なぜ第一王子殿下が?
朝起きるとアシル兄様は出かけた後だった。王宮騎士団へ赴くことは伝えてはあったので、何日か会えないことを寂しく思いつつ私も出かけることにした。王都へ向かう居心地の悪い馬車に揺られながら、昨日の朝の騒々しさが遠い昔のように思い出された。恋人のふりをすると決めたその翌日にアシル兄様と会わなくなるなんて。恋人翌日に遠距離恋愛である。
それにしても出不精の兄様はこんなに朝早くからどこへ出かけたのだろうか。家には馬車が2台置かれているが、1台はすでに無くなっていたので馬車を使うような場所に出かけたことになる。てっきり朝市にでも出かけたと思っていたのだけれど。
考えながらぼんやり窓の外を眺めていると、次第に景色が原っぱから町並みに変わった。城下町を抜けて正門をくぐる。正門付近で馬車を降りて、目の前にそびえ立つ宮殿へ向かう階段はスルーし、その脇にひっそりとある扉へ進む。そこを突っ切っていくと王宮騎士団の訓練場がある。歩いていくと剣がぶつかり合う金属音が聞こえてくる。もう訓練は始まっているらしい。懐かしい雰囲気に目を細めていると、視界の先に手を振っている女性をとらえた。
「シエナちゃん、久しぶりね。会えて嬉しいわ。お手伝いに来てくれてありがとうね」
「私こそ、久しぶりにセレイナさんに会えて嬉しいです!」
あのとき20代前半だったセレイナさんはもうすぐ30歳になるはずだけれど、まだまだ若々しくて綺麗だ。大きなお腹を眺めていると「7か月になるのよ」とセレイナさんは微笑んだ。
「えっと、お身体は大丈夫ですか?」
「今日は調子がいいの。シエナちゃんも来るっていうから楽しみで来ちゃった。できることはするつもり。力仕事とかはシエナちゃんにお任せするかもしれないけれどね」
「なんでも任せてください!」
王宮騎士団の医務室へと向かう。薬剤の匂いに、湿布の香り。前来たときと変わらない清潔で怪我人のことを考えられた優しい色合いの部屋だ。数人で管理しているとは思えない。部屋の奥には騎士が数人ベッドに横たわっていた。
「賊に襲われたと聞いたわ。最近こういうことが多くて……」
セレイナさんが囁く。このヴェルテ王国と隣国アグリータ王国は大きな山岳を隔てている。それはヴェルテ王国をぐるりと取り囲むものだ。アグリータ王国との輸出入経路についてもまだまだ整備は不完全であり、そうした数少ない輸出入経路を襲う賊は頻発していると聞く。今回私に声がかかったのはこの賊による負傷者の治療に追われているためらしい。
セレイナさんから一通り患者の様子と一日のやることを聞き終え、私は腕まくりをしてさっそくお手伝いを始めた。
1日目はセレイナさんもいたおかげかあっという間に過ぎ去り、滞りなく手伝いが終了した。王宮騎士団の宿泊施設の一部屋を貸していただいたが、寝たきりの患者の世話も買って出たために部屋と医務室を往復することになった。2日目からはセレイナさんもいないために、慌ただしく過ぎていった。3日目ともなると、最初は気遣ってくれていた先輩医師さんたちも私に細かく指示を出すことはなくなった。ある程度仕事ぶりを認めてもらえたのだろうと思うと嬉しくなる。勉強をさせてもらっている立場なのだ、雑用だってなんだってやらなければ。
というわけで、私はごみ捨てついでに備品を取りに行っていた。ところが、思ったよりも荷物が多かった。「一人だと大変だよ」と先輩医師さんに心配されたわけが分かった。一度に運んでしまおうと木箱の上にガーゼや包帯が詰まった紙袋を載せているため不安定な上、前も見にくい。
王宮は国王と王子がいる宮と王妃がいる宮に分かれている。さらに奥にはもう一つ離宮があって、その中間地点、どの宮にも駆け付けられる位置に王宮騎士団は置かれている。備品のある倉庫は国王のいる宮の管理下にあるため、荘厳すぎる宮の中を駆け足で歩いている。
ちなみに、私はいつものよれよれシャツではなく、王宮騎士団専属医に配給される白いワンピースを着ている。白いワンピースの上から白いエプロンを重ね付けしている。お手伝いであるため、腕章はつけていないけれど。
ところで、この靴やっぱりちょっと大きいな。私の足のサイズは年齢の割には小さくて、合う靴がなかった。絶妙に大きい靴に気を取られた矢先、紙袋がずれる。
「気を付けてください――って、シエナ嬢ちゃんか」
「クラレンスおじさま」
落としかけた紙袋を支えてくれたのはクラレンスおじさまだった。勤務中なのか、ぴしっと制服に身を包んでいる。紙袋をおじさまが持ってくれたため、視界が少し開けた。おじさまのすぐ後ろにいた騎士数人に囲まれたプラチナブロンドの髪の美青年と目が合う。美青年はにこりと笑った。
「お久しぶりですね、シエナさん」
彼が声を発した途端、騎士たちは息を潜めた。クラレンスおじさまは私からさっと荷物を奪い取る。クラレンスおじさまが付き人として同行しているということは、彼は第一王子殿下ではないか。私は咄嗟に白いワンピースを摘まんで礼をする。
ところで、なぜ第一王子殿下が私の名前を知っていて、「久しぶり」と言うのだろう。
「大変申し訳ございませんが、以前どこかでお会いしたことがありましたでしょうか」
「ああ、すみません。僕が一方的に知っているだけでしたね」
ロイヤルブルーの瞳が申し訳なさそうにこちらを見ている。第一王子殿下ユリウス・ヴェルテ様になぜ一方的に知られているのかは非常に気になるところだけれど。クラレンスおじさまが私のことを話したのだろうか。
「おや、その服は……なるほど。あと何日ほど滞在する予定で?」
「今日で3日目ですので、あと4日ほどになります」
「ちょうどよかった。シエナさんがこちらに滞在する最終日に晩餐会がある予定でして。よろしければ、参加していかれませんか?」
晩餐会、という言葉を聞き固まってしまう。どうして私が第一王子殿下自ら晩餐会に誘われているのだろうか。クラレンスおじさまが目を丸くしてこちらを見ているけれど、私だって同じ気持ちだ。
「恐れながら、私のような者がそのような場所には……」
「かしこまらなくても大丈夫ですよ。少人数ですし、簡単な会ですから」
「あの、でも私はこちらにお手伝いに来ているだけで、準備も何もできませんから」
「ああ、そのことでしたら、僕の婚約者のドレスをお貸ししましょう」
「そんな、申し訳ないですので」
「いえいえ、僕の婚約者のコーデリアは優しいですからね」
駄目だ、何を言ってもきっちり論破されているような。これ以上渋るのも気が引けてしまい、折れた。
コーデリア様は確か公爵令嬢だったはずだ。夜会で何度か見かけたことがあるけれど、凛とした美人だった。あと出るとこはきっちり出た見事な体つきだった。彼女のドレスが私に合うとは思えないのだが。
クラレンスおじさまに救いの目を向けたけれど、紙袋をずれないように木箱に紐でくくりつけてさっと第一王子殿下のお隣りへ戻ってしまった。笑顔で去っていく第一王子殿下を見送った後、盛大にため息を吐くしかなかった。