天泣 (後)
「やはり義兄には、死んでもらいましょう」
父の冷酷な言葉に、秋月は耳を疑った。
都の喧騒を嫌って嵯峨の地に住み、風雅をこよなく愛し、穏やかな日々をすごす。そんな父の口から、まさか人の生き死にの話題が出るとは、想像もできないことだった。
しかし、息子の戸惑いなど知らぬ顔で、宇治雪は話を進めた。
「東宮である私への謀反となれば、先帝の長子といえども死罪は免れない。山杜兄上も、遺言を守って国土の管理に専念していれば、長生きできたでしょうに……。そう思いませんか、大鷦兄上」
呼びかけられた伯父――大鷦親王は、宇治雪よりも上背があり、ひとまわりほど大きな逞しい男だった。見た目どおりの豪放な性格で、眼光は鋭く、声は低くて太い。顔は見えずとも、話し声だけで伯父だとわかるほどだった。
その大鷦はわずかに顔をゆがめたが、すぐに頬を引き締めてみせた。
「そのとおりだが……」
返事をしながら、大鷦は頭を抱えた。
もし、宇治雪の言うとおり、山杜が謀反を企んでいるのであれば、律令の定める八虐の筆頭にあがる大罪であり、未遂でも死罪が定めであった。
だが、山杜はただ酒席などで愚痴をこぼし、威勢のいいことを吠えているだけであり、謀反実行の意図はなさそうに見えた。
山杜は、先代の誉田帝の長男だ。
誉田帝は死に瀕し、それぞれ母が違う三人の親王を集めて、自身の亡き後のことを取り決めた。
帝位は末子の宇治雪が受け継ぎ、長男の山杜には国土の管理を任せ、次男の大鷦を摂政に任じた。
最後の詔は、後継の役割を分担せよという遺言だった。
だが、律儀にその遺言を守ったのは、大鷦だけだった。
山杜は、帝位を与えられなかったことを恨み、役目を果たさなかった。それどころか、宮中の主だった家臣を呼びつけては、宇治雪親王即位への不満を口にした。
その宇治雪も帝位に就かず、御所を離れて嵯峨離宮に移り住んでしまった。
大鷦にとって、山杜の反応はわかりやすかったが、宇治雪の真意は図りかねた。彼の心にあった暗闇を垣間見ることになったのは、昨年の紅葉賀の宴席でのことだった。
めずらしく酒を過ごした宇治雪は、いかにも面倒臭そうに囁いたのだった。
「父も、いらぬことをしてくれたものです。権限を三人に分散させるなど、争いの種を蒔いたようなものではないですか。私は帝位など望みもしなかったのに、そのせいで義兄たちに命を狙わるなど、迷惑千万です」
宇治雪がそんな疑心暗鬼に囚われているとは、思いもしなかった。
しかも、「義兄」のあとに「たち」と付けたことを、大鷦は聞き逃さなかった。
濡れ衣だった。しかし、誉田帝の詔が出ている以上は、東宮である宇治雪の言葉は帝の言葉、つまり詔と同じ効力がある。自分たちの生殺与奪の権は、この末弟に握られているのだ。
大鷦はそれ以後、公私において山杜と距離をとって、宇治雪に接近した。いまではこうして、私的な宴に招待されるまでになっている。
「……山杜兄上は、ほんとうに謀反など企んでいるのだろうか。たしかにあれこれ不穏な発言は多いが、それだけで死罪とはいくらなんでもやりすぎではないか」
大鷦の言葉は正論だったが、宇治雪は、ふふふ、と上機嫌に含み笑いをした。
「その不穏な発言とやらが、どれだけの人の口の端に上ったら、この私の耳にまで届くと思いますか? もはや暴言失言では済まないでしょう」
たしかに、と大鷦は納得した。
この俺の情報網ならばともかく、世捨て人も同然の宇治雪の耳に入るとなれば、宮中では知らぬ者はないと言っていい。
そうなれば、言葉が一人歩きすることもありうる。
もはやこれまでか。
大鷦は山杜を擁護する言葉を飲みこみ、頭を振ると、秋月に笑いかけた。
「殿下には、退屈な話であろう。庭でも歩いてこられるがよい。東園の八重桜が咲き始めていましたぞ」
席を外せという、伯父からの言外の忠告を察した秋月は、二人の前を辞して階を降りて東園に出たのだった。
あれから二人の間で、どのような会話があったのだろう。
気にはなったが、今ここにいる父の機嫌は良い。ならば、それほど心配しなくて良いのかもしれない。
そう思ったときだった。
突然の悲鳴と怒号が、宮に響き渡った。
騒ぎの方角をみやった宇治雪は、眉をひそめて舎人を呼んだ。
「無粋な……。様子を見てまいれ」
役目を与えられた舎人は、しかし数歩を歩く間もなく、うなり声と血しぶきを上げて倒れた。
その遺骸を踏み越えて、数人の男が宸殿になだれ込んできた。
各々が手に持った剣は血塗られ、衣服は返り血で赤黒く変色している。
秋月は突然のことに我を忘れたが、宇治雪は気丈にも賊の先頭の男を詰問した。
「何者か」
賊の男は髭の口許から隙間だらけの前歯をのぞかせて、「東宮殿ですな」と問い返した。
「いかにも」
答えた宇治雪に、男はいきなり剣を向けた。
避ける術も間もなかった。
胸を刺し貫かれ、宇治雪は板の間に崩れ落ちた。
八花の悲鳴に被さるように、野太い声が響いた。
「なにをしているかっ」
賊の男が剣を掲げて、声の主を見やる。
現れたのは大鷦だった。大股で賊の男に迫ると、蘇芳の狩衣の腰に下げた剣を抜き放った。切っ先を賊の男に突きつけ、大鷦は一味をにらみつけた。
「そなたら、山杜の手の者だな?」
賊の男の気勢が、あきらかに削がれたようだった。男は舌打ちをし、身をひるがえして逃げ去った。
大鷦は舎人たちに「生け捕りにせよ」と命じ、倒れた宇治雪を助け起こした。
「東宮、しっかりなされ。すぐに手当てをしますぞ」
しかし、宇治雪がすでに手遅れであることは、誰の目にも明らかだった。
息も絶え絶えの宇治雪は、大鷦の狩衣の袖を掴むと、震える唇でなにかを告げたようだった。
「……承知した」
大鷦の返答と同時に、宇治雪の頭が力なく垂れさがった。
宇治雪を板の間に寝かせた大鷦は、首を何度か横に振って、ため息とともに告げた。
「東宮は亡くなられた。ご遺志に従って、俺が帝位に就く」
大鷦は、秋月と八花を見やると、「もう大丈夫だ」と笑みを浮かべてみせた。
「賊は、山杜親王が差し向けたものにちがいない。東宮の無念は、この俺が晴らす」
そのときになって、ようやく秋月のなかに、父が死んだという実感が湧いた。
恐怖と不安とが一気に押し寄せて、秋月の足から力が抜けた。
変わり果てた父の横に座り込む秋月を一瞥してから、大鷦はおもむろに八花の手をとった。
「心細かろうが、ご安心なされ。そなたたちのことは、この俺が責任をもって面倒をみさせてもらう。あなたには裳着までのあいだ、賀茂斎王をお任せする。妹君の芽鳥殿は采女として、おそばに置かれるがよろしかろう。いずれ……」
そのあとに大鷦が続けた言葉は、あまりにも場違いだった。
「お二人とも、わが妃としてお迎えする」
秋月には、伯父がなにを言っているのか、わからなかった。意味がわからないのではなく、なぜいまここでその言葉なのか。起きていることに、理解が追いつかなかったのだ。
それは秋月だけでなく、八花も同じだったようだ。
「妃……?」
つぶやくように発した八花の問いに、大鷦は噛んで含めるように応じた。
「裳着を済ませられたら、そなたも芽鳥どのも、ともに俺のもとに入内されよ、と申し上げたのだ。これは、宇治雪殿の遺言である」
立ち上がろうとした八花は、ふらついて箏の上に手を突いた。
張り詰めていた絃が、びいんと悲鳴を上げて切れた。
事件から三日もしないうちに、山杜親王が宇治雪東宮暗殺事件の首謀者として、大鷦に討たれた。
その年の秋、大鷦は帝位に就いた。
齢、四十五歳。
長寿の祝いをとうに終えた、老齢にさしかかっての即位であった。