてくるのではないか……? と疑心暗鬼に陥っていたのもあって、その態度のせいでアイリスの周囲の使用人たちからの印象はあまりよろしくはない。
アイリスに冷たい態度を取られた……なんて男性の使用人を味方につけようとして口にした事もあるのだが、それが裏目に出た。
普通に考えたらそうだろうよ、となりそうなものなのだがしかしミーシャはヒロイン補正があるのではないか、と甘く見ていたせいでやらかして自らアウェーな立場になりにいったのである。
アイリス様の態度が厳しくって……なんて言ったところで、至らないのはミーシャなのだから使用人たちからすればそりゃそうだろう、としかならないわけで。
それどころか、引き取ってもらっておいて失礼にも程がある、となってミーシャへの風当たりは冷たくなってしまった。
主と使用人、という立場であれば虐められただのなんだの言ったところで、その扱いがあまりにも不当なものである、とならない限りミーシャの言い分など聞き入れられるはずもなかった、という事実にミーシャは気付いていなかったのだ。
そのせいで、この屋敷にいるのも居心地が悪かった。
それならいっそ、今からでも本当の祖父母がいるところへ行って、貴方たちの孫です、と名乗り出た方がいいのではないか……?
原作では受け入れられていたし、きっと今からでも遅くはないはず。
同じ転生者がいるとはいえ、居心地の悪い場所と、原作でヒロインと出会い大切にしてくれた祖父母。
天秤は、あっさりと傾いた。
――原作と全く同じ道を辿っていたのであれば、この先の展開はアイリスとミーシャ、二人の転生者の知るところであるけれど。
しかし二人はそれなりに原作とは異なる行動をとってしまった。
結果としてそれは、原作とは違う未来をもたらしてしまった。
――もしもの話だ。
もし、ここでミーシャが自分で自分の首を絞めるかのような事をして居心地が悪くなってしまった屋敷に残る選択をした場合。
周囲の目は確かに厳しくもあるが、しかしその後の頑張り次第ではそれらを挽回する事ができた。
そこからルキウスに引き取ったミーシャの話をして、最初と比べて見違えたのだと褒めて、二人を引き合わせるつもりでもいた。
そこからミーシャが上手い事ルキウスと親しくなれば、アイリスは二人が結ばれるように手を回すつもりだったのだ。
ルキウスを巻き込み、ミーシャの祖父母を王都へ招くか、はたまた当初の予定通り他の家の養子にしてもらい身分を整えるか、それはその時の状況に合わせるつもりではあったがどちらにしても二人が結ばれるためにアイリスは最大限の支援をするつもりだった。
原作とは異なるものの、辛い環境に身を置きながらも明るく努力を怠らないヒロインであれば、ルキウスとは惹かれ合っていただろうから。
だがそれは、もしもの話だ。
実際にミーシャが選んだ選択は、祖父母の元へ行く事であった。
原作と同じ展開であったなら、彼女の未来は幸せが待っているはずだった。
ところが、現時点ではミーシャはルキウスと知り合いはしたものの第一印象は最悪なまま、その印象が変わっていないままだ。
それどころか、本来ミーシャを引き取った子爵という存在も今は見知らぬ他人のまま。
子爵がミーシャの祖父母と関わりがあったからこそ、もしかして……? と子爵が祖父母へと話を持っていったのだが、それがない。
つまり、ミーシャはある日突然祖父母の元を訪れる見知らぬ人物でしかないのだ。
原作という展開から逸れてしまったからか、それとも原作では単に語られていなかったのかはわからない。
わからない、が、結果としてそれがミーシャにとって良い結果とはならなかった。
ミーシャの母が遺してくれた指輪があれば、自分の身分は証明できるとミーシャは信じ切っていた。
屋敷を出て直接祖父母の所へ行くと言ったミーシャを、アイリスは引き留めなかった。祖父母がいる場所を教えて、旅の路銀として幾許かの金銭をミーシャに渡したのである。
アイリスも、もしミーシャが死ぬと知っていたならば引き留めたかもしれないが、知らなかったので。
彼女はそれが貴方の選択なら、と快く送り出してしまったのである。
乗合馬車を使い、途中宿に何度か泊まり、そうして遠路はるばるミーシャの血縁がいるというところまでたどり着いたミーシャは、意気揚々と祖父母が暮らす屋敷へと向かった。
そうして屋敷の前にいた門番に、おじい様とおばあ様に会いに来ました! と元気よく、それでいて愛らしく見えるように宣言したのだ。
本当の家族に会えるのが嬉しくてたまらない、という風に。
門番は少しだけ不審そうな表情をしていたものの、それでもミーシャを屋敷の中へと案内した。
その後をついていくミーシャは、何も疑問に思わなかったのである。
おかしい、と気付いたのは、案内された場所が屋敷の奥まった場所、応接室というには殺風景すぎる室内に足を踏み入れてからだ。ここの老夫婦にとっての孫娘がやって来たのにこんな場所に案内するだろうか? そうでなくとも、客人を迎えるにはどうなんだろう……?
そう思って、ミーシャは自分を案内した門番へ「あの……」と控えめに声をかけたのだが。
次の言葉を発する前に、ミーシャは殴られ気を失った。
情けも容赦もない一撃で、避けるだとか防ぐだとか、そんな考えが浮かぶどころか反射的に動く事すらできない一撃に、あっさりとミーシャは倒れて床に頭を再びぶつけ、そうして意識を失ったのである。
どれくらい意識を失っていたのかはわからないが、気が付いた時は足を踏み入れた殺風景な部屋よりももっと何もない部屋にいて、身動きが取れない状況になっていた。
窓のない部屋。壁も床も天井も、妙に薄汚れている。空気が澱んでいるのは決して気のせいではないだろう。
「全く……最近はもう来ないと思ってたんだがなァ……」
面倒そうにぶつぶつと呟いているのは、ミーシャを案内した門番の男だ。
ミーシャは身動きがとれないように縄で縛られて、その上で床に転がされている。
猿轡をかまされ、ロクに喋る事もできそうにない。
それでもくぐもった声を上げれば、男は面倒そうに振り返ってミーシャを見下ろした。
その拍子に男が手にしている物が視界に入って、ミーシャはぎょっとして声を上げる……が、言葉にはならなかった。
錆びてボロボロになった斧。
何故今そのようなものを手にしているのか。
これが外だったなら。薪でも割るのに使われていたのだろう、と思う事だってできた。
だがここで薪を割る作業をするとはとてもじゃないが思えない。
そうでなくとも、こんなにボロボロになった斧では薪を割るにしても、切るというよりは叩き潰して割る、という事にしかならないだろう。
そう、切る、という行為は難しく思える。そうでなくとも刃こぼれしたような状態で、仮に切り落とす事ができても切り口は間違いなくボロボロになる。
なんだか酷く、嫌な予感がした。
逃げ出したい、と思ってもしかし身体は自由に動かない。ミーシャ的には身体を起こして後ろへ下がろうとしたつもりだったのに、実際はほんのわずかに身じろぎしただけに終わってしまった。
「ったく、お嬢様が駆け落ちして生きてんだか死んでんだかわかんねぇけどよぉ、ちょっと目と髪の色が似てるってだけで、自分はその人の娘です、なぁんて言ってやってくる連中も最近じゃあいなくなったと思って、そろそろお役御免だと思ってたってぇのによぅ……
なんで今更また来たんだ、どこで噂を聞いたんだ……?」
「むー、うむー!?」
「あぁ、いいよ答えなくても。どのみちやる事にかわりはねぇんだからよォ……」
面倒そうに言いながら、男は手にした斧を振り上げた。そしてそのままの勢いで振り下ろされる。
がつんっ、という衝撃。痛い、と思ったのと熱い、と思ったのは果たしてどちらが先だったか。
「あー、めんどうくせぇ……」
気怠げに言いながらも男は何度も斧を振り下ろす。
首に、頭に。
そのたびにミーシャの傷は増えていく。あまりの痛みに叫ぼうとするも、くぐもった音にしかならない。言葉には、ならなかった。それでもどうにかして逃げられないかとじたばた藻掻いても、男が面倒そうにミーシャの身体を踏みつけた事でその抵抗も終わってしまった。
室内に血の香りがむせ返る。
意識を取り戻したミーシャが室内が妙な汚れ方をしていると思ったのは、間違いではなかった。
いずれも、血の跡だったからだ。
――原作では語られていない話だ。
そもそも原作にこの設定が存在したかもわからない。この世界にはあった、というだけの話。
ミーシャの母であるライザは許されない恋をして駆け落ちをした。
その事を両親は酷く怒って、早々に彼女の存在をなかったことにした。
本来のライザの婚約者への謝罪や慰謝料といったものだけではない。それ以外の人間関係にまでヒビを入れていなくなった娘の事を、ライザの両親は決して許すつもりなどなかった。
追手を仕向けて亡き者にしよう、とまでしなかったのは、単純に方々への謝罪行脚で手が回らなかったのと、そうでなくとも一人でロクに何もできない娘が男と共に暮らしていくとしても、どうせその生活は早々に破綻するだろうと思われての事だ。
自分たちの知らない所で勝手に死ねと思われていたのである。
ライザという令嬢は存在していなかった事になり、籍を消され生きていたとしても本人が知らぬ間に平民となっていた。
さて、そんな状態であったので、当時のそれらを知る貴族たちはそこそこ噂話に花を咲かせたりもしたけれど、その噂に尾びれ背びれがくっついて平民たちの間にも流れるようになってしまった。
行方知れずの尊い女性。
両親は心配して彼女の情報を求めている。
どうしてだか知らないが、まぁそんな風に噂が流れたのである。
実際はその逆でライザの事など二度と耳に入れるつもりはないとまで宣言していたのに。
ライザという令嬢がどういう人物かを正確に知らなくても髪と目の色は噂話の中に盛り込まれていた。
その髪と目の色に似た女性の中で、ふと魔が差した者が現れてしまった。
噂を集めて、ライザの姿に似た女性がライザに成りすまして、駆け落ちしたけどやはり無理だったと気付いたていで、屋敷の門を叩いたのだ。
ボロボロにやつれてみすぼらしい姿ではあるが、質素な平民の暮らしに疲れ果てたといえば嘘とは思われない。見た目が似ていたとしても声までは似せられないだろうに、しかし生活苦で喉をやられて、などと適当な言い訳とともに最初の女は屋敷に入り込んだ。
そして二度と屋敷から出てくる事はなかった。
ライザの両親は最初からそれが偽物である事を見抜いていたし、平民が貴族だと偽るのは犯罪だ。だからこそ、淡々と処理をしたに過ぎない。
仮に本当に娘だったとしても既に平民なので、結果は変わらなかったのかもしれない。
そこで何故だか終わらなかった。
やはり生活が苦しくて、藁をもつかむ気持ちなのか同じように自分こそがこの家の娘である、となりすまそうとした者が現れたのである。
平民たちは甘くみていたのかもしれない。
娘を失い憔悴しているという噂もあるのだ。精神的にまいっているのなら、もし上手くやれば成功するのではないか……? そうでなくとも娘に似た相手が夫婦を労わってやれば、絆されるかもしれない。
そんな風に、甘く見たのである。
生活にゆとりがあれば、危険性に気付けたかもしれない。けれども明日を生きるのも危ういくらいになってしまえば、起死回生の策とでも思ってしまったのだろう。
髪と目の色が似ている女性で、容姿にそれなりの自信がある者、磨けば光ると信じている者の数名が危険なチャレンジに挑んでしまったのである。
噂が流れ始めた最初の頃は、駆け落ちした娘が戻ってきた、という話だったのだが、しかし年月が経過すれば今度はその娘が生んだ子である、という者までもが出てくるようになった。
当時の噂から今の母親の年齢はこのくらいだけど、まだそこまでいっていないのなら、それじゃあ娘って事にすればいけるかも……!
一体何故そう思ってそれでいけると思ったのかは知らないが、成功すれば貴族として裕福な暮らしができるとでも本気で信じてしまったからなのかもしれない。
ライザの両親は偽物相手にマトモに鑑定するつもりすらなかった。
本物でも偽物でも、どちらにしろ許されざる存在だ。結果は決まっていた。
駆け落ちした娘が遺した息子が、というのはほぼ出てこなかった。髪の毛の色と目の色が似ていたとしても、娘の面影のない男であれば、娘と駆け落ちした憎い男に似た相手とみなされる。実際そう名乗りをあげた男が出なかったわけではなかったが、そちらは無惨に殺されて打ち捨てられていたのだ。それを知っているのなら、無謀な真似はしようと思わないだろう。死にに行きたいなら話は別だが。
しかしそのかわりなのか、娘や孫を名乗る女はそれなりに出ていた。
そうはいっても、あれからかなりの年月が経過している。故に最近はそういった人物が出てくる事も少なくなってきていたのだ。
ところがそこに、ミーシャがやって来た。
彼女は誰かの紹介を経たわけでもなく直接赴いてしまったが故に、過去に現れていたなりすましと同じものとみなされてしまったのである。
ミーシャが証拠として見せた指輪も、偽物と思われていた。
きちんと調べれば本物だと判明したとは思うが、しかし既に勘当し平民に落とした娘の持ち物。本当の孫だとしても、老夫婦は受け入れるつもりはなかった。
原作で受け入れたのは、知り合いの子爵が繋ぎをとったからだ。
華やかな社交界から離れ、領地でひっそりと暮らしていた老夫婦ではあるものの外聞を気にしないというわけではない。
偽物の娘や孫を始末する事はなんとも思わないが、知り合いがもしかして……と連れてきた相手までもをさくっと始末するわけにもいかない。
原作では故に、きちんと調べてその結果孫が本当に孫だったと判明した事になる。
原作ではその時点でミーシャが結ばれそうな相手が既にいた。
だからさっさと嫁に送り出してしまえば、老夫婦の生活はまた穏やかなものに戻る。
だから受け入れられた、と言えなくもない。
だがここではそうではない。
ミーシャは原作知識でもって祖父母の元へ訪れたけれど、事前に連絡を入れたわけでもない。突然の来訪。
それ故に、老夫婦に偽物の対処を任された門番の男はミーシャが本当の孫であるなど知るわけもなく、いつも通りの対応をしたに過ぎない。
すっかり血に染まって動かなくなったミーシャは、大きな袋に入れられて。
他の偽物と同じように。
処分されたのである。
そんな事になっているとは思ってもいないアイリスは。
「ミーシャさんは今頃どうしているかしら。
無事におじい様やおばあ様と出会えているといいのだけれど」
淑女となって社交界に現れるであろうミーシャに思いを馳せていた。
彼女が今後、アイリスの前に現れる事はない、などと気付く事もなく。
いつまでたっても社交界で見かける事のないミーシャの事をアイリスは途中でルキウス以外の運命の相手でも見つけたのかもしれない……とか思っています。どこで何をしているかは知らないけれど、幸せでやってるならそれで良し、でもいつかそのうち、手紙とかで近況を教えてくれたら嬉しいわ、だって同じ転生者なのだから。とか思ってます。彼女が真相に辿り着く事はありません。
ちなみに原作と同じように彼女がヒロインを虐めていたら、原作と同じ展開になっていました。侍女見習いとして引き取った場合でも。
第一印象が最悪な状態からスタートするのって、少女漫画とかだと割とありがちな展開ですからね。
次回短編予告
そこまで親しくはないけれど、それでもちょっと関わりがある程度の幼馴染。
そんな彼女はヒロインだったのです。
ところが――
次回 幼馴染は転生ヒロインでした、が――
今回転生ヒロインが不幸な目に遭ったので次は不幸にならない話です。