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聖帝 (前)

 大鷦が即位してから、十度目の初春を迎えた。


 新年を祝う行事がひと段落した頃に、大鷦は皇子や妃を引き連れて神楽岡に登った。

 神楽岡は、都の北を囲む三つの丘陵のいちばん東にあり、山城の地に都が造営された頃から帝専用の狩猟場として皇族以外の禁足が守られていた。


 秋月は生まれてからずっと嵯峨離宮で育っていたため、この山に登るのは初めてだった。

 それほど高い山ではないが、頂からは、唐の長安を模して八条八通に区画された街並みが、はるか南の彼方まで広がっているのが見渡せた。

 足元ちかくに並ぶ内裏や貴族の館には、檜皮で葺いた大屋根の殿舎が建ち並び、その南に広がる街路に面しては、庶民の住まいである平屋の長屋が軒を連ねている。ところどころに寺院の塔が、筍のように生えていた。

 秋月は、目を細めて南の彼方を眺めた。しかし、人の往来で舞い上がった土煙のせいで、朱雀大路の南限にそびえる羅城門は見えなかった。

 それは、あまりにも広大な景観だった。人の手がこれほどのものを作れるということに、秋月は驚きを禁じ得なかった。


 時刻は申の刻をすぎていて、家々からは夕餉の支度をする炊煙が上がっていた。

 あたりまえのようなその光景を見やった大鷦は、しかし、いかにも満足げに目じりを下げて口を開いた。


「ようやくこの国も、立ち直ったようだな」


 心から安堵したような声音だった。

 さもありなん、と秋月も思った。この数年間は、国難というべき状況だったからだ。



 はじまりは今から六年前、大鷦の政権が安定しはじめた頃のことだった。

 その年はいつまでも梅雨が明けず、暦が夏になってもぐずついた天気が続いた。真夏だというのに日はほとんど照らず、都大路を涼しい風が吹き抜けた。

 過ごしやすい夏だと喜んだ者たちは、秋になってそれが最悪の事態であったことを思い知った。

 米も雑穀も、まったく実らなかったのだ。

 租税として取り立てようにも収穫はなく、たちまちのうちに都の食糧は底をついた。

 御所や貴族の館はなんとか持ちこたえたが、民家からは炊煙があがらない日が多くなった。


 秋が過ぎ冬の到来とともに、餓死者があらわれはじめた。

 火葬も埋葬もされないままの遺骸が野晒しにされ、路傍で腐敗し朽ち果てていく様は、地獄もかくやと思わせる惨状であった。

 生きるために都から逃げ出す者が増え、往来する人の姿が少なくなった。

 とくに都の西半分、右京と呼ばれる地区はもともと未整備であったため、いちじるしく荒廃が進んだ。廃屋には野盗が住み着き、市中を徘徊して死者から衣類や持ち物を奪うのみならず、往来する人に白昼堂々と追いはぎを働く始末だった。


 都ですらこの有様であったから、地方はもっと酷い状況だった。

 民部省から大鷦にもたらされた報告では、里に住む数百人がまるごと餓死したり、徒党を組んで隣の里を襲い食糧を奪ったりする蛮行すら起きていた。


 いつしか、この凶荒は今上帝に天意がないからだ、と陰口を言う者が現れた。

 まさに国家存亡の危機だった。


 それを救ったのは、他ならぬ今上帝――大鷦の英断だった。

 租税のすべてを免除したのだ。

 この前代未聞の政策は奏功し、また翌年から二年続いた豊作によって、国家は完全に息を吹き返した。

 都に人の往来が戻り、人家から炊煙が上がらない日はなくなった。



 大鷦は、眼差しを傍らに立つ壺装束の岩乃(いわの)皇后に向けた。


「これもみな、そなたと葛城(かつらぎ)の義父殿のおかげだな」


 皇后は、いいえ、と晴れやかに笑みを返した。


「すべては主上のご英断の賜物です」


 そう答えつつも、岩乃の顔には、この国を救ったのは自分であるという自負が見えた。

 内裏の生活と都の治安は葛城一族が支えてみせます、そう言って奇策とも言うべき免税措置を後押ししたのは、岩乃だったのだ。

 童顔で、四十歳を超えた実年齢よりも若く見えるが、岩乃の言葉には帝にも劣らない威厳と自信が満ちていた。それは、彼女の生家である葛城一族の勢力を背景としたものだった。


 葛城一族は、都の南西に広大な領地を有する氏族だ。海を超えた大陸との交易も行っていると言われており、経済力も武力も他の氏族を圧倒していた。先代の帝も、先々代の帝も、葛城一族の娘を后としており、大鷦もそれに倣って岩乃を后に迎えていた。

 岩乃の言葉どおり、葛城一族からは、形や味は悪いものの食用になる穀物や農作物、乾燥させた鳥獣の肉や魚介などが定期的に御所に納められた。また、私兵を都の要所に駐屯させ、治安維持から死体処理にいたるまでを肩代わりした。

 大鷦が政権と生活をかろうじて維持できたのは、葛城の支えがあったればこそだった。


 だが、それと引き換えにして、大鷦の心身はかつての威勢を失った。

 雑穀に芋を混ぜた薄い粥に、わずかな肉類、あとは山野草の汁に塩か味噌だけという粗食を続けた生活が、五十半ばの老体から体力と精力を根こそぎ奪ったのだ。

 大鷦は、本来ならこの立場にあったはずの宇治雪東宮に、心のなかで恨み言を投げつけた。

 お前の地位を奪った俺への、これが報いということか……。

 若く美麗な姿のままの宇治雪の幻像が、自業自得というものですよ、と答えた。艶然たる笑顔を浮かべた末弟を睨みつけ、大鷦は自らを奮い立たせるように、だが後悔も謝罪もせぬぞ、と返した。

 そうでしょうね、と含み笑いを残し、宇治雪の幻像は消えた。


 大鷦はちいさく頭を振った。

 俺としたことが、埒もない。

 誰にも気づかれないようにため息をついた大鷦を、「主上」と呼ぶ声があった。

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