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参詣 (前)

 大鷦が病に臥した。

 高熱を発し、食事も喉を通らなくなった。熱は数日で下がったが、その後もなかなか快癒しなかった。高名な薬師も匙を投げ、陰陽師が気の病であろうと見立てた。

 帝に代わって朝議に出た岩乃皇后は、熊野詣に行く、と言い出した。


「熊野権現のお力にすがり、帝の気を安んじ、病の快癒を願ってきます。国のために懸命に働かれた帝を、熊野権現はかならずやお救いくださるでしょう」


 こんなときに、と言う者もあったが、すでに心を決めた皇后を止めうる者はいなかった。


 熊野詣は、修験者たちによってその霊験が語り伝えられるにつれて、盛んに行われるようになっていた。昨今では、皇族や貴族だけでなく、庶民の間にも広がりはじめている。

 しかし、伊勢参詣よりも歴史が浅いことと、参詣道の大半が険しく深い紀伊山地の中にあるため、道中は整備されているとは言い難いものであった。野生動物だけではなく、賊への対策も必要であり、皇后の行幸ともなれば護衛だけでも一軍を構えるほどの規模となった。

 その隊長には、秋月皇子が指名された。皇太子の伊穂親王はともかくとして、瑞葉親王や住江親王を差し置いて末子の秋月が選ばれたのは、大鷦政権での彼の立場を如実に示していた。いまだ親王宣下もなく皇子のままである秋月は、明らかに他の親王たちより格下であるのだと、群臣たちは了解した。


 都から口熊野と呼ばれる田辺までは、水路と街道が整備されており、船や輿を使った安楽な道中であった。

 しかし、田辺から熊野本宮までの十数里は、そうはいかなかった。獣道に石を敷き詰めただけのような険路が、一行を待ち構えていた。

 参詣道は深い森を縫うようにうねうねと曲がり、あるところでは山の急斜面を折り返しながら登り、またあるところでは足元を濡らしながら蟹とともに沢を渡るような有様だった。

 車や輿はもちろん馬が歩くこともできないから、貴賤を問わず誰もが自らの足で辿らなければならない。そして途中の王子と呼ばれる遥拝所で、神仏に祈りを捧げる。

 熊野詣は物見遊山などではなく、辿る者はみな修験者となることを求められる、厳しいみちゆきであった。


 若い男の秋月でさえ音を上げそうな道中を、岩乃は泣き言のひとつも言わず歩き続けた。むしろ、気弱になる者や落伍しそうになる者を叱咤激励し、宿泊地に着けば皆に労いの言葉を掛ける、一行の精神的な支柱ですらあった。


 都を発ってから八日ほどで、一行は熊野本宮に到着した。

 滔々とした流れの熊野川の中州に建つ本宮大社で、瀬音を聞きながら熊野権現に祈りを捧げれば、まるで神仏と一体となったような気持ちになった。

 本宮参拝の後、川船で下って新宮へ参り、河岸沿いを歩いて那智社へと巡拝した一行は、大雲取と小雲取の山道を経て再び熊野本宮に戻った。

 本宮での結願礼拝の間も、秋月が思うのは八花のことであった。遠く離れても、彼女の姿や声を、箏の音を思い出さない日はなかった。今も、その面影が脳裏に浮かぶ。

 上の空で聞いていた祝詞の合間に、不意の声が柿本人麻呂の歌を詠んだ。


『笹の葉は み山もさやに さやげども 我れは妹思ふ 別れ来ぬれば』


 声の主を見やれば、岩乃が笑みを向けていた。


「心ここにあらず、ですね」

「いえ、そのようなことは……」

「八花内親王を思っているのでしょう? なにをぐずぐずしているのですか」


 秋月は、心の内を見透かされたような気がして顔を背けた。

 なぜ岩乃が、そのことを知っているのか。まさか、八花が話したのだろうか。思いつくことといえば、それくらいしかない。だが、岩乃と八花がそんな親密な関係にあるとは思えない。

 答えを返せない秋月に、ふっと岩乃は笑った。


「正直ね。そうです、と顔に書いてありますよ」

「帝が妃に望まれている方に、そのようなだいそれた欲望は抱いていません」

「ずいぶん用心深いのね。貴方に身の安全を任せた私を、信用できないのかしら……」


 岩乃はため息を落とすと、それなら、と声を潜めてささやいた。


「今夜、私のところにいらっしゃい」


 岩乃の言葉は秋月を戸惑わせるものだった。

 この礼拝が参詣の最後の行事であり、あとは湯の峰温泉で旅の疲れを癒し、精進落としをすることになっている。

 精進落としとは表向きには酒肉の飲食を指すが、おおっぴらにはされないものの、男女の交わりも含まれていた。岩乃の言葉は、つまるところ、夜伽の誘い、ということになるのだ。

 答えに窮する秋月に、岩乃はいわくありげに笑いかけた。


「あなたには期待しているのですよ。……いろいろとね」


 祝詞が終わった。岩乃は正面を向くと、頭を深く垂れた。



 湯の峰温泉は、熊野川の支流が山間に吸い込まれる手前に湯けむりを上げる、鄙びた温泉であった。

 川床のそこここから熱泉がぶくぶくと湧きだし、立ちこめた異臭が鼻をついた。

 立ち並ぶ湯宿のちょうど真ん中に、川原を板で囲った湯殿があった。清流の脇の岩のくぼみに湧き出す温泉を、そのまま湯船にしたものだ。瑠璃色の湯に身を浸すと、これまでの旅の疲れが癒されるような心持になった。


 精進落としの宴が終わり、秋月は岩乃の寝所を訪ねた。

 褥は敷かれておらず、小さな膳に酒肴が整えられていた。


「熊野権現の御前では、不敬なことも言えないでしょう。ですが、ここには神仏も余人もいませんよ……」


 岩乃は、おだやかな笑みを浮かべて言葉を継いだ。


「帝に遠慮しているのなら、無用です。この私が、あなたと八花内親王のことを認める、と言っているのですから」


 それがほんとうなら、願ってもない、そしてこれ以上は望めないほど、強力な味方になる。そして、わざわざこのような面談の機会を設けたことを考え合わせると、岩乃の言葉を信用していいだろうと秋月は判断した。


「では、私が八花内親王を下さいと言えば、お味方をしてくださると?」


 思った通り、ええ、と岩乃はうなずいた。


「でも、それにはあなたの覚悟と行動が不可欠です。そうね、ひとつたとえ話をしましょう。これは父から聞いた、あの人の武勇伝です……」


 岩乃が語ったのは、まだ親王だったころの大鷦が、先代の誉田帝の妃候補を貰い受けたという話だった。



 誉田帝は、美女として噂の高かった日向髪長媛という女性に、妃として入内するように命じた。

 その命を受けて、遠く日向の地からやってきた髪長媛を摂津の港に出迎え、都までの護衛についたのが大鷦だった。

 大鷦は、彼女の美貌と飾り気のない素朴さに惹かれた。

 媛を無事に都まで連れてきた大鷦は、父帝のもとに日参し、どうしても髪長媛が欲しいと掛け合った。

 根負けした誉田帝は、髪長媛の入内を取り消し、大鷦と娶せたのだった。


「……あの人は、何も恐れずに、自分の望みをまっすぐに訴え、行動し、そして叶えた。あなたにそれができますか? 大事なのはそこですよ」


 岩乃の言葉は、秋月の胸に刺さった。

 私はいったい、なにを恐れていたのだ。大鷦の怒りを買うことか、自分の立場を失うことか。そのどちらも八花と引き換えになど、できるものではないというのに。

 秋月は、岩乃に――継母に背中を押されたような気がして、素直に頭を下げた。




 大鷦が八花内親王を還俗させ、妃として内裏に迎え入れた。


 その報せが岩乃の耳に入ったのは、帰途の船が淀に着いたときだった。

 人を都に遣わし、報せが事実であることを知った岩乃は、唇を震わせながら語気も鋭く帝への使者に言伝をした。


「帝は神楽岡での私の言葉を、どう受け取ったのか。一時の遊びならばともかく、あの女を御所に住まわせるというのなら、私は都には戻りません。帝には、そう伝えなさい」

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