咲座 (後)
秋月新帝の即位式典は、息長氏の肝いりで盛大に催された。
紫宸殿の南庭には、中央に八咫烏を象った銅烏幢が立てられ、その左右にはそれぞれ日輪と月輪を象った幢が立ち、それらを囲むように都の東西南北を守護する青龍、白虎、朱雀、玄武の旗が設置されていた。
装束を整えた文武百官や女官が整列し終えると、まもなく高御座の幕が開かれ、黄櫨染の束帯を身に着けた秋月新帝が姿を現した。
遠目にもそれとわかる眉目秀麗な帝の姿に、女官たちは見とれ、群臣は息を飲んだ。
秋月帝が厳かに即位を宣する。
「吾は、官が即位を請うを天命と心得え、始祖神護帝が初め定めた法により、即位を宣する」
帝の言葉が終わると、群臣が一斉に「万歳」を斉唱した。
その声は、新帝の即位を祝うかのように、晴れ渡った初夏の空に響き渡った。
豊明宴では夫の即位を祝って、菜香皇后が五節舞を奉納した。
四名の少女たちを伴った演舞が終わると、皇后は恒例に倣って「踊女を奉りましょう」と戯言を述べた。
しきたりに従って、帝が応じる。
「その踊女とは、誰か?」
皇后に手をひかれたひとりの少女が、並み居る群臣の注目を一身に浴びながら帝の前に進み出た。
皇后が不承不承という顔で告げる。
「わたくしの妹で、名を咲耶と申します」
少女の背丈は、座した帝よりも頭ひとつ高いだけだった。
皇后は自分の妹だと紹介したが、少女が発するただならぬ気品と色香は、王家に近しい臣下たちに、かの女性を想起させた。
聖帝の寵妃となりながら、若くして非業の死を遂げた、高貴なる王家の末裔。春に咲き競う花々の姿をその名とした、類まれなる美貌の皇女を……。
*
秋月の即位から間もなく、岩乃が病に倒れた。
ただの風邪かと思われたが、病状は急速に悪化し、床を出ることができなくなった。
石清水八幡宮に見舞いに訪れた秋月を、岩乃は褥に横たわったままで迎えた。起き上がろうとする岩乃を、秋月は「そのままで」と気づかったのだった。
「では、お言葉に甘えさせてもらいます」
岩乃は、そう断ってから、横臥したままで秋月に会釈をした。
「わざわざのお見舞い、恐縮至極です。これが最期の面会になるかもしれませんから、あなたに言っておきたいことがあります。私がしたことではありませんが、八花殿とあなたには、そして宇治雪様や芽取殿にも、悪いことをしたと思っています。でもそれには、やむにやまれぬ事情がありました。それだけは、わかってほしいのです。責はあの人と私がすべて負いますので、どうか他の者には寛恕を賜りたいのです」
はい、と秋月はうなずいた。
「もう恨みはありません。父帝には、父帝の望みがあった。いまなら、それが分かります」
良かった、と岩乃はかすかに微笑んだ。そして、秋月の顔を見上げながら、静かに話し始めた。
「義弟を殺してまで得た帝の地位でしたが、結局あのひと個人を幸福にはしませんでした。あげくの果てに、息子たちが命をかけてそれを争うことになった。帝位とは、そのようにしてまで得るほどのものなのか、私にはわからなくなりました。宇治雪様は、あるいはそれを看破しておられたのかもしれませんね」
岩乃は、そこで口を閉ざした。
応答を求められているようには、秋月には思えなかった。だから、あえて沈黙を守った。
吊り上げられた蔀戸の彼方には、上弦の月が冴え冴えと夜空を渡っていた。
秋月は、ふっと息をついた。
「こうしていると、湯の峰の夜を思い出します……」
その言葉に、岩乃の心が時をさかのぼる。
熊野行幸の折にはいかにも頼りなげだった皇子は、今やこの私を利用して帝になるほどの男に成長した。わずか十数年の時が、これほど人を変えてしまうのだ、と岩乃は苦々しく、けれどどこか嬉しく思った。
「……あのとき、貴女様にかけていただいた言葉のおかげで、今の私があると思っております。そのことについては、心からお礼を申し上げます」
秋月は、岩乃に向き直ると、深々と頭を下げた。
「なんの」と返した岩乃に、なおも秋月の言葉が続く。
「そのお礼として、また、長きにわたる皇后としてのお勤めへの感謝の気持ちとして、私から差し上げたいものがあります」
なんでしょう、と問いかけた岩乃の目を、秋月はまっすぐに見つめた。その眼差しには、確固たる自信とともに、月の光のごとき冷涼さがあった。
「葛城の近くにある国衙領の一部を、貴女様の荘園といたしました。思えば、貴女様が都からここに居を移されたのは、父帝との確執によるものでした。しかし、父帝も亡くなられ、すべては過去のこととなりました。そろそろ、生まれ故郷の葛城に戻られて、ゆっくりなされてはいかがでしょうか」
秋月が与えた恩賞は、今の岩乃には破格といっていいものだった。しかし岩乃は、そこに隠された秋月の真の狙いを看破した。
「つまり、もう政に口を出すな、ということですか」
少し気色ばんだ岩乃の言葉を、秋月は肯定も否定もしなかった。
「葛城はこの地より、いくらか穏やかな気候だと聞き及んでいます。どうか、かの地で御身をお厭いくだされませ。このように都に近い地では、なにかと騒々しくて気苦労も絶えぬでしょうし」
はあっと、岩乃は深いため息をついた。
「利用するだけ利用して、用が済めば捨てる。ずいぶん薄情なことをするものですね。よくお聞きなさい。政権を盤石にするには、我ら葛城や息長のような氏族の力を後ろ盾にする必要があるのです。聞けばあなたは、名前や出自を偽らせてまで、木花開耶を娶ったそうですね。禁忌をなしたことを非難するつもりはありませんが、息長に疑惑を抱かせてまで、いったい何をしようとしているのですか」
秋月は、岩乃から視線を逸らせ、掌を月光にかざした。白くて長い、細工物のような指だった。
「こうして見ると、亡き父の手とそっくりなのです……」
そこで言葉を切った秋月は、刀子を人差指の腹に走らせた。やや間があって、切り口から鮮血が滴った。
言葉を失った岩乃に見向きもせず、秋月は薄い笑いを口元に浮かべた。
「……私は、この聖なる血を守りたい。それだけです」
「愚かな」と、岩乃は吐き捨てた。
「そのために、我等との交わりを絶つというのですか。あなたがしようとしていることは、仮初の桜花に永遠を求めるがごときものです。今は盛りと咲き誇っていても、いずれ儚く散り果ててしまうのですよ。あなたがただの皇子なら、それも良いでしょう。しかし、今やあなたはこの国の……」
岩乃にその先を言わせず、秋月は決然と立ち上がった。
月光が秋月を背後から照らし、その顔は闇を纏って見えなくなった。そして無情な響きの声だけが、岩乃に降り注いだ。
「では、これでお暇します。早々に、葛城に行かれませ」
*
翌年の春、大津宮は緊張の中にあった。
秋月帝の最愛の妃、咲耶が臨月を迎えていたのだ。
身籠ってからの咲耶は、ひどい悪阻に悩まされ、ほとんど食事を摂れなかった。そして、生まれつきの胸の病も、彼女の未熟な身体を容赦なく蝕んだ。
秋月が呼び寄せた高名な薬師は、この先もう子を孕むことはできないだろう、そして妊娠を継続し出産をすれば母子の生命は保証できない、と診立てた。
それを聞いても、咲耶は首を横に振った。
「産みます。次がないのなら、なおさらです。絶対に、無事に産んでみせます」
秋月は、固めた拳を床に打ち付けたい衝動をなんとか収めた。
またしても、私は大切な人を失うのか。この国で比類なき力を得ても、愛する人ひとりを守ることもできないのか。
秋月は何度も説得したが、咲耶の意思は変わらなかった。
大津宮には、優秀な産婆だけでなく高僧や陰陽師も呼ばれ、絶え間なく加持祈祷が行われた。
そして……。
季節はずれの小雪が舞う弥生の日、咲耶は一昼夜を超える難産を耐え抜き、無事に男児を産んだ。
しかし、咲耶の出産はそれで終わらなかった。やがて……。
大津宮に、もうひとつの産声が響いた。
皇子の誕生を晴れがましく報告にきた撫子が、半刻後には沈痛な面持ちで赤子を抱いて秋月帝の前に首を垂れた。
「ご健康な皇女さまです。そして、咲耶さまもご無事です。しかし……」
感極まったように言葉を切った撫子は、涙声で続けた。
「咲耶さまが、畜生腹だったなどと……。このようなことは、絶対に露見してはなりません。お産まれになったのは、皇子さまおひとりだけ。それでよろしいですね」
産婆や薬師だけでなく、宮の全員に堅く口止めをし、もし口外すれば家族も死罪とする、と言い渡したという。
「どうするつもりか」
秋月の問いに、撫子は毅然と答えた。
「この子は、私が産んだ娘です」
ならぬ、と秋月は首を横に振った。
「そなたの言う通り、この子の存在は秘さねばならぬ。だが、わが子として育てる。それだけは譲れぬ」
秋月は撫子から赤子を抱きとると、立ち上がって庭に出た。
咲き初めの妹背の桜が、白い雪を被っていた。
「決めたぞ。皇子の名は風花だ。そしてこの子は……」
秋月は手を伸ばし、雪を乗せた一輪の花の枝を折り取った。
薄桃色の八重の花を、赤子の顔にそっと添わせ……。
その名を呼んだ。
「桜」
(了)




