言うだけ言って
イヴァンのターンです。
「挨拶をするときに手に触れたり、キスをしたりするのは当然だろう? ダンスするときは腰に手を添える。現に先ほどシエナとアシル卿だって近距離でダンスを踊っていたじゃないか」
イヴァンは周りに聞こえるような大きな声で言ってのけた。この場で反論するのは分が悪い。きっとこんな風に触っていたと騒いだところで、周りにいるご令嬢たちに汚らわしい目で見られて終わりだ。
「シエナは本当に男女間のことにはてんで疎いもんなあ。それに、アシル卿だってほとんどパーティーになんか参加していないじゃないか。まあ、パーティーに出る機会が少ないのは仕方ないさ。君の家はちょっと周りとは違うしね」
この下半身男が、と口をついて出そうになる。私が言い返せないでいるのをいいことに、私の家を馬鹿にしている。
「訓練に明け暮れるのもいいが、たまには着飾ってパーティーに出るといいよ。これで誤解は解けたかな。仲直りだ」
言いたいことだけ言って上機嫌でイヴァンは去っていく。去り際にワイングラスを渡されたのも余計に私を苛立たせる。あの無駄に伸ばした黒髪を引きちぎってやりたい。第一、私は訓練をしているわけではない。何もかもが違うし、馬鹿にされて悔しい。けれど、一番苛つくのはそれに何も言い返せなかった自分だ。
ワイングラスを叩きつけたい衝動に駆られていると、アシル兄様と目が合った。
「アシル兄様、見ていたなら助太刀してくださいよ」
「いや、分が悪いと思ったんだ。このパーティーにやたら女性が多いのも頷ける。ここで僕が出ていけばより一層シエナが叩かれることになったと思う。シエナの立場を悪くさせるのが目的だったんだ……ごめん、本当は助けに入りたかった」
あの言い方では私は社交界のルールも男女間のことも知らない世間知らずだと言っているようなものだ。イヴァンは事前に私とアシル兄様が「浮気」していると吹聴して回っていたはずだ。多くのご令嬢たちは若干疑う程度だったに違いないが、もし先ほどの場にアシル兄様が入ってきていれば、兄様を狙っていたご令嬢たちの恨みも合わさって猛攻撃を受けていただろう。
「はあ、本当に面倒くさいね。すぐに婚約解消に持ち込めると思ったのにな」
「たぶん、自分の利益をよく理解しているんだと思いますよ。お父様の影響力や騎士団の兵力、グレズリー家にとっては利益だらけです」
「我が家には何の利益もないけどね」
言われてみれば。強いて言うなら山の幸が手に入りやすいこととグレズリー伯爵領にも貿易口があることくらいか。まさか幼い頃に結んだ婚約がこんなに自分の首を絞めるとは思いもしなかった。思っていたよりもイヴァンの頭が回るのも予定外だ。もしかして、彼が浮気をしているのは都会の女性とだけなのだろうか。田舎貴族で社交界にあまり顔を出さない私は都合が良いはずだ。女性との遊び場を守るためにここまで賢く立ち回っているのならいっそのこと称賛するが。
「僕がブランシェット家に来る前にこの婚約は結んであったからなあ」
「そうですね……」
「もうちょっと早く来てればよかった」
兄様は項垂れる。元々アシル兄様は、王宮騎士団を退役したお父様が自身の騎士団を作るという話を聞きつけて我が家にやってきたのだから、時期を早めるなど無理な話だけれど。私に婚約者がいると知ったときの兄様も今のように項垂れていた気がする。
「いっそのこと何も考えないで行動出来たら楽なのに」
アシル兄様は私からワイングラスを受け取ると、躊躇せずに飲み干した。兄様がこんな風に飲むなんて珍しい。「帰ろう」と兄様に手を引かれて居心地の悪い会場を後にした。
朝、カーテンを開けるとうめくような声を上げてアシル兄様が目を覚ました。
「あ、れ……シエナ?」
「あ、起こしちゃいましたか。おはようございます、アシル兄様。調子はどうですか?」
「え……? うわ、待って最悪」
昨夜兄様はあの一杯で見事に酔っぱらった。普段酒を飲まない兄様はめっきり酒に弱い。私だって飲めるものならやけ酒がしたかったな、なんて兄様の介抱をしながら考えたくらいだ。酔えて羨ましい。
「昨日からかっこ悪すぎだ……シエナのこと守れないし、酔って介抱されるとか」
「はは、完璧じゃないくらいでちょうどいいですよ」
シーツを畳みながら微笑む。アシル兄様の唯一の弱点みたいなものだ。ちらりと兄様に目線を向けるとなぜか赤面していた。昨日の酒がまだ抜けきっていないのか。水差しからグラスに水を注ぐ。
「昨日……何か変なこと言ってなかった?」
グラスを受け取った兄様が探るようにこちらを見る。特段変なことを言っていたわけではなかったけれど、帰りの馬車の中でも「好きだ」とか「早くあのクソ男と別れてほしい」だのと延々と言っていた。馬車の中まで恋人ごっこをこなすなんて、と驚いたのを覚えている。
「え、驚いただけ……?」
「え? まあ。もっと色々言っていた気はしますけれど、私もうとうとしていたので細かくは覚えてなくて」
なんだか不服そうだが、覚えていないものは覚えていないのだ。というか、私もまだ朝食を取っていないので朝食の準備をしたいところだ。「兄様の分も用意しておきますから、着替えたらきてくださいね」と声をかけて部屋を出た。部屋を出た途端、玄関からお父様の嬉しそうな声が聞こえてきた。
お父様が騒いでしまうほど嬉しいことなど限られている。玄関に顔を出せば、やはりそこにはお母様の姿があった。
「お母様、お帰りなさい! 休暇がもらえたんですか?」
「そうなの。数日の間だけれどね」
お母様はそう言いながら、乗りつけた馬車からいそいそと積み荷を降ろしていく。どうやらお母様の荷物だけではないらしい。やたら数のある木箱にお父様も首を傾げている。
「お母様、そのお荷物は一体……」
お母様は最後に大きな木箱を下ろすと、私に向かって華麗なウインクをしてみせた。
「全部シエナへのプレゼントよ!」