聖帝 (後)
声の方を見やれば、長男の伊穂親王が、皇后の隣から神妙な面持ちを向けていた。若い頃の大鷦に似た立派な体躯の上に、どこか童子のような甘さが残る顔が乗っている。目鼻立ちは、母親の岩乃によく似ていた。
「父上のことを、民は聖帝と呼んで敬っております」
伊穂の追従に、そうでなくては俺が政権を担った意味がない、と大鷦は思った。宇治雪に、あの狂った弟に、この国の行く末を任せるわけにはいかなかったのだ。
そんな大鷦の感慨を代弁するかのように、「まさに」と応じたのは二男の瑞葉親王だった。
身の丈は六尺あまりある長身で、目鼻立ちの整った顔は母親の髪長媛によく似ていた。
「これこそ仁道というものです。為政者たる者は、父上のごとく正義の体現者であらねばなりません」
自分の言葉をかみしめるように頷きを繰り返す瑞葉を横目に、「しかし……」と、住江親王が独り言のように吐き出した。
兄弟のなかではもっとも小柄で、野の虫を思わせるやせぎすな顎をさすりながら、住江は言葉を続けた。
「都は良いが、西国はまだ不安定だ。吉備国あたりが騒ぎを起こせば、いささか面倒なことになる」
奥歯にものの挟まったような住江の物言いに、大鷦は顔をしかめた。
「言うな、住江。あれには、悪いことをしたと思っておるのだ」
大鷦が「あれ」と呼んだのは、住江の母、吉備の豪族の娘、黒日媛のことだった。
黒日媛は、岩乃が正式に立后してから、大鷦が密かに情を通じた女性だった。
存在を公にせず後宮にも入れていなかったから、岩乃がその事実を知ったのは、住江が生まれたあとのことだった。髪長媛が瑞葉を産んだことが不快だった岩乃は、ここまで節操のない大鷦に激怒した。
その怒りはすさまじく、大鷦よりも黒日媛の方が恐れをなした。彼女は逃げるように都をあとにして吉備国に帰った。そしてその道中で病を得て、儚く短い生涯を閉じたのだった。
父の謝罪に、住江は畏まったふりをして見せた。
だがその内心には、騙されるものか、という反駁があった。母の無念を晴らすという執念が、いままで住江を支えてきたのだった。
住江は、口元だけの薄い笑いを、大鷦に返した。
秋月は会話には加わらず、岩乃皇后の後ろにひっそりと佇む壺装束の八花を見やった。
笠から下がる紗の向こうに、その類まれなる美貌が透けて見える。
普段は紫野の斎院で賀茂大神に奉仕する彼女が人前に姿を見せたのは、昨年の正月以来のはずだ。
八花は、禁足の神の庭に咲く花だった。手折るどころか、その姿を見ることすら難しいのだ。
視線が交わった一瞬に、八花はその眼差しにかすかな艶を乗せてきた。
誰かに嫁すこともなく、処女のままで年月を重ねた彼女は、すでに年増と言われる年齢にさしかかっていた。しかし、その身体から発する瑞々しい色気は、年頃の少女のものだった。
秋月の胸がどくんと鼓動を打つ。
あの日の約束を忘れたことなど、ひとときももなかった。
しかし、かつての東宮の実妹である八花を娶れる男など、格のうえでは今上帝の大鷦の他にはいなかった。いずれ妃にする、と大鷦は言っていたが、非常事態が続いたこともあって、八花も芽鳥もいまだに賀茂神社の巫女のままであった。
そしてその間に、秋月は成長した。
親王の列に加えられていないとはいえ、加冠の儀を終え成人していた。
宇治雪の実子であり、また許嫁でもあった秋月ならば、八花を娶るのにさしたる不都合はないはずだった。
ずっと我慢してきたが、今こそ、八花の還俗と婚姻の許可を大鷦に願い出る好機ではないか。
そう思って大鷦を見た秋月は、岩乃の視線がこちらを捉えていることに気づいた。
逆光でその表情は見えにくかった。
秋月と目が合うと、岩乃はそしらぬふりで顔を背けた。
それと同時に、大鷦の声が「秋月」と名を呼んだ。
「俺の政策になにか思うところがあるのなら、言ってみるがよい」
こうなると、個人的な要求は切り出しにくかった。
秋月は、ゆっくりと頭を振った。
「なにもございません。まちがいなく上策だったと思います。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「いささか、悪辣ではありますまいか」
租税徴収禁止の政策は、帝室のみならず、すべての貴族や地方豪族そして寺社までもが追随させられていた。その結果、国庫は枯渇したが、それ以上に彼等の勢力は完全に棄損された。今や、大鷦帝と葛城一族に刃向かうことができる者は、ほとんどいなかった。
天災を逆手にとって潜在的な敵を排除する。そこまで狙った政策であったのなら、考案した者は恐るべき策士だと言えるのだ。
案の定、大鷦は「可愛げがないやつめ」と、口をゆがめて嗤った。
「機会は最大限に活かすのが、俺の信条なのだ。……伊穂、民部省に通達して、租税の徴収を再開させよ。税率を四公六民から五公五民に引き上げ、空になった国庫の回復に努めよ」
はっ、と伊穂は畏まった。
それから大鷦は、政策の続きでも話すかのように、さらりと重大事を口にした。
「ときに、俺は新たな妃を迎えようと思っている」
全員がひととき絶句し、「妃ですか」と住江がなかば呆れたように尋ねた。
その老体でまだ女漁りをするつもりか、というのが住江の本音だったが、それは居並ぶ者に共通の偽らざる心境でもあった。
大鷦は一同の心中を見透かしたように答えた。
「そこにおる八花内親王だ。これは、亡き弟、宇治雪東宮との約束なのだ」
わざとらしいほどに「約束」という部分を強調する物言いだった。
大鷦の宣言に、秋月は後悔の臍を噛んだ。一瞬の躊躇のせいで、先手を取られてしまった。しかも帝の言葉だ。これをひっくり返すことは、ほぼ不可能だろう。
幼い日、父が惨殺された現場から八花を連れ去られた記憶がよみがえり、怒りとも絶望ともつかぬ感情に身体が震えた。
そんな秋月の心情など知りもしない瑞葉が、笑顔で大きくうなずいた。
「約束ならば、守るのが道理というもの。正しき行いでありましょう。ですが……」
瑞葉が見やった先には、岩乃皇后があからさまに不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「主上」と改まった調子で呼びかけた岩乃は、はっきりとした口調で言った。
「わたくしは反対です。八花内親王は、かの宇治雪東宮様の――白鳥の王家のお血筋であらせられる。そのような身分の方を後宮にお入れになれば、いずれ人心を惑わせ、国を乱す原因になりかねませぬ」
岩乃の言葉には嫉妬の片鱗が見え隠れしていたが、それでもしごく真っ当な意見であった。
皇后の反応を予想していたのか、大鷦は顔色を変えなかった。
「そう目くじらをたてるな。急ぎの話ではないし、これはあくまでも弟との約束を果たすための形だけのことだ。そなたを軽んじるつもりはないし、八花ひとりを妃の列に加えたとして、それで国がおかしくなることなどありえぬ」
岩乃にというよりも、家族の皆に向けて用意していたのであろう言い訳を披露してから、大鷦は都の眺望に背を向けた。