参詣 (後)
使者を追い返した岩乃は、無念の臍を噛んでいた。
熊野詣の成功で皇后の権威を高めるとともに、秋月をけしかけて帝から八花内親王を引き離す、そういう目論見だった。
だが、よりにもよって、その熊野詣の隙を突かれてしまったのだ。病気だと言う帝のーーあの人の言葉を信じたのが、間違いだったのか。思えばあの人が秋月の随行を許したのも、それが理由だったのかもしれない。
それにしても、と岩乃は思う。
せめてあの血筋の女でなければ、大目に見られたものを。
今まであの人が手を出した女は、すべて格下の臣下の娘だった。だが、八花はちがう。先帝の皇女であり、かつて東宮だった宇治雪の実妹だ。身分と権威において、臣下の娘である岩乃とは圧倒的な差がある。
それに、まだ若くて美しい。宇治雪も美麗な男だったが、その妹もまた御所のどの女も敵わない美貌だ。あの人があの女に入れあげ、もし二人の間に皇子でも生まれれば、伊穂の東宮という地位もどうなるかわかったものではない。
私にないものを、あの女はすべて持っているのだ。
悔しい、と思った。
そして岩乃は、はっとした。
あの人が私を選んだのは、葛城一族の力が欲しかったからだ。この私も、皇后の地位に就きたかった。この時代に女として生まれたからには、皇后と言う最高の地位を望むのはあたりまえだ。
私とあの人の利害は一致していた。あの人は、葛城一族の支援を受けて、強大な政権を築いた。私も男子を授かり、立太子させて葛城一族の繁栄を確実なものとした。
女癖が悪いのが玉に瑕だったが、本気ではなさそうな女は見逃し、それなりの身分の女は追い払った。すべて、あの人の政権の安定と、葛城一族のためだった。
そう思っていた。
だが、いまの感情はなんだろう。
私は、八花に嫉妬をしているのではないか。いや、思い返せば、いままでの浮気相手にも、そうだったのではないか。
これではまるで、ただの、どこにでもいる普通の女ではないか。
なんということだ。私は、あの人を……。
秋月は、岩乃とはちがう意味で、打ちひしがれていた。
立后していないとはいえ、帝の後宮に入ってしまえば、八花とはもう面と向かって会うこともできない。
思えば、帝が岩乃の熊野詣を許したのは、これが狙いであったのかもしれない。そもそも病で倒れたことからして、布石だったのではないか。賀茂斎王をそう簡単に還俗させることなどできないだろうと、高を括っていた自分の見込みの甘さにも腹がたった。
やるせない思いを抱えて、船べりに出た秋月は、そこで遠く北の方角を眺める岩乃を見かけた。
岩乃の口が動き、一首の歌が詠まれた。
「つぎねふや 山背川を 川上り 我が上れば 川隅に 立ち栄ゆる 百足らず 八十葉の木は 大君ろかも」
岩乃の眦から、きらりと光る一粒の涙が滴った。
ひと月にわたる旅で、岩乃に対する印象は大きく変わっていた。強情で自信家ではあるが、情に厚く可愛らしいところもある。
そしておそらく、岩乃の帝への思いは本物だ。帝のことを話すとき、それが自分にとって愉快ではないはずの過去の女の話であっても、その目はどこか憧れを含んだような色を帯びていた。
しかも、帝の政権運営にとってこの人の実家である葛城氏の力は不可欠だ。
そうであるならば、この人と帝のあいだを取り持つことで、あるいは八花を再び帝から引き離すことができないだろうか。
「皇后」
秋月が呼びかけると、岩乃はさりげなく目元をぬぐい「何か」と応じた。
「この度のこと、帝の浮気癖がまた出ただけだ、ということにできませんか。あなたの不在が寂しくて、つい出来心でということだと」
「そうかしら。今回ばかりはあの人の心が、もう離れてしまっているように思えるけど」
「確かめればよろしいかと。私が帝に会って、あなたの思いをお伝えします」
秋月の提案に、岩乃はわずかに動揺したようだった。
しかし、すぐに表情を引き締めると、まっすぐに秋月の目を見た。
「それは貴方にとっても、利益のあることだから?」
はい、と秋月はうなずく。
これは双方にとって利害の一致することだ。日向髪長媛の例を引くまでもなく、八花が立后していない今ならまだどうにでもできる。岩乃も、それはわかっているはずだ。
果たして、岩乃は秋月の期待通りの言葉を口にした。
「では、あの人に伝えてもらいましょう。私は石清水八幡宮にとどまって、先帝の御魂をお祀りします。帝も、ぜひお一人で行幸あそばせ、と。私は帝のおいでを、いつまでもお待ちします」
承知しました、と秋月は短く答えた。
秋月から皇后の伝言を聞いた大鷦の反応は早かった。
先触れを出すと、数日を経ずに石清水八幡宮の岩乃を訪ねた。
しかし、せっかく実現した面会で帝が皇后に告げたのは、秋月や岩乃が期待していたものではなかった。
「岩乃よ、俺ももうこの年だ。病も得て、老い先も短かかろう。長きにわたって放置してしまった弟との約束を果たせるのは、いまのうちしかない。他意はないのだ、わかってくれないか」
それは、帝が本気である、という宣言に他ならなかった。
岩乃の、そして秋月の狙いは、完全に外れたのだ。岩乃は落胆した様子で、首を振った。
「わかりませぬ。お年を召したればこそ、後顧の憂いとなるようなことは慎むべきではありませんか」
「八花はすでに薹が立とうかという年齢だ。そして俺も老いた。いまさら子も望めまい。あのまま独り身で終わらせるのは、忍びないだけだ。帝の妃となれば、俺に万一のことがあっても、その後も安泰であろう」
「宇治雪様とのお約束と言われるのであれば、妹の芽鳥内親王もお召しになるおつもりですか?」
「いうまでもあるまい。二人の後生を託されておいて、片方だけを放り出すこともできぬからな」
「どうあっても、ですか?」
「うむ」
長い沈黙のあと、岩乃は静かに「わかりました」と答えた。その口調には、すでに怒りも恨みも、悲しみすら感じられなかった。それゆえにむしろ、ぞっとする冷たさを帯びていた。
「ならばもう、反対はいたしませぬ。思い通りになされませ」
「そうか、わかってくれたか」
満面に喜色を浮かべ膝を打つ帝に、しかし岩乃は冷や水を浴びせかけた。
「その代わり、私は都には戻りませぬ。臣下の出の女が皇女様を二人も従えるなど、できようはずがありませんから。私も、そして葛城の力も、あなたにはもはやご不要になった、と理解しておきます」
大鷦は、しくじったことを悟った。
こうなってはもう、岩乃は梃子でも動かない。
ここはいったん引くべきだ、と大鷦は判断した。時を置けば、岩乃の気持ちがやわらぐこともあろう、と。
「ならば気が済むまで、ここで過ごすがよかろう。……また来る」
そう告げた帝に、岩乃は黙ったままで頭を下げた。
都に帰った大鷦は、八花を妃として迎えたが、立后は見送った。
それは岩乃が皇后として戻れる場所を残すためであり、また、葛城との関係を完全に破壊しないためであった。
しかし、大鷦の思惑とはうらはらに、時を過ごしても岩乃皇后の怒りが解けることはなく、それを機に葛城一族も大鷦と距離を置き始めた。
大鷦の求心力は急速に失われ、盤石に見えた政権の土台に揺らぎが生じた。
春、弥生。
大鷦の病気の快癒を祝って、吉野での花見が行われることになった。
貴族のほとんどを引き連れた、大規模な行幸だった。それは、大鷦の権勢を世に示すための行事でもあった。
しかしその一行のなかに、皇后をはじめ葛城一族の者の顔は、ひとつもなかった。