12.猟犬の森・転
ガラの視界に映るのは、十匹を超える魔犬の群れだ。
中型犬サイズの黒い体毛に覆われた魔犬。
その特徴から察する魔獣の名は、ヘルハウンド。
妖黒犬とも称されるD級指定魔獣で、唾液には衰弱の呪毒が、遠吠えには恐慌の呪詛が込められた呪われた猟犬。
「チッ、やられた!」
ハントの悪態に視線を移せば、彼を囲うのはヘルハウンド数匹の死体。だが、さらにその周りを囲う新手のヘルハウンドたち。
スゥゥゥ……
ほんの僅かに目を逸らしたその隙を突く吸気の音。
「ガラ、聞くな!」
ハントの叫びも虚しく、ガラの身体は無防備にそれを受ける結果となる。
アォォオオオン!
魔犬の遠吠えが瞬く間に森中に響き渡る。魔力を伴うその音響は、軽い衝撃波となって梢を揺する。
ザワザワとさざめく木々の群れが、まるで己を拒絶するかのような錯覚をガラは感じた。
その感覚を皮切りに一瞬にして、ガラの精神が異常をきたした。
足は震え、腕は重く、焦点は合わず、無性に喉が渇いた。
心臓がバクバクと煩く脈打つのを痛感した。
「……っ!?……!?」
感情に突き動かされるままの叫びは、声にならなかった。
助けを呼んだのか、戦闘を拒絶したのか。それは自分にもわからなかった。
ガラを蝕むその感情は、恐怖だ。
「ぐっ!?」
ガラを助けるために、無理を通そうとしたハントの呻き声。
彼の左腕を噛むヘルハウンドの仕業だ。
それでもハントは全速力で包囲を突破する。
ガラにとっては幸運に、鬼気迫るハントの様子に背を向けるヘルハウンドはいなかった。主に似て臆病だ。
「ガラ!逃げろ!」
それは的確な言葉だった。恐怖に支配されようと、いや、だからこそ、躊躇いなくその一手を実行に移せる筈だ。
だが、ガラの瞳に映る光景が、彼を釘付けにする。
孤軍奮闘するハントは少なくない傷を負っている。噛みつきによって、衰弱の呪毒に侵されている。その動きは、段々と精彩を欠いてゆく。
「……誰も傷つけさせはしない」
幼き日の記憶が蘇る。
「盾になるんだ。最硬の盾に」
その誓いは本物だ。
ガラの心の奥底より湧き上がる熱が、凍てつく恐怖を溶かしてゆく。
迷宮の魔力がその強き願いに応えてくれる。
「犬っころども!こっちを見ろ!」
恐慌の呪詛は振り祓われ、少年の叫びが魔力を纏う。
ヘルハウンドたちの動きが硬直する。
視線が、ガラに引き寄せられる。
「よくやった!」
ハントは賞賛とともに、周囲のヘルハウンドを斬り払った。
二人の視線が交差して、その表情に笑みが浮かぶ。
だが、本命は虎視眈々と狙っていた。
それがガラの叫びで我慢の限界を迎えた。
ガラが背にした樹木のその樹上。
仔牛ほどの大きさをした魔犬が跳ぶ。
「っ!?」「上だ!」
目標はガラだ。ハントの叫びに呼応してできたのは、盾を頭上に掲げることのみ。構える時間はなかった。
「ぐっっ!?」
人体の倍はあるだろう重量が、勢いよくガラの盾にぶち当たる。
足が頽れ、膝をつく。
不幸中の幸い、ガラの盾は斜に傾きそれは前方に着地した。ただ、その踏み込みが、ガラを後背の樹木に叩きつける。
「かはっ!?」
ガラの肺から空気が抜ける。
「テメェ!」
ハントは怒声とともに、それに斬りかかる。
衰弱の呪毒のせいか、あっさりと躱される。
だが、それで良かった。
勢いのままに、ガラとそれの間に立つ。
「ガラ、立てるか?」
「黒い、魔獣?」
ハントの問い掛けに、ガラは答えなかった。ただ、呆然とそれを凝視した。
見覚えのある黒い魔獣。
「あの時の、魔獣か?」
魔獣の瞳はギラギラとハントを無視し、ガラを見ていた。
それが、ガラにとっては証明に思えた。
沸々と沸き起こるのは、怒りか憎しみか嫌悪か。
その矛先は、己か獣か。
「ガラ、構えろ」
低く響くハントの声が、ガラを正気に戻す。
「……すいません」
大盾を構え、腰を落とす。
スゥゥゥ……
「来るぞ」
「はい!」
アォォオオオン!