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咲座 (前)

 まだ神無月だというのに、都に初霜が降りた。


 岩乃は、清涼殿から紫宸殿に渡る廊下で、つい足を止めてしまった。

 庭木の枝が、朝陽に白く輝いていた。

 ここであの悲劇が起きてから、まだ半月も経っていない。しかし、帝がいないこの時期に皇太后という地位にいる以上は、息子を失った悲しみにひたってばかりいるわけにもいかなかった。日々の政務に事件の事後処理と、しなければならないことは山積みだった。そして、その仕上げともいうべき朝議が、これから行われる。


 紫宸殿に入ると、すでに二人の男――左右の両大臣が火鉢を抱くようにして、置き畳に座っていた。

 岩乃は、高御座の前の置き畳に座ると、二人に目礼をしてから口を開いた。


「では、はじめましょう」


 はっ、と応じた左大臣が口を開いた。


「瑞葉親王様は、日向国に下られ、そこでご出家なされる由にございます。これによって皇嗣たりえる親王様が、ひとりもおられなくなりました。まことに由々しき事態でございます」


 岩乃は「それで」と先を促した。


「幸いなことに、二代前の誉田帝のご子孫が、御三方いらっしゃいます。このなかから、帝を立てることになりましょう。まず皇子様が御二方、いずれも親王宣下の前に養子に出された方でありますが、日向の久坂(くさか)皇子様と、息長の茅渟皇子様です。ただし、この度の打診に対して、どちらもお断りになられました」


 左大臣の報告は間違ってはいないが、正確でもなかった。岩乃が得た情報では、茅渟皇子が自らも辞退することで、久坂皇子にも辞退を迫ったというのが真相だった。

 続けて、それまで黙っていた右大臣が口を開いた。


「最後の御一方は、誉田帝の孫にあたる秋月皇子様です。東宮であられた宇治雪親王様の皇子でもあり、御身分の上では問題はございません。しかし、かの御方は……」


 言葉尻を濁した右大臣に、岩乃はふっと笑った。


「あの子は、八花内親王との不義密通によって臣下に落とされ、早房親王の追討に赴いたまま十年間も行方不明だった。しかも先の騒乱に関与し、住江を殺害、瑞葉とも殺し合いに及んだ。そのような者を帝にして良いのか、と言いたいのでしょう?」


「畏れ多きことながら」と、右大臣が岩乃の言葉を暗に肯定したが、左大臣は「ただし」と言葉を返した。


「住江親王様は謀反人であり、討ち取った秋月皇子様は功労者といえます。そして瑞葉親王様は、事故とはいえ帝を御手にかけられ、しかも秋月皇子様を殺害すると言って闘いをしかけられた。秋月皇子様は応戦しただけであり、瑞葉親王様を害しておられない。自衛の範囲だったと言えましょう」


 そうですね、と岩乃は答えた。秋月の帝位継承を認めるかのような返事とは裏腹に、岩乃の心中には忸怩たるものがあった。


 秋月の行動など、どうでもいい。葛城の血を引く者でもなければ、大鷦の子でもない者が帝になることが問題なのだ。しかも、聖帝の治世に影を落とし続けた一族の末裔であり、息長氏から正后を迎えて男子もなしている。彼の即位を認めれば、帝室の血統が白鳥王家に戻り、葛城は政権から追い出されて、代わりに息長がその立場を得ることになる。それは、かつて聖帝とともにこの国を支えた一族の者として、我慢できないことだった。


 岩乃は、決然と答えた。


「ですが、私はあの子の即位には反対です」


 その言葉に、左大臣と右大臣の顔色が変わった。

 岩乃は、すべてを察した。

 結論はすでに出ている、ということか。おそらく、茅渟による多数派工作が行われたのだろう。

 だが、それでも岩乃は抵抗せずにはおられなかった。


「そなたらは忘れているようですが、伊穂が即位の前に娶った妃、黒媛が懐妊しています。生まれた子を帝位に就ければよい。それが正当な順序というものでしょう」


 左大臣が、いかにも不快そうにため息をついた。


「いかに皇太后さまのお言葉でも、それはあまりに無茶というものかと」


 言われるまでもなく、そんなことはわかっていた。

 秋月の他に、候補者などいないのだ。

「ですが」と渋る岩乃に向かって、右大臣が決定的な事実を告げた。


「なにより秋月皇子様は、初代神護()から続く白鳥王家の血筋、矢河枝姫()のお孫様でもいらっしゃるのです」


 右大臣の言葉は、秋月こそが正統な王家の末裔であると告げていた。

 だからこそ、と岩乃は無念の臍を噛む。それこそが、反対する理由なのだ。だが……。


 岩乃には、もう返す言葉はなかった。



 その日の午後、紫宸殿の高御座の間に呼ばれた秋月の許に、左大臣と右大臣が揃って即位の請願に訪れた。

 両大臣の口上が終わると、秋月はたっぷりと間をとってから答えた。


「そなたらの願いはわかった。だが、他の者たちはどうであるか?」


 秋月の問いに、両大臣は叩頭した。


「我らだけでなく、臣下はみな、貴方様の即位を待ち望んでおりまする。なにとぞ、ご英断をいただきたく存じます」


 秋月は、ゆっくりと高御座を振り返った。

 そこには、かつて威風堂々と座していた男――大鷦帝の幻影があった。


 あなたには……と、秋月は心の中で語りかける。

 ほんとうに多くのものを奪われた。ようやく、この地位とわが娘だけは取り返すことができたが、奪われたまま失われたものも多かった。すべては、自分が無力だったせいだ。

 ならば。

 秋月の脳裏に、ひとりの少女が浮かぶ。

 せっかく手に入れた、無比の力だ。瑞葉の言葉ではないが、力はどうやって得たかではなく、どう使うかが大事なのだ。だから彼女のために――正統なるわが白鳥王家の血筋を守るために、この力を存分に使わせてもらう。


 一方的にそう語りかけられた大鷦は、返事もできずにしかめた顔で睨み返してきた。

 失せろ、と秋月が念じると、その幻影は雲散霧消した。


 秋月は正面に向き直ると、うむ、と頷いた。


「皆がそこまで言うのであれば、私が帝位に就こう」


 *


 年が改まった弥生の晦日、秋月は茅渟を吉野の花見でもてなした。

 かつて大鷦が催した花見で仮宮にした寺院の境内には、小ぶりだが満開の八重桜が月の光を浴びていた。

 秋月は茅渟の盃に酒を注ぎながら、茅渟に語りかけた。


「義父殿にはじめて声をかけていただいたのが、ここでした」

「そうでしたな」


 あれから十年。その間にこの人から受けた支援は、計り知れない。そして今回もまた、その力を借りねばならなかった。

 秋月は盃を干し、「じつは」と本題を切り出した。


「この近くに、見事な八重桜があるのです。それをどうしても、我が物にしたいのです」


 茅渟は、八重桜ですか、と訳知り顔でうなずいた。


「それは、ぜひ拝見したいですな」


 秋月は几帳の陰から、その少女を連れ出した。十歳ほどの年頃ながら、少女が放つ色香は、すでに衣服を通してでも匂い立つようであった。

 その面差しを見た茅渟は、確信したように秋月に問いかけた。


「なるほど。たしかにこれは、吉野にて芽吹いた八重桜ですな」


 はい、と秋月が頷くと、茅渟も盃を干した。


「……よろしい。それがお望みなれば、菜香には年の離れた妹がいた、ということにいたしましょう」


「助かります」と頭を下げた秋月に、茅渟は薄い笑いを返した。


「なんの。息長出身の妃が二人になるのは、私にとっても好都合ですからな。皇后は必ず息長から出す、貴方の次の帝も、そしてその先もずっと。そのお約束さえお守り下されば、それで良いのです」



 その夜、秋月は少女を伴って、あの場所に出向いた。

 目の前には、寄り添うように並んだ、二本の満開の桜があった。

 手入れもされていない野趣にあふれる桜は、しかし力強い美しさを秘めているように見えた。

 その梢の彼方には、夜半の月が中空にかかっていた。

 山野を吹き渡る風が、火照った肌に心地よかった。


「寒くはないか?」


 裸に単衣を羽織っただけの少女に、秋月は問いかけた。

 はい、と細い声が答えた。

 秋月は、小さなその肩をそっと抱き寄せた。


 これは八花ではない。

 今しがた、散り落ちた花びらを褥として抱いたものは、けして彼女ではない。

 なのに。

 掌に感じた素肌の滑らかさも、熱を帯びたときに発する甘い香りも、秋月を受け入れた彼女自身も、そのすべてが八花そのものだった。


 秋月は、底知れない暗い淵に堕ちていく自分を感じた。

 間違いだと、分かっていた。

 けれど、その淵はどうしようもなく甘美で……。


『いつか滅びの道を行くことになろう』


 瑞葉の残した言葉が、いまさらのように胸を刺した。

 しかし。


 もう後戻りはできないのだと、秋月は自らに言い聞かせた。

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