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蠢動 (後)

 瑞葉は、伊穂の宮を辞したその足で、石清水八幡宮を訪ねた。

 鬱蒼とした林の中の参道を登りきると、山上には朱も鮮やかな社殿が建ち並んでいた。足下に桂川、宇治川、木津川の合流地点を見下ろし、東に目を向ければ満々と水をたたえる巨椋池が広がっている。北東を眺めれば、比叡の山南の麓に都の建物が霞んで見えている。

 この地は、難波津と都を結ぶ水運の要衝であった。この地に鎮座する男山の頂に、神社の名を借りた要塞を築いた葛城氏の戦略眼に、瑞葉はあらためて舌を巻いた。

 そして今、目の前にはその葛城氏の威光を象徴する人物がいた。瑞葉は床に手をつき、言上した。


「お力添えいただきたいことが、ございます」


 瑞葉が頭を下げると、岩乃皇后は言葉を探すように、しばし沈黙した。

 十年ぶりの面会であった。あの頃は童顔に見えた岩乃の顔は、すこし肉付きがよくなり貫禄がついていた。穏やかな暮らしぶりがしのばれる柔和な面差しは、凄惨な末期を迎えた大鷦とは対照的だった。

 岩乃は、目を伏せるとゆっくりと首を横に振った。


「いまさらこの私が、貴方のお役にたてることなどないと思いますよ」


 瑞葉は顔をあげて、いいえ、と詰め寄った。なにがなんでも、この人を味方につけなければならない。


「ご相談は、皇后様でなければ収められないことなのです。父帝の遺言で、帝位は伊穂兄上が継ぐことになりました。しかし、皇后様や葛城氏にとって見逃せないことも、父帝は言い遺されたのです」


 岩乃の顔つきが一瞬で厳しくなり、聞かせてもらいましょう、と先を促した。

 瑞葉は、では、と応じ、顔を上げて岩乃に語りかけた。


「父帝は皇后様のご意見を聞き入れず、白鳥王家の皇女に手を付けた。それで葛城氏の信用を失い、政権の基盤は弱体化した。父帝が亡くなった今こそ、皇后様の子である伊穂兄上が葛城との関係を修復すべき好機であるのに、兄上は父帝と同じ過ちを犯そうとしているのです。伊穂兄上は、父帝の遺言を受け、八花内親王の娘の木花開耶を后に迎えて、その子に帝位を継がせようとしているのです」


 瑞葉の話に、岩乃がはあっと長い息をついた。


「まだそのような世迷いごとを……」


 そうつぶやいたあと、岩乃は張りのある声で続けた。


「わかりました。では瑞葉、早速ですが、都に戻って伊穂に伝えなさい。先例に倣い、先帝の葬儀から東宮の践祚までの間、万事は皇后である私が取り仕切ります。木花開耶は亡くなったことにして、私に預けなさい。もし伊穂に入内させるとしても、それは葛城の媛としてです。すぐに内裏に参るゆえ、出迎えの支度をなさい」


 そう言いきった岩乃の顔には、かつて神楽岡で大鷦とともに都の条里を睥睨していた時の、自信に満ちた表情があった。

 瑞葉は、自ら信じる正義を実現するための人選に、誤りがなかったことを確信した。



「あれで、よかったのですね?」


 瑞葉の退出を確かめた岩乃は、そうひとりごとを言った。

 几帳の陰から、はい、と押し殺した男の声がした。


「これで東宮様も、しばらくは思いとどまるしかありますまい。ここからは貴女様の指図が絶対となり、かつてのように葛城が政治の表舞台に立つことになる。いずれ折を見て、先帝の遺言も、すべてなかったことになさればよろしいかと」


 ほう、と息をついて、岩乃は感心したような笑みを口もとに浮かべた。


「可愛げがなくなりましたね、この私の足元を見てくるとは。……これは貴方にとっても、利益のあることだから、ですね?」


 岩乃の問いに、男は間髪を入れず答える。


「いまの私は、一介の臣にすぎませぬ。すべては国の安寧のため。自身の利益など、考えてはおりません」


 岩乃は、再びためいきをついた。


「……そうですか。ならば、それでよしとしましょう」


 はっ、と男の声が、短く応じた。


 *


「手を貸してほしいことがあるのだ、住江殿」


 そう言って、瑞葉は頭を下げた。

 住江親王は、しおらしい弟の姿を見て、得体のしれない違和感を覚えた。

 この男は、少なくともこの私に頭を下げてものを頼むような人物ではない。常に正義をふりかざし、相手を論破することに喜びを覚える種類の人間のはずだ。

 なんでしょうか、と問いかけた住江に、瑞葉は頷いた。


「伊穂兄上のしようとしていること、私にはどうしても見過ごせないのだ。白鳥の王家の血筋など、権威はあっても政治には何の役にも立たない。それどころか、後々に後継者争いの禍根となろう。白鳥王家の者たちを、帝位の継承に関わらせてはならない。我らと白鳥の王家の繋がりは、ここで断絶させねばならないのだ」


 住江は、瑞葉の口から出た言葉を、鵜呑みにはできなかった。

 言っていることは一理あるが、そもそもこの男にとって益のあることではない。むしろ、伊穂の意を受けて、この私に二心がないか探りに来たと考えるほうが、しっくりとくる。

 住江は、探りを入れてみることにした。


「そうは言うが、父帝や伊穂兄上のなさりようは十分に理解できるぞ。父帝のお言葉どおりなら、もともと誉田帝以降は正統とは言い難い政権だ。だから父帝は、臣下や民から支持を得るために、ことさら善政にこだわっただろうよ。築き上げた実績に加えて、白鳥の王家の権威を取り込めれば、帝位継承も万全となる。悪手ではないと、私は思うがな」


 住江が言葉尻を濁すと、瑞葉は首を横に振った。


「父帝は晩節を汚した。白鳥王家の血筋などに拘ったからだ。同じ愚を伊穂兄上に犯させることはできない。かの王家の狂った血筋をここで絶ち、我らは血統などにすがらず正しき政をなしていけばいい。伊穂兄上には、それをご納得いただかねばならないのだ。じつを言えば、このことは岩乃皇后様にも了承をいただいている」


 なるほど、と住江は内心で納得した。

 それは、この男なりの正義なのだ。しかも、岩乃皇后を巻き込むなど、意外と抜け目がない。だが、逆に言えば、父帝の遺言というものは、それほどに重いのだ。白鳥の王家の血筋を手に入れた者が、帝位を継承することができる。これはいまや絶対の条件、ということか。

 住江は、控えていた近習に声をかけた。


馬狩(うまかり)、そなたはどう考えるか?」


 おそれながら、と平伏した男は、緋色の束帯に身を包んだ武官だった。裏頭(かとう)という覆面から目元だけを覗かせた姿は、僧兵のようでもあった。


「瑞葉親王様のお言葉、まさにその通りと存じます。それに……」

「かまわぬ、申せ」


 住江に促され、馬狩は、はっと短く返事をしてから、言葉を続けた。


「伊穂東宮様と木花開耶さまの間にお子ができれば、瑞葉、住江両殿下は、皇嗣ではなくなられまする」


 誰もが口にできない、いや口にしてはならないことだった。

 瑞葉は、わずかに顔をしかめた。


「それを我らの前で、はっきりと言うか。なるほど、ためにする覆面というわけか。まあ良い。言っておくが、私は帝位などにこだわってはおらぬぞ。あくまでも、国政の安定のみが望みなのだ」


 瑞葉はそう言いきったが、住江の存念はそれとは正反対だった。むしろ、馬狩の言葉が、抑え込んできた野望を燃え上がらせる火種となった。

 白鳥の王家の血筋を手に入れ、父帝が敷いた帝位継承の道筋を辿るのは、なにも東宮である必要はない。どのみち正統性のない帝位であれば、実力のある者が継げばよいのだ。帝位など、順番を待つのではなく、奪い取るものだ。ほかならぬ大鷦が宇治雪から奪ったように、伊穂東宮を廃して即位し、瑞葉親王は先帝の遺言に逆らう者として始末すれば良い。帝位にさえつけば、あとはどうとでもなる。わが母の実家である吉備氏なら、葛城氏にじゅうぶん対抗できる。

 皮算用を終えた住江は、ふむと頷いて、瑞葉に向き直った。


「ところで、木花開耶殿のことは、どうするつもりなのだ」

「あれは……近いうちに、病で亡くなることになっています」


 普段から正義正義と高説を垂れる瑞葉の口から、なにやら含みをもった言葉が出るのは意外だった。住江は、単刀直入に訊いた


「まさか、命を奪うと?」


 瑞葉は、いいえ、と首を振った。


「身分と名を偽り、葛城の媛として皇后さまの許で暮らすことになりましょう。いずこにも嫁さず、いずれは斎宮なり出家ということになろうかと」


 そこまで段取りができているということか。

 住江は、瑞葉の誘いに乗るしかない状況を理解した。だが、同時に、からくりのすべてを暴露してくれたことに、内心でほくそ笑んだ。

 そういうことであれば、と住江はかしこまったふりをして見せた。


「私も東宮を説得してみよう」

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