表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/23

天泣 (後)

「やはり義兄(あに)には、死んでもらいましょう」


 父の冷酷な言葉に、秋月は耳を疑った。


 都の喧騒を嫌って嵯峨の地に住み、風雅をこよなく愛し、穏やかな日々をすごす。そんな父の口から、まさか人の生き死にの話題が出るとは、想像もできないことだった。

 しかし、息子の戸惑いなど知らぬ顔で、宇治雪は話を進めた。


「東宮である私への謀反となれば、先帝の長子といえども死罪は免れない。山杜(やまもり)兄上も、遺言を守って国土の管理に専念していれば、長生きできたでしょうに……。そう思いませんか、大鷦(おおささぎ)兄上」


 呼びかけられた伯父――大鷦親王は、宇治雪よりも上背があり、ひとまわりほど大きな逞しい男だった。見た目どおりの豪放な性格で、眼光は鋭く、声は低くて太い。顔は見えずとも、話し声だけで伯父だとわかるほどだった。

 その大鷦はわずかに顔をゆがめたが、すぐに頬を引き締めてみせた。



「そのとおりだが……」


 返事をしながら、大鷦は頭を抱えた。

 もし、宇治雪の言うとおり、山杜が謀反を企んでいるのであれば、律令の定める八虐の筆頭にあがる大罪であり、未遂でも死罪が定めであった。

 だが、山杜はただ酒席などで愚痴をこぼし、威勢のいいことを吠えているだけであり、謀反実行の意図はなさそうに見えた。


 山杜は、先代の誉田(ほんだ)帝の長男だ。

 誉田帝は死に瀕し、それぞれ母が違う三人の親王を集めて、自身の亡き後のことを取り決めた。

 帝位は末子の宇治雪が受け継ぎ、長男の山杜には国土の管理を任せ、次男の大鷦を摂政に任じた。

 最後の詔は、後継の役割を分担せよという遺言だった。


 だが、律儀にその遺言を守ったのは、大鷦だけだった。

 山杜は、帝位を与えられなかったことを恨み、役目を果たさなかった。それどころか、宮中の主だった家臣を呼びつけては、宇治雪親王即位への不満を口にした。

 その宇治雪も帝位に就かず、御所を離れて嵯峨離宮に移り住んでしまった。


 大鷦にとって、山杜の反応はわかりやすかったが、宇治雪の真意は図りかねた。彼の心にあった暗闇を垣間見ることになったのは、昨年の紅葉賀の宴席でのことだった。

 めずらしく酒を過ごした宇治雪は、いかにも面倒臭そうに囁いたのだった。


「父も、いらぬことをしてくれたものです。権限を三人に分散させるなど、争いの種を蒔いたようなものではないですか。私は帝位など望みもしなかったのに、そのせいで義兄たち(・・)に命を狙わるなど、迷惑千万です」


 宇治雪がそんな疑心暗鬼に囚われているとは、思いもしなかった。

 しかも、「義兄」のあとに「たち」と付けたことを、大鷦は聞き逃さなかった。

 濡れ衣だった。しかし、誉田帝の詔が出ている以上は、東宮である宇治雪の言葉は帝の言葉、つまり詔と同じ効力がある。自分たちの生殺与奪の権は、この末弟に握られているのだ。

 大鷦はそれ以後、公私において山杜と距離をとって、宇治雪に接近した。いまではこうして、私的な宴に招待されるまでになっている。



「……山杜兄上は、ほんとうに謀反など企んでいるのだろうか。たしかにあれこれ不穏な発言は多いが、それだけで死罪とはいくらなんでもやりすぎではないか」


 大鷦の言葉は正論だったが、宇治雪は、ふふふ、と上機嫌に含み笑いをした。


「その不穏な発言とやらが、どれだけの人の口の端に上ったら、この私の耳にまで届くと思いますか? もはや暴言失言では済まないでしょう」


 たしかに、と大鷦は納得した。

 この俺の情報網ならばともかく、世捨て人も同然の宇治雪の耳に入るとなれば、宮中では知らぬ者はないと言っていい。

 そうなれば、言葉が一人歩きすることもありうる。


 もはやこれまでか。


 大鷦は山杜を擁護する言葉を飲みこみ、頭を振ると、秋月に笑いかけた。


「殿下には、退屈な話であろう。庭でも歩いてこられるがよい。東園の八重桜が咲き始めていましたぞ」


 席を外せという、伯父からの言外の忠告を察した秋月は、二人の前を辞して階を降りて東園に出たのだった。



 あれから二人の間で、どのような会話があったのだろう。

 気にはなったが、今ここにいる父の機嫌は良い。ならば、それほど心配しなくて良いのかもしれない。


 そう思ったときだった。

 突然の悲鳴と怒号が、宮に響き渡った。

 騒ぎの方角をみやった宇治雪は、眉をひそめて舎人を呼んだ。


「無粋な……。様子を見てまいれ」


 役目を与えられた舎人は、しかし数歩を歩く間もなく、うなり声と血しぶきを上げて倒れた。

 その遺骸を踏み越えて、数人の男が宸殿になだれ込んできた。

 各々が手に持った剣は血塗られ、衣服は返り血で赤黒く変色している。

 秋月は突然のことに我を忘れたが、宇治雪は気丈にも賊の先頭の男を詰問した。


「何者か」


 賊の男は髭の口許から隙間だらけの前歯をのぞかせて、「東宮殿ですな」と問い返した。


「いかにも」


 答えた宇治雪に、男はいきなり剣を向けた。

 避ける術も間もなかった。

 胸を刺し貫かれ、宇治雪は板の間に崩れ落ちた。


 八花の悲鳴に被さるように、野太い声が響いた。


「なにをしているかっ」


 賊の男が剣を掲げて、声の主を見やる。

 現れたのは大鷦だった。大股で賊の男に迫ると、蘇芳の狩衣の腰に下げた剣を抜き放った。切っ先を賊の男に突きつけ、大鷦は一味をにらみつけた。


「そなたら、山杜の手の者だな?」


 賊の男の気勢が、あきらかに削がれたようだった。男は舌打ちをし、身をひるがえして逃げ去った。

 大鷦は舎人たちに「生け捕りにせよ」と命じ、倒れた宇治雪を助け起こした。


「東宮、しっかりなされ。すぐに手当てをしますぞ」


 しかし、宇治雪がすでに手遅れであることは、誰の目にも明らかだった。

 息も絶え絶えの宇治雪は、大鷦の狩衣の袖を掴むと、震える唇でなにかを告げたようだった。


「……承知した」


 大鷦の返答と同時に、宇治雪の頭が力なく垂れさがった。

 宇治雪を板の間に寝かせた大鷦は、首を何度か横に振って、ため息とともに告げた。


「東宮は亡くなられた。ご遺志に従って、俺が帝位に就く」


 大鷦は、秋月と八花を見やると、「もう大丈夫だ」と笑みを浮かべてみせた。


「賊は、山杜親王が差し向けたものにちがいない。東宮の無念は、この俺が晴らす」


 そのときになって、ようやく秋月のなかに、父が死んだという実感が湧いた。

 恐怖と不安とが一気に押し寄せて、秋月の足から力が抜けた。

 変わり果てた父の横に座り込む秋月を一瞥してから、大鷦はおもむろに八花の手をとった。


「心細かろうが、ご安心なされ。そなたたちのことは、この俺が責任をもって面倒をみさせてもらう。あなたには裳着までのあいだ、賀茂斎王をお任せする。妹君の芽鳥(めどり)殿は采女として、おそばに置かれるがよろしかろう。いずれ……」


 そのあとに大鷦が続けた言葉は、あまりにも場違いだった。


「お二人とも、わが妃としてお迎えする」


 秋月には、伯父がなにを言っているのか、わからなかった。意味がわからないのではなく、なぜいまここでその言葉なのか。起きていることに、理解が追いつかなかったのだ。

 それは秋月だけでなく、八花も同じだったようだ。


「妃……?」


 つぶやくように発した八花の問いに、大鷦は噛んで含めるように応じた。


「裳着を済ませられたら、そなたも芽鳥どのも、ともに俺のもとに入内されよ、と申し上げたのだ。これは、宇治雪殿の遺言である」


 立ち上がろうとした八花は、ふらついて箏の上に手を突いた。

 張り詰めていた絃が、びいんと悲鳴を上げて切れた。



 事件から三日もしないうちに、山杜親王が宇治雪東宮暗殺事件の首謀者として、大鷦に討たれた。


 その年の秋、大鷦は帝位に就いた。

 齢、四十五歳。

 長寿の祝いをとうに終えた、老齢にさしかかっての即位であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ