銀の対価
疲れ果てた人間は、何を成すのだろうか。
息を切らし、手が震え、目が右往左往する中、何を求めるのか。
少なくとも私はその時、何も考えられず、ただ一つ、希望にすがろうとしていた。
そしてその中で見つけたのだ。
見覚えのある、その顔を。
「あの、すみません」
初冬の頃、ある日の夕方の事だった。
私は通りすがった市場で、見知らぬ少女に呼び止められた。
見た感じからして10代になったばかりの、小柄な、あまり身綺麗とは言えない格好の少女だった。
「何か?」
雨が降りそうな空を気にしながら、けれど、足を止めてしまう。
このような市場周り、金のなさそうな娘なら、身なりのいい紳士を呼び止める理由など一つか二つだ。
どちらにしても、私にはあまり興味のない事だったが……不思議と、話を聞く気になったのだ。
「実は、とても困っていまして」
「そのようだな」
少女を見れば、靴も履いておらず、服もところどころ破れたまま、ほつれも直されていない有様だった。
顔こそはまだ汚れもなく、くすんだ様子もないきれいな肌をしているが、髪はところどころ跳ねていたり枝毛になっていたりと、櫛も通していないことが一目でわかるほどに酷い。
誰が見ても、物乞いか客にするつもりで話しかけてきたと思うだろう。
「解りますか?」
「ああ、解るとも」
重ね重ね言うが、どちらに転ぼうとも、私には興味のない話だった。
私にはこのような少女を抱く趣味などないし、乞われようともこのような相手には「自分の命位自分の力で繋ぎたまえ」と突き放してきた。
戦乱の世ならば理不尽な不幸も多かろうが、今は開拓が為人々が自由を謳歌する時代だ。
親がよほど愚かでもなければ、大体の場合このような不幸は自業自得の末に受けるものである。
少なくとも、私の周りではそういうものだというのが一般的な見解だった。
だからして、今回も私は、その少女の要求を突っぱねてやろうと思っていた。
懐に余裕がない訳ではないが、こんな少女に小金を渡して善行を働いた気になっている、そんなさもしい輩にはなりたくないという気持ちも多少はあった。
「ありがとうございます。実はとても心細くて」
けれど、少女は屈託なく笑っていた。
何に対してのお礼なのか解らず、一瞬、からかわれているのかという考えが浮かんでしまう。
けれど、この少女からはそのような悪意や悪戯心は感じず、ただただ、嬉しくて微笑んでいるように見えたのだ。
「すまない、何の話をしているんだ?」
「ですから、困っている事のお話です。解っていただけていたんですよね?」
私の問いに、今度は首を傾げながら不思議そうな顔をされる。
コロコロと表情の変わる娘だなと思いながら、しかし思いもせぬ状況に困惑も覚えた。
確かに、私は解った気になっていたが。
だが、この娘は何も話していなかったのだ。
まるで意地悪を言われたようで鼻をつままれた気になったが、だからとわざわざ聞き直すのも恥ずかしい。
どうしたものかと迷った末に、私は外套の中に手を入れ、いくばくかの銀貨を取り出そうとした。
「要りませんよ?」
「……うん?」
「お金なんて、求めてませんから」
物乞いではない。まして金目当てでもないらしい。
ますますもって理解ができず、困惑し、しかし、それにしても笑顔のままの少女に、妙な好奇心が湧いた。
解らないという事は、怖かったり不思議だったりするものだが。
私は、「ちょっと面白いな」と感じ始めていたのだ。
「今日は、お話をしたかっただけです。私、一人で寂しくて」
「困っていたのではないのか?」
「困っていましたよ? 今、解消されましたけど」
それだけですから、と、また屈託なく笑われる。
皆目見当もつかないことながら、この少女の『困りごと』は解決されてしまったらしい。
「……なら、帰らせてもらおう」
「はい。ありがとうございました」
何にしても用事が済んだのなら都合がよかった。
後はそれに合わせ、帰るだけなのだから。
これを好機とみて、私はまた、歩き出す。顔も見もしない。
少女もまた、そこから動く様子はなく、少し歩いてから後ろを見た時には、もうそこには誰も立っていなかった。
「――すみません、また困ってるのですが」
三日ほど経ち、また私が市場の近くを通りすがると、そこにはまた、その少女が立っていた。
身なりはやはりあまり変わらない。
精々が、髪が少し小奇麗になっているくらいだ。
いい所町人の貧困層、あるいは女衒や人さらいから逃げ出した娼婦崩れの村娘といった所だ。
少なくとも、これで実は高貴な血筋の出なのです、とはいかないだろう。
「また君か」
「はい、また私です」
すみません、と、少し申し訳なさそうに眉を下げながら、足を止めた私の元に寄ってくる。
不思議と、近寄られても悪臭などは感じなかった。
「今度の用事は?」
「実は少しぬくもりを感じたくて」
「……寒いのかね?」
「解っていただけていたのでは?」
「すまない、日を置いたら忘れてしまったんだ」
こんな娘にわざわざ自分から解らないというのもなんとなく嫌で、つい変な言い回しになってしまう。
損な性格だな、と、自分の面倒くさい面に気づかされ複雑な気持ちになるが、少女のニコニコとした笑顔を見ていると、不思議と苛立ちは覚えなかった。
「でも大丈夫です。もう大丈夫になりましたから」
「……? 前の時もそうだった気がしたが」
「はい。前の時もそうでした」
話しただけで満足し、また先ほどの位置まで戻っていってしまう。
離れるとなんとなしに寒く感じるから不思議だった。
「……まあ、用事が済んだなら何よりだ」
「はい」
ニコニコとしたまま。
何が楽しいのか解らないまま、けれど、満足してもらえたならそれでいいかと、また私は少女の前から立ち去ってゆく。
今度は数歩歩いて後ろを振り返る。
「……?」
少女は、私を見て首をかしげていた。
特段追いかける様子も、話しかけてくる様子もない。
やはり、そこに立ったままだった。
「何をやってるんだ、私は」
自分でも何をしているのか解らず、一人ごち、そのまま立ち去る。
しかしまた気になり、少し歩いてから振り向くと、その時にはもう、少女はいなくなっていた。
それからしばらく、市場には顔を出さずにいた。
別に、少女を気味悪がってとか、意図して足を向けずにいた訳ではなく。
ただ、時期柄運営している商会の方が慌ただしく、そんな余裕がなかったからそうなっていただけなのだが。
そんななのにも関わらず、どうにも目覚めが悪くなった頃。
冬も深まり、雪も降り始める頃に、私はまた、市場に出向いていた。
「こんな冬の日は、家族と一緒に暖炉を囲むのでは?」
少女はやはり、そこにいた。
相も変わらず裸足のまま。
寒さに震えながら、しかし気丈にも、笑いながら私を見ていた。
「私には家族なんていないからな」
私は実業家として、この街でも誰よりも成功を収めている自負があった。
両親は子供の頃に流行り病で揃って亡くなり、共に支え合った妹は、私が今の商会の運営に苦しんでいた時期に姿を消し、以来一度もその顔を見ていない。
それすら、もう十年以上も昔の話だ。心の整理も追いつき、今では割り切れている。
だが、家族の事を改めて聞かれると、少し辛い気持ちになるのもまた、事実だった。
だからきっと、こんな時の私は、ムッとした、不機嫌そうな面をしていたに違いない。
「結婚は、しないんですか?」
「妻になってくれるという女性は居たさ。だが、私の方から断っているんだ」
「それはまた、何故ですか?」
「私の商売というのは、わずかなミスが元で何もかも失う、リスキーなものだ。そんな事に、他人を巻き込みたいとは思わない」
それだけだよ、と、何故か他人に過ぎない、恐らく商売の事も何一つ解らないであろう少女に語ってしまう。
不思議と、語りたく思えたのだ。
「実際、若い頃はこれで失敗も多かった。妹はそんな私に愛想を尽かしたか……あるいは疲れてしまったんだろう。いつの間にかいなくなっていた」
「妹さんを、恨んでいらっしゃるんですか?」
「そんな事はない。幸せに暮らしていてくれればと今でも思う」
居なくなった時ですら、ショックを感じこそすれ、空虚に思えても、妹に悪感情を抱く気にはなれなかった。
聡明な妹だった。いつも気を回してくれて、私の事を気遣ってくれる、とても可愛らしく、善い妹だった。
「妹がいなくなってから、それまで取引に応じてくれなかった銀行が、急にお金を貸してくれるようになってね。おかげで、起こした事業が軌道に乗ったんだ」
「なるほど。銀行さまさまですね」
「そうだな。その銀行ももう……少し前に、頭取が何者かに襲われたとかで、破綻してしまったが」
私から見れば彼は、大恩ある相手で、その時までは商売の上でもある程度協力関係にあった相手でもあったが。
お世辞にも善良な人物ではなく、裏で幾人もの人間に首をくくらせ、娘を玩具にし売り飛ばせ泣かせてきた、ギャングのような輩だった。
というより、ギャングと手を組んで、進んで貧困者を作り出して金貸しをして成り上がったような男だったので、その死についても私は意外とも思わなかったが。
「……君は?」
「はい?」
「君は、私の話など聞いても面白くないだろう?」
「そんな事はありません。その銀行家の人のお話は面白かったです」
そんな話、年頃の娘に聞かせれば、大概はどう返したらいいか解らず困惑されるか、嫌悪感に歪んだ表情を見せるものと思っていたが。
不思議とこの少女は、本当に楽しそうに、頬を緩めて微笑んでいた。
愛らしかった。身なりこそ汚いが、それはまるで野原に咲く、小さな花のようだった。
「それに、妹さんの事を恨んでないっていうのはいいですね」
「何故?」
「だって、とてもいいお兄さんだったって事じゃないですか。妹さんの幸せを、今でも願っていらっしゃる?」
「もちろんだ」
「だからですよ。ああ、今日はなんて素晴らしい日なんでしょう!」
雪も降り、寒さに震え、裸足の足は真っ赤になり、あかぎれだらけになって血も滲んでいるというのに。
だというのにこの少女は、今までにないくらいに晴れがましい、本当に嬉しそうな、穢れのない笑顔を見せていた。
小さな両手を胸の前で組んで、祈る様にしながら、「ありがとうございます」と小さく何かにお礼を言っていた。
「こんな冬の日に、そんな格好でいて辛くはないのか?」
「辛いですが」
「なら――」
「なら?」
私は、何を言おうとしていたのか。
この少女の、不思議そうな顔を見て、我に返る。
確かにこの少女には興味もそそられた。好奇心を抱いてしまった。
日を置き、ずっと会いに来れなかった事に、妙な罪悪感を覚えてしまったのは本当だ。
そうして再会できて、ほっとした私がいたのだ。
私は、この少女に会いたかった。そして、会えて喜んでいた。安堵していた。
それは、何故か。
今のこの感情は、同情なのだろうか?
確かに見れば、この少女のいでたち、有様、何を取っても哀れでならない。
手を差し伸べ、この少女が手を取れば、それはさぞかし美しい光景に映るに違いない。
劇場でよくやっているではないか。人気役者が貧乏人役のヒロインに手を差し伸べ、拍手喝采を浴びる、まさにそのシーンだ。
「……いや」
だが、私は首を振る。
私は、そんな大した男ではない。
私は、善意で誰かを助けられるような、そんな人間ではない。
両親が病で苦しんでいる中、無力なまま助けられなかった。
妹が自分から離れていくのを、私は気づきさえせず何日も経ってからそれを知ったのだ。
そんな奴が、そんな男が、何をいまさら、偽善者ぶるのか。
差し伸べようとした手は、誰のためのものだったのか。
この少女の為? とんでもない。
私自身が、そうしたいからそうしようとしたのだ。なんたる偽善か! 情けない!!
「――大丈夫ですよ」
しかして、迷いを晴らし、再び少女の顔を、今度は睨みつけようとしていたのに。
その少女は、先ほどまでと違う達観したような顔で、私を見つめていた。
まるでそう、見透かしたかのような。心を覗き込まれたような。
そんな気がしてしまい、途端に恥ずかしくなる。
浅ましい迷いを、読み取られたかのように思えたのだ。
「大丈夫です。私、強いですから」
全く強くなさそうな、儚げにすら見えるその野原の花は、にこりと笑いながら、やはり私の手を払いのけたのだ。
差し出してもいない。差し出そうとしてしまった手を。
そう思える、そんな笑顔だった。
結局私は、少女をそのまま置いていってしまった。
助けようとすれば助けられただろう。
あるいは、無理やりにでも手を引いて連れていけば、恐らくは貧弱な少女の事、いくらでも思うように助けられただろう。
そうして、今私がしているように、暖炉の前で温まらせ、温めたスープと葡萄酒を腹に収めながら、ぼーっとしていればよかった。
そうさせることが、私には出来たはずだった。
「何故、私は……」
物乞いかマッチ売りにしか思えない少女が、気になって仕方ない。
今年の冬は寒い。雪深い冬となるだろう。
こういう冬は、行き場のない物乞いも多くが飢え死に、凍え死ぬ。
ひとたび雪が降り始めれば、明け方には凍てついた人間だったものがいくつも地面から生えているのが、この辺りの冬の毎度の光景だ。
あの少女も恐らくは……今夜を越せないだろう。
「せめて教会にでも避難してくれれば……」
町人であるなら。例え貧者でも敬虔な信徒ならば、教会はこのような時、かくまってくれる。
お世辞にも豊かとはいえないだろうが、それでも温かなスープとかびたパンくらいは施してくれるものだ。
それでお礼に聖堂の掃除か荷物持ちでも手伝えば、冬の間は納屋を貸してくれるから、死ぬことはない。
貧困に苦しむ者達にも、最低限のセーフティはあるのだ。
それを頼ってくれていれば、と叶わぬ希望を抱きながら。
けれど一方で、履物すらまともに買えない娘が、そんな場所を頼れるなどと、到底思えなかった。
「それでも私は、助けなかったんだ。助け、られなかった」
少女の眼を見ていた。
美しい、栗色の瞳。
不思議と私は、昔それを見た覚えがあった。
誰だったか。とても親しい。とても温かな。
そして、私が心細くならずにいられた、そんな。
「……アリ、ア」
まどろみの中、最愛の妹の名を呟こうとして、しかし私はもう、最後まで言えたのかすら解らなくなっていた。
「――兄さん。このままじゃ商会の運営が上手くいかないのよね? 銀行の頭取さんから聞いたわ」
「アリア……お前はそんなことは気にしなくてもいい。大丈夫だ。難しい状況だが、なんとか上手くやって見せる。ここからが、兄さんの力の見せどころさ」
「……そうね。兄さんならそう。きっと、上手くやれるわ」
「ははは、心配することはないよ。大丈夫。それに、お前にだって苦労ばかりさせてられないからな。頑張って商会を盛り立てて、お前もいいところにお嫁に行けるようにしてやるからな!」
「うん……私も、応援してる」
懐かしい夢だった。
もうずいぶん昔の。若かった自分と、そして妹との記憶。
最後の会話だった。
そう、最後にはこんな風な会話をして、そして私がいつものように何日か家を開けていた間に、アリアは――
『――兄さんの足を引っ張れないので、家を出ます。ごめんなさい。でも、自棄を起こさないで。いつかきっと、兄さんは上手くいくはず。私はそれを、どこかで信じて祈っています』
置き手紙一つ。
それきりで、荷物すら持っていった様子もなく、妹は家から居なくなっていた。
「はは……はははは」
笑うしかなかった。
そう、その時の私はもう、笑うくらいしかできなかったのだ。
涙を流しながら、狂ったように笑っていた。
いいや、その時に私は気づいたのだ。
私はずっと、自分が頑張った気になっていて、妹にずっと、負い目を感じさせていたのだと。
私がもっと早くに成功していれば、アリアは出ていかなかったかもしれないのだ。
私がもっと周りに目を向けていれば、アリアは、負い目など感じずにいられたかもしれないのだ。
ずっと家に居てやれなかったのも悪かったのかもしれない。
相談一つできず去っていったアリアに、何故恨み言など言えたものか。
苦悩のままに、夢は終わる。
何のことも無い、懐かしい悪夢だった。
肌寒さに暖炉を見ると、既に火が落ちていた。
「……そうか」
だが、寒さで目が冴えて思い出す。
そうだ、栗色の瞳だ。
私はずっとずっと、どこか心の中でそれをしまい込み、鍵をかけてしまっていたのだ。
最愛の妹の、その顔を。その瞳を。髪の色すら。
「そうか!!」
そして私は、外套を手に、駆けだした。
外はもう陽が落ちきっていて、だというのに雪の所為で妙に明るく。
まるで死後の世界かのように世界は、白に塗り替えられていた。
市場までは、決して近くはない。
けれど、そんな中を白い息を吐きながら、必死になって駆けていた。
足を滑らせ、顔面から転び、転びながら滑り、そして無理やり起き上がり、走っては転びを繰り返し。
焦りのままに、それでも少しでも前に進もうと足掻き、喘ぎ、むせて苦しみ、肩で息し。
「……は、ぁ」
そうして、見つけたのだ。
「まぼろしが、みえますね」
市場の傍で、もう立っている事すらできず、うずくまったまま、雪に埋もれていた少女を。
「思い出したんだ」
「かたりかけてくれます」
「妹を。妹の瞳を」
「ちかくにいてくれる」
「お前の母さんは、アリア、だな?」
「もう、こころぼそく、ない……」
既にその瞳は虚ろで、私の事など見えてもいないようだった。
声をかけても、それすら幻聴と取られ、気づいてすらもらえない。
「私だ。私だよ」
「よかった」
「気付いてくれ、なあ!」
「わたしのこと、みてくれる、ひとが、まだいてくれて……」
最後に流したその涙粒が、けれどあまりの寒さに瞬く間に渇き、凍てつき。
長いまつげには容赦なく雪粒が当たり。
少女の体力を、どんどんと削ってゆく。
「――もう、私を置いていかないでくれ!! 頼む、私は、私は、寂しかったんだ!!!」
見ていられなかった。
見ていたくなかった。あんまりだった。
気づけないままだった私が、どれだけ愚かだったのかと後悔してもそれでも足りず。
そんな暇すらないのだと、今はこの少女を助けねばならないのだと突き動かされ、覆いかぶさっていた雪もろとも、外套に包み込んで腕に抱えてまた走り出す。
「私はっ、私はっ、一人で居たくなかったんだ!! 仕事に熱中し、仕事だけをしていれば、全部忘れられて、全部無かったことにできて――でも、ずっと、心細かった……!」
「……」
「だから、頼む。頼むからっ、私を一人にしないでくれ!! 私はまだ、君の名すら聞いていないんだ!!!」
「……あはっ」
腕の中の少女が、笑ったように思えた。
屈託のない、けれど生気の薄れた儚い笑顔。
最後の力を振り絞ったかのような、そんな笑顔を私に向けようとして――
「やめろっ! 笑うな!! 笑わなくていいんだ!! 笑わなくていいから……もう、もう行かないでくれ。無理に笑わなくても、いいんだよ……いいんだ……」
この少女が、何故笑っていたのか、今なら分かる気がした。
心細かったのだ。
誰も相手をしてくれなかったのだ。
そして、この娘は、私が母親の兄だと、きっと知っていたのだ。
事情は何も解らない。アリアがどうなったのかも、解らないままだ。
けれど、それでも。
それでも、この娘の瞳に、この栗色の瞳に、私はどこかかけがえのない絆のようなものを感じてしまった。
違っていれば赤っ恥だ。だが、そんなものどうでもいい! 今はこの娘を、なんとかして助け出したい!!
ああ、私はなんと独善的だったのだろう。
あれほど嫌っていた偽善者どもと、私は何一つ違いがない男だったのだ。
自分が、つらい思いをしたくなかった。だからこの少女を助けに走り、今こうして必死になって助け出そうとしている。
助かるかどうかわからない。
それこそ無理やりにでもあの時お金を渡していれば、この少女は勝手に自分で暖を取って助かっていたかもしれないというのに。
私は所詮、嫌悪していた奴らと何も変わらない、情けない男だった。
情けなくてよかった。
情けなくてもよかった。
だって私は、もう、一人ではないのだから。一人で生きなくても、よくなったのだから。
この少女一人生きてさえいれば。
この少女一人傍にいてくれさえすれば、私はもう、一人でいなくて済むのだから。
そんな打算的な、身勝手な、自己欺瞞に満ちた、独善的な男が、私という男だったのだ。
「頼むっ、頼む――っ」
少女が何も話さなくなってから、どれだけの時間が経過したか。
無情にも、私の屋敷までの距離は遠く。雪は、それまで以上に私達を阻み。
屋敷にたどり着いた時にはもう、少女は蒼白な顔のまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
「あ……ああ……」
それでも、諦めきれなかった。
諦める事なんて、出来っこなかった。
家に帰れば、暖炉の火は落ちたまま。
急いで少女を床に寝かせ、暖炉に火を入れようとする。
だが、そんな時に限って私の指先という奴は凍てつき、まともに動きやしない。
無理やりにでもと暖炉のレンガに叩きつけ感覚を取り戻して、なんとか火打石を叩き、火をともし。
そうして、少女の身体が少しでも温まる様に、濡れていた服を脱がし、毛布を被せた。
自分の服も同じくらいに濡れてしまっていたが、そんなことはどうでもいいくらいに、心が凍えていた。
少女は、肌着すらつけず、ただこの服一着のみを身に着け、あそこにいたのだ。
どれだけ悲惨な人生を歩めばそんな事になるのか、想像すら及ばなかった。
その身体にも、ところどころ鞭で打たれたような跡があるのもまた、痛々しかった。
「――まぼろしがみえます」
どれだけの時間が経過したのかも解らなかった。
ぱちりぱちりと、炎に焼け、爆ぜる薪を眺めながら、少女が座り込んでいた。
裸に毛布のまま。ぼんやりとしたまま。
「まぼろしだったら、どうする?」
「まぼろしの中でくらい、わがままを言っても許されるのでしょうか?」
「許されるだろう。まぼろしのなかでくらいはな」
「……そう、ですか」
そう言いながら、私の眼を見てくれた。
戸惑いが隠せない様子だった。
「あの、実はですね」
困ったように眉を下げながら、上目遣いで見てくる様は仔猫のようで。
なんとも頼りなさそうな、なんともか弱そうな、そんな少女を見て、私は深いため息をつく。
「困ったことがあったのか?」
「そうなんです」
「心細かった」
「ええ」
「そして、私にどう話しかけたらいいか、解らなかった」
「……そうなんです。流石、よく解っていますね」
すごいです、と、目を見開き驚いたような顔をして……そうして、嬉しそうにほほ笑んだ。
「実は、母さんが病で亡くなってしまいまして」
「そうだったのか」
「はい。それで……どうしたらいいか解らず、とりあえず、母さんを苦しめ続けていた悪い人に復讐をして……あっ、この悪い人というのは私の父親という人でして」
大変に悪い娘だった。
物乞いかマッチ売りの方がよほどまともなくらいに悪い事をしていた娘だった。
「それで、復讐したのはいいんですが、本当にすることがなくなってしまって」
「復讐をしたなら、すっきりしただろう?」
「はい。すっきりしました。沢山の人に首をつらせて、沢山の若い娘を泣かせて、悪い人たちと手を組んでたような人だったので」
どこかで聞いたような話だなと思いながら、そんな男と結婚した妹に涙を禁じえなかった。
気付いてしまったのだ。
アリアが、私の元を去った後どこに行ったのか。
そして、何故それまで金を貸してくれなかった銀行が、急に金を貸してくれるようになったのか。
「……ごめんなさい、まぼろしの中でまで変な子で」
「そんな事はない」
「急に話しかけたから、びっくりしたでしょう?」
「それほどでもない」
「それに、迷惑だったんじゃないかなって、今にして思うんです」
「迷惑だった事なんて、一度もない」
癒しすら感じたのだ。
当たり前だ。ずっと傍にいて私を支えてくれた妹の、その娘なら、そうだろう。
私にもまだ、家族が残っていた。
そう思えるだけで、冷え切って氷のように固まった心が、溶かされていったように思えたものだ。
そうだ、私はきっと、そんな事を感じてしまっていたのだ。
「だから、置いていかないでくれ」
「置いていったのはあなたの方では?」
「恨んでいるかね?」
「とんでもないです」
「私は、君の状況に気づきすらせず、知ろうともせず去ってしまった」
「仕方のない事です」
「そうして気付いて戻ってきた私を、都合のいい男と思わないか?」
「都合がよくて、何が悪いんですか?」
何も悪くありませんよ、と、雄弁に語る少女はまるで、聡明だった妹のようで。
「でも、ちょっと困ってしまいました」
「まだ何かあるのか?」
「ええ、つまらない事なのですが」
また眉を下げ、そうして、少女はぱたり、倒れ込む。
「私の命が、ここまでのようなので」
死にゆく者が見せるにしては、やけに爽やかな顔で、少女は、消えていった。
「――っ!! は、あ……っ!」
朝だった。
暖炉の火は消え、身体は酷く冷たくなっていた。
何せ昨晩は……濡れた服のまま、横たわっていたようだった。
身体の下の床は乾いておらず、ぐっしょりとした嫌な感覚が腹の底から伝わり、身体が震える。
「私という奴は――」
夢ですら、少女を救えなかったのか、と。
もう駄目だったのかと、今度こそ、絶望に打ちひしがれそうになっていた。
「あの、すみません」
勝手に打ちひしがれていた私の元に、幾度目かの申し訳なさそうな声が聞こえた。
見れば、見慣れた少女がそこにいた。
ボロボロのいつもの服ではなく、エプロンを付けて……恐らくその下には、何も着ていない。
「……ああ」
頭を押さえる。痛みが走っていた。
これは寒さのせいか、風邪でもひいたか。
いいや、自分の姪が、酷く趣味的な格好をしていることに対しての、呆れと疲れからだろう。
「君、服は――」
「それが、困ってしまって。起きたら裸でして」
「ああ、それは……」
「きっとおじさまは、そういう趣味なのだろうなと思ってそのままエプロンを付けてみたのですが」
「待ってくれ、とりあえず待ってくれ」
「……母さんにも、こういう格好をさせていたんですか?」
「断じて、違う!!」
無事生きていてくれた新たな希望との、その最初の一日目は、彼女に、私という人間がいかに常識的な人間なのかを教えるところから始めなくてはいけないらしかった。
「ごめんなさいおじさま。母さんはいつも、私の父親の人にこういう変な格好をさせられていたので、男性はそうするものなのかと……」
「君の父親が特殊な人物なだけで、私はそうではないからな」
「でも、母さんから『兄さんはいつも変わった格好の女性が好みのようで』と聞かせてくれて――」
「なんてことを自分の娘に聞かせてるんだ!?」
「初めての恋人の方にもこういう――」
「それは……ごほっ、ごほんっ」
言い訳するにも苦しくなり、そして喉の痛みに気付いた時には激しく咳込み。
情けないことに、姪っ子相手に私という奴は、自分の性癖隠しで風邪を利用しなくてはならなくなってしまっていた。
私なんかを簡単に言い負かす、雄弁な娘を家族にしたのだ。
これくらいは、対価という事だろうか?
これから先の、私の人生がどうなるのか、明るくなりはするだろうが、苦労は増えそうだな、と、ぐらつく視界のままに倒れ込んだ。
「まあ、大変だわ。こんな時は――」
こうして私には大切な家族ができたのだが。
「――ニガヨモギのおかゆですね!!」
しばらくの間は、苦労することになりそうだと、その銀の対価の重さを思い知っていた。