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花盗 (後)

 秋月と八花は、手を取りあって山中に分け入った。

 寄り添うように並んだ、二本の満開の桜。その根本に散り敷かれた花びらの褥を、秋月と八花は共にした。

 ふれあったのは初めてだったが、身も心もひとつに溶けあうことができた。秋月にとっての八花が、八花にとっての秋月が、深いところで繋がったもうひとりの自分であるように感じた。


 心の欲と身体の熱が醒めると、八花はすこし枯れた声で囁いた。


「やはりあなたは、私の背の君だったのね」


 秋月は八花を抱き寄せる。その耳元に、ぽつりと八花の声がした。


「……あの男は、私たちの血筋を欲しがっているわ」


 秋月のなかに、希望と焦燥が同時にわき起こった。

 八花は、すくなくともその心までは、大鷦のものにはなっていなかった。だが大鷦は、それでも八花を手放すつもりはないということだ。


 どうすればいいのだ、と考えをめぐらせる秋月のなかで、無防備に居眠りをしていた帝の姿に、つい先刻の住江の言葉が重なった。


『あの老いぼれを始末してでも、取り返したいとは思わぬのか』


 いまからでも住江と共闘して襲撃すれば、あるいは……。

 鎌首をもたげた思いつきに一瞬だけ陶酔したあと、秋月は己の意識を現実に引き戻す。

 大鷦を討てたとしても、岩乃皇后と葛城一族の後押しを受けた伊穂東宮が、父帝を討った男の下風に立つことなど、ありえないだろう。即座に逆賊の汚名を着せられるだけだ。圧倒的な軍事力でもあれば、それを頼みにすることもできようが、いまの自分には動員できる兵の一人もいない。


 ならば、いっそこのまま、二人で逃げるか。

 秋月は、湯の峰温泉で岩乃が告げた言葉を反芻する。


『この私が、あなたと八花内親王のことを認める、と言っているのです』


 八花を連れての駆け落ちであれば、岩乃皇后が味方をしてくれる可能性は高い。大鷦と距離をとる原因となった八花が、自ら大鷦から逃げてきたとなれば、匿うことはできずとも逃亡の手助けくらいはしてくれるのではないか。

 だが、逃避行という選択の前にも、厳しい現実が立ちはだかった。

 自分たちの不在が露見すれば、すぐに追っ手がかかるだろう。行く先々にも手配が回ることは明らかだ。それらを掻い潜って行くには、吉野から石清水八幡宮まではあまりにも遠かった。


 悔しいが、今は耐え忍ぶしかない。


「八花、いつか必ずあなたを取り返す。信じて、待っていてほしい」


 秋月の言葉は、なにもできないと言っているのと同じだった。

 だが、八花にとっては、それでもなお、自分の気持ちを支えていくのには十分な答えだった。

 八花は微笑んでうなずいた。


「約束ですよ」

「ああ、約束だ」


 八花は裸の上半身を起こすと、仰臥する秋月の胸に顔をうずめた。

 秋月は八花の頭をしっかりと抱きしめたあと、その手を背中から下へ滑らせた。



 月の光を浴びて、桜の花にまみれて抱き合う男女の姿を、覗き見ているひとつの影があった。

 長身を窮屈そうに狩衣に押し込めた男――瑞葉親王は、端正な顔立ちのなかで涼し気な目をすっと細めた。独り言がその唇から漏れ出す。


「帝の妃とあのようなことをするなど、正義に反する振る舞いである」


 嘆かわしいことだ、と瑞葉は思う。

 父帝の寵愛を受ける女に手を出す秋月も悪いが、嬉々としてそれに応じる女はもっと悪い。

 そもそも、父帝も、なにを考えているのだろう。

 前の東宮の実妹だからと言って、否、そうであればこそそんな女を后に立てれば政治利用しようとする輩が現れて、無用の争いを生むが必定だろうに。私の母――日向髪長媛を誉田帝から横取りしておきながら、政治的な判断で岩乃を皇后にするために身を引かせた。それがこの国の安定のためなら、と母も納得していたという。だというのに、いまさら皇后を遠ざけてまで、あのような女にうつつを抜かすとは。

 どうあっても父帝には、聖帝とまで呼ばれた偉大な統治者に戻ってもらわねばならない。

 瑞葉は帝が仮御所としている堂の扉を叩いた。



 瑞葉から事情を聞いた大鷦は、悪酔いの不機嫌も手伝って激怒した。

 緘口令をしくと同時に秋月を呼び出すと、その場で御所からの放逐を言い渡した。


「そなたを兵部大輔に任じる。以後、内裏への参内は無用である」


 表向きには無為徒食の皇子に役職を与えるという体をとっているが、四位の兵部卿ならばともかく兵部大輔は五位であり、親王に与えられるべき四品の位階より格下であった。

 事実上の臣籍降下であった。秋月は病弱であり帝位の継承に耐えられないため、という誰が聞いても嘘であるとわかる理由が付された。

 その知らせを聞いた八花は、大鷦に詰め寄った。


「なにゆえ、秋月皇子を内裏から追い出すのですか。あなたは兄との約束と称して、わたしを妃に召し上げた。おなじく兄は、秋月皇子をあなたの子として扱うようにと、言い残したのではなかったのですか」


 大鷦はすこしも動じず、不機嫌に言い放った。


「理由はそなたの胸に聞いてみるがいい。宇治雪東宮との約束もあるゆえ、命までは取らぬ。……感謝してほしいくらいだ」


 知られていたのか、あの逢瀬を。

 八花は気が遠くなると同時に、足元がぐらりと揺らいだような気がした。せめてもの救いは、大鷦から秋月を殺害することはないという言質をとれたことだ。

 今はそれで、よしとせねばなるまい。



 吉野の花見からひと月あまりが過ぎた頃から、八花は体調の不良を感じていた。

 月のものがなく、下腹が張る。やがて、吐き気がして食事が喉を通らなくなった。そして、女房のひとりから「おめでとうございます」と言われて、八花はようやく自分が妊娠したことを知った。


 だれの子であるかは、すくなくとも八花にはわかっていた。

 秋月の身の安全が案じられた。不義密通の事実が知られているのならば、あるいは大鷦によって謀殺されるかもしれない。

 しかし、考えてみればそれは杞憂であった。

 緘口令があったにもかかわらず、吉野の事件とその顛末は口伝えに御所の内に知れ渡っていた。ここでさらに秋月に過酷な処置をすれば、この子の父親への疑念を深めることになるだろう。大鷦の狙いは白鳥王家の皇女とのあいだに子を設けることにあるのだから、それを完全に潰えさせるような動きはすまい。


 八花の読みは誤っておらず、大鷦は事を荒立てなかった。だが、結果としてそれは、もっと大きな事件への呼び水となってしまった。


 大鷦は、八花の妹、芽鳥内親王に正式な入内を要請した。

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