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花盗 (前)

 花見行幸が催された季節は晩春ではあったが、吉野の山桜はむしろ今が春とばかりに爛漫に咲き乱れていた。

 どこまでも続く山並みに散在する桜の花は、おりしもたなびく春霞と一体となって、見る者を夢見心地に誘った。

 人々は花に酔い、そして酒に酔った。


「初めて見ましたが……さすがに吉野の桜は、見事なものですな」


 宴席に侍る秋月に、親し気に声をかけてきた者があった。凡庸という言葉が狩衣をまとったような、四十過ぎの男だった。

 御所では見かけない顔だった。だが、いかに無礼講とはいえ、王家の者の近くまで咎めも受けずに来られるとなれば、相応の身分の者のはずだ。

 秋月は探りを入れた。


「私は帝の養子で、秋月と申します。どこかでお目にかかりましたか」


 男は柔和な笑顔を浮かべて、首を横に振った。


「いや、初にお目にかかります。私は先の誉田帝の皇子で茅渟(ちぬ)と申します」

「茅渟皇子と仰ると……息長(おきなが)の?」


 茅渟は「ええ」とうなずいた。

 息長氏といえば、都の東口ともいうべき近江一帯を支配下に置き、最近になって勢いをつけてきた一族だ。このいささか頼りなげな印象の男が、その氏族の総帥ということになる。

 茅渟は穏やかな笑みを崩さず言葉を継いだ。


「秋月殿の祖母は、私の叔母でもあるのですよ。……主上から賀茂神社の守りを仰せつかっていたのですが、こたびの斎王還俗でお役御免になり、近江に戻ることになりました。これから季節も良くなります。鷹狩にでもお出でくだされ」


 茅渟はそれだけ告げると、長話はせずに秋月の側を離れた。

 なにが目的だったのか、わからなかった。だが、茅渟がささやいた斎王還俗という言葉は、秋月の胸に刺さった。

 八花も来ているはずだが、ここからでは姿は見えない。

 苦い酒を口に含むと、隣からぼそりとつぶやく声があった。


「あの男、抜け目がないな」


 空の盃を秋月に向けて差し出したのは、住江親王だった。


「あの男?」


 酒を注ぎながら秋月が問うと、住江は茅渟の背中に険しいまなざしを向けた。


「ああ。俺のところにも来たし、その前には東宮や瑞葉にも話しかけている。葛城の影響力が落ちたと見るや、さっそくの蠢動とはあざといやり口だが、あの無害そうな外見に騙されて、それと気づかぬ者も多かろうよ」


 住江の言葉はいささかうがちすぎの印象があったが、あながち的外れとも言い切れない。実際、この行幸には岩乃皇后をはじめとして、葛城の者はだれも来ていない。普段なら彼らの目を気にしなければならない者たちにとって、帝やその近親者に近づくには千載一遇の機会だろう。


「それにしても……」


 と、住江は上座の帝に向けて顎をしゃくった。


「やつも思ったよりもしぶとい。あのまま病に斃れるかと思ったのに、まさか回復するとはな。やはりこの俺が引導を渡してやらねばならんか」


 あまりにも不用意な発言だった。

 思わず周囲に目を配った秋月に、住江はふふふと笑った。雅楽の音がその不敵な笑い声をかき消した。


「だれも聞いておらんよ。だいいち、あやつは俺の狙いなど、とうにお見通しだろうよ。それより、そなたはどうなのだ。不当な地位に置かれ、愛する女を奪われたのだ。あの老いぼれを始末してでも、取り返したいとは思わぬのか」


 酒席とはいえ、冗談でしたでは済まされない発言だった。秋月は住江を窘めた。


「兄上、戯言とはいえ、さすがに度が過ぎます」


 住江は、ふん、と鼻を鳴らした。


「まあいい。せっかくの花宴だ。せいぜい楽しませてもらうとしよう」


 住江はそう言い捨てて席を立つと、幕屋を出て行った。

 日は西の空に暮れ落ち、夜の闇が降り始めていた。

 秋月も席を立って幕屋を出た。


 帝が仮宮にしている寺の境内に入ると、小ぶりな八重桜が月の光を浴びていた。

 そういえば、はじめて八花を見たときも、この花が咲いていた。彼女も、いま、ここにいるのだろうに……。


 帝は近いうちに八花を立后する腹積もりだろう。岩乃皇后と別居状態であることを考えれば、障害はなくなったと言っていい。帝妃のひとりであれば、まだ八花が秋月と添える可能性は残っている。帝が妃を払い下げるのは、よくあることだった。だが、皇后となれば、もうその可能性はなくなる。たとえ帝が亡くなったとしても、慣例によって八花は出家ということになるだろう。

 いまを逃せば、もう……。


 八花に会いたい、とそう思ったときだった。

 不意の箏の音が、忘れられない曲を奏でた。


 気がつけば、秋月は、箏の音の方向に足を進めていた。




 八花は、絃に付爪を当てた。


「そなたを正式に、皇后に迎えるつもりだ」


 大鷦は言った。それが、宇治雪の――兄の遺言だと。


 そんなはずはないと、八花にはわかっていた。

 秋月との結婚、つまり白鳥王家の純血を守ることは、兄の願いであり望みでもあった。襲撃されて重傷を負ったところを救われたとはいえ、白鳥王家の血筋でもない大鷦に、わたしや芽鳥を託すことなどありえない。

 けれど……。


 同時に思う。

 大鷦には、名門葛城氏から出た皇后とのあいだの嫡子、伊穂という跡継ぎがいる。その下には住江と瑞葉という皇子もいて、このままでは秋月に帝位が回ってくることはないだろう。

 けれど、もしわたしが大鷦の皇后になればどうか。名門とは言え臣下の娘である岩乃皇后を、格のうえでは圧倒できる。大鷦はすでに老齢だ。死後の帝位争いにおいて、内親王の皇后という地位は絶大な影響力を及ぼすだろう。岩乃皇后つまりは葛城一族と張り合い、伊穂や住江や瑞葉を押しのけて、秋月を帝位に就かせることも不可能ではない。ましてや、今は帝と皇后のあいだに隙間風が吹いている。

 そう、それは悪い話ではない。

 だけどそれでは、わたしは、秋月との約束と自分の心を裏切ることになる……。


 八花は心のおもむくままに、箏をかき鳴らした。

 絃から飛び立った弾く音が、天に昇り、そして降り注ぐ。晴天に雨の降るごとく、桜を流す涙雨のごとく。


「今宵の箏の音は、一段と麗しいな」


 大鷦はそう呟いて、八花に目を向けた。


「そして、そなたは美しい。だがそれだけではなく、こうして近くにいるだけで、老いさらばえたこの身体でさえ、そなたを求めて熱を帯びるのだ。目が、心が、そして血が、求めるのだ。そなたらの一族はそうなのだ。その色香は衣服を通してでも匂い立ち、人を魅了する。だから……」


 大鷦は、盃の酒を飲み干した。


「俺は、そなたらの血が羨ましいのだ。連綿と継続する、もっとも純粋にして正統なる白鳥王家の血。それは我らからすれば、あまりに美しく、そして……」


 大鷦は八花から目を背けると、呻くようにささやいた。


「おぞましい」


 筝の楽が佳境に入る。

 大鷦は、なにかに酔いしれたように、空虚にも思える言葉を並べ続ける。


「だが、我らの血筋と、そなたらの血筋の交わりは、我らにとってかならず成し遂げねばならない宿願だ。我らに子ができれば、俺は帝位をその子に譲るつもりだ。都に戻れば、そなたを正式に皇后に迎える」


 そう言いおいて、大鷦はごろりと横臥した。酒を過ごしたのだろう、すぐに高鼾をかきはじめた。


 八花は激しく絃をつま弾き、曲を閉じた。

 そして、花の風に誘われて目をあげると、そこには思いつめたような表情をした秋月の姿があった。

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