承継 (前)
住江による内裏襲撃の混乱は、後宮にも及んでいた。
女官たちは何が起きたのかわからないままに右往左往するだけだったが、撫子は有事を察知すると躊躇なく秋月の指示を実行した。
木花開耶を捕まえて、秋月のもとに連れていくから安心してほしいと言い聞かせ、彼女の手を取って内裏のいちばん奥にある貞観殿に向かった。内裏の北端の玄輝門から脱出するつもりだった。
だが、清涼殿を出たところで、思いがけぬ事態に直面した。
蔵人の一人に抱きかかえられるように連れられた、伊穂帝と出くわしたのだ。
黄櫨染の抱を身にまとった帝は、これ以上ないというほどに顔を赤らめて、ふらつく体を近習に預けていた。明らかに泥酔していた。
おそらく、蔵人が気を利かせて救助したのだろう。
撫子は、木花開耶の保護と、帝の確保のどちらを優先すべきか、判断に迷った。
蔵人はすがるような表情で、撫子に後宮が無事かどうか尋ねた。
撫子はとっさに、「この先には多くの敵兵がいます」と嘘をついた。これですこしは足止めになるだろう。だが、住江も秋月も、帝の所在を見失っているにちがいない。なんとか知らせる方法はないものか。
それぞれに別の事情で途方に暮れる蔵人と撫子を尻目に、帝は木花開耶に舐めるような視線を這わせた。
「ほう、これは美しい女嬬だ。そなた、どこかで見た憶えがあるぞ。ああ、そうか。似ておるのだ、あの……」
このような状況でよくも、と撫子は呆れた。しかし、ここでこの子の素性が知れるのは、なんとしても避けなければならなかった。
伊穂の注意をそらすために、撫子は不敬を承知でその言葉を遮った。
「主上、このままでは賊がまいります。お早くお逃げを」
「いやいや、しばし待て。やはり……」
伊穂は、それでもなお女嬬の正体にこだわった。
焦る撫子の窮地を救うかのように、伊穂の背後から、廊下を走るいくつもの足音が重なりあって近づいてきた。篝火に赤く照らし出された一団は、住江たちだった。
撫子は胸をなでおろし、伊穂は短い悲鳴を上げて蔵人の背後に回った。
住江は、伊穂を見下すように嘲笑った。
「伊穂兄上。こそこそと逃げ隠れなさるとは、情けないですな」
あからさまな住江の侮辱に、伊穂は蔵人の肩越しに、だまれ、と言い返した。
「この無礼者が。余はすでに即位しておるのだぞ。主上と呼ぶのが礼儀であろう。そも、今宵の仕儀は、いかなる理由でか。答えによっては許さぬぞ」
ろれつは怪しかったが、言葉だけはしっかりとしていた。
蔵人の顔が青ざめ、住江は「はっ」と吐き捨てた。
「許しだと? そのようなもの、もはや要らぬわ。帝であろうとなんであろうと、力なき者はここで死ぬのみ」
やれ、と住江は兵の一人に命じた。兵は蔵人の肩をつかんでやすやすと引き倒すと、ぎらりと光る剣を帝に突きつけた。
伊穂の顔が恐怖にひきつった、まさにその時だった。
ひゅっと風を切る音がして、一本の矢が兵の胸に刺さった。兵が呻いて倒れると同時に、「だれも動くな!」という大声が、辺りを圧するように響いた。
声の主は瑞葉だった。
黒の武官束帯姿で弓を構えて立ち、その背後には武装した兵部省の兵たちを従えていた。束帯の長い裾はからげて帯に挟み、臨戦態勢を整えていた。
「やはり、嫌な予感は当たる。……兄上、これで目が覚めましたか」
瑞葉の嫌味をこめた問いに、伊穂は血走った目を弟に向けて、ふんと鼻を鳴らした。
秋月は、裏頭に隠れて舌打ちをする。一時的にとはいえ伊穂の行方を見失ったことが、瑞葉の加勢を許す結果につながった。あわよくば一気に三人を片付けるつもりだったのに、これではだれひとり斃すこともできないかもしれない。しかも、この場には、いちばんいて欲しくない者――木花開耶までいる。最悪の展開といってよかった。
帝の保護に成功した瑞葉は、弓に矢をつがえて住江に向けた。
「さて、住江兄上。なおも抵抗してここで死ぬか、それとも敗北を認めて逃げるか、選択の機会を差し上げよう。兵たちを連れて吉備に下られるのであれば、追撃はしないとお約束するが、いかに」
勝ちにおごらぬという体を装いながら、そのじつ瑞葉の提案がかなり消極的であることに、秋月は違和感を覚えた。
その疑問は、瑞葉の背後に控える兵部省の兵を見て、ひとつの確信に変わった。瑞葉の兵の人数は、こちらの手勢とはたいして差がなかった。これでは、混戦になれば伊穂を守りきることは難しい。だからこそ、あえて住江に逃亡を選択させるよう誘導しているのだ。
ならば、まだやりようはある。だが、もし住江がその提案に乗ってしまえば、秋月には得るものはなにもなくなってしまう。
秋月は、住江に耳打ちをした。
「罠です。ここで引けば、まちがいなく追撃を受けるでしょう」
「わかっておるわ」と住江は吐き捨てた。そして、住江は瑞葉に剣を向けた。
「そんな話が信用できるものか。我らを油断させて、だまし討ちにするつもりにちがいない。そうであろう」
住江の言葉を受けて、伊穂もまた瑞葉の策を潰しにかかった。
「勝手なまねをするな、瑞葉。この者どもを逃がすなど、ありえぬわ。いますぐに、皆殺しにせよ」
双方の兵が、各々の武器を構えた。
もはや戦闘は確実だ。秋月は、すばやく木花開耶と伊穂の位置を確かめる。まずは木花開耶を撫子とともに逃がし、あとは混戦に持ち込んで伊穂たちを討ち取るしかない。
秋月もまた、剣を構えた。
一触即発の危機を、「双方待て」と瑞葉は再び大声で制した。そして伊穂に向き直った。
「お待ちください、主上。ここで戦闘になれば、双方に少なからぬ犠牲が出ることは明白です。よしんば住江らを討ち取っても、いずれ必ずや吉備一族の反発を招き、小さからぬ騒乱となりましょう。都から追放なされば良い。無用の血を流すことはありません」
瑞葉の言葉には、いかに不利な状況かを、相手には悟らせずに伊穂に伝えようとする意図があった。しかし、それは伊穂には伝わらなかった。それどころか、伊穂の表情は、みるみるうちに怒りに歪んだ。
「やはりそうか。そなたも住江と結託して、余を殺しにきたのだな。謹慎を命じたはずなのに、武装してここにいるのがその証であろう……」
これには秋月も、そしてこの場にいる者すべてが――敵味方の区別なく、呆気にとられた。
ただ伊穂ひとりが、得意げに言葉を続けた。
「……どうだ、図星であろう。もしそうではないと言うのなら、余の命令をすぐに実行せよ。住江とその一党をそなた自身の手で始末すれば、そなたのことを信じてやってもよい。もし、まだ賊の味方をすると言うのなら、そなたも同罪と心得よ」




