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蠢動 (前)

 八坂東院へ向かう上り坂の途中で、秋月は都を振り返った。

 かつて神楽岡から大鷦たちと見晴らした都は、その壮大な広がりが遠く感じたものだったが、ここ八坂から見る都は、身近に人々の暮らしの息吹を感じることができた。

 道中の東市では、さまざまな物産を商う者と、それを買い求める客で賑わいをみせていた。だが、いまから十六年前、この都は滅亡に直面していた。民家からは炊煙も上がらず、餓死者が路上にも転がり、白昼堂々と野盗が跋扈する有様だった。

 大鷦の治世において、都は――この国は、まちがいなく豊かになった。秋月はそれを改めて実感した。


 茅渟の伝手で得た近衛府での仕事は順調で、非番の日にはこうして外出する自由もあった。

 坂道を登り切り、山門をくぐる。

 広大な境内に数多の堂宇を要する八坂東院の一角、竹林に隠れるように建っている塔頭の戸を叩くと、すでに顔見知りになった僧都が顔を出した。

 手土産の桃を差し出すと、僧都は破顔して押し頂いた。


木花開耶(このはなさくや)さまは?」


 秋月の問いに、僧都は部屋の中を指差した。


「貴方様のおいでを、心待ちになさっておられたのですが……さきほどお休みになられまして」


 僧都に案内された几帳の陰には、褥に横たわる少女の姿があった。

 雪を思わせる白い顔に、ちいさく整った目鼻立ちは、まぎれもなく八花内親王のものであった。撫子の手引きで初めて面会したとき、ひと目で秋月は確信した。この少女は、私と八花の子であると。

 秋月が腰を下ろすのと同時に、少女は目を覚ました。

 瞼を擦りながら少女が上体を起こし、秋月をみとめると、その膝に顔をのせた。柔らかな感触があり、ほの甘い芳香とともに、艶を帯びた声が秋月の心をくすぐった。


「夢を見ました」

「どんな夢ですか?」

「白鳥が卵を産んだのです。その卵が孵ると、とてもきれいな男の子と女の子が現れました」


 秋月は、少女の髪を優しく撫でた。


「それはきっと吉夢です。近いうちに、よいことがあるのでしょう」


 はい、と少女は頬を染めた。

 剥いた桃を持参してきた僧都は、秋月たちの様子を見て目を細めた。


「まるで、父娘のように見えますな。この姫君は、やんごとなき御身分であらせられるのに、疎まれてお屋敷には住めず、こうして拙僧がお預かりしているのです。誰にも心を開かず、話もしない姫君でしたのに、なぜか貴方様には最初から懐いておられる。やはり、お寂しかったのでしょうな」

「だから、密会を見逃してくださっている、と?」


 僧都は深く頷いた。


「あの御方に知れれば、この皺首が胴体と離れ離れになるやもしれませぬが。この子の幸せそうな様子を見てしまっては、いたしかたありませぬ」


 秋月は、僧都に頭を下げた。そして、少女に語りかける。


「貴女は、このような場所にいていい方ではないのです。いずれ、この私がかならず貴女をお迎えに来ますから」


 塔頭を後にした秋月は、北の方角に目を向けた。

 遠くに内裏の殿舎が霞んで見える。

 急がねばならない、と秋月は決意を新たにする。この秋には伊穂東宮の践祚大嘗祭が行われる。帝に即位した伊穂は、瑞葉親王の皇女である木花開耶内親王を后に迎えることになっている。それまでに、事を為さねばならない。

 木花開耶に会うたびに、秋月の心身の昂ぶりは強く大きくなっていった。

 まちがいなく、この私の娘だ。だから、このような思いは、許されることではない。だが、理性の及ばぬ心の底に、赤黒い熾火のような熱があった。その熱が、秋月に訴えるのだ。純血を守れ、汚させるな、と。そしてそれは、かつて秋月にかけられたある女性の言葉になって、再び背中を押した。

『……あの人は、何も恐れずに、自分の望みをまっすぐに訴え、行動し、そして叶えた。あなたにそれができますか? 大事なのはそこですよ』

 そうだ、私はもう、失い過ぎるほどに多くのものを失った。今度こそ、失うことはできないのだ。


 *


「考え直してはもらえないか、兄上」


 瑞葉親王に翻意を促された伊穂東宮は、いかにも意外そうに「なぜだ」と聞き返した。


「兄上は、かつて神楽岡で岩乃皇后が仰っていたことを、お忘れか?」


 伊穂の脳裏に、八花内親王や芽鳥内親王を后に迎えることは国の乱れに繋がる、と言った岩乃の言葉がよみがえる。それは女としての不満だけではなく、皇后としての真っ当な忠告をも多分に含んでいた。


「忘れたわけではないが、もうその心配はいらぬだろう」


 皇后が――母が心配したのは、父帝と八花内新王や芽鳥内親王の間に皇子が生まれ、帝位をめぐる争いが起きることだった。だがいまや、父帝の跡目は確実に自分が継ぐことになっている。それに、政権を盤石にするには正統な王家の血筋という権威も必要だ、という父帝の意図も理解できる。


「とにかく、私は父帝の遺志を引き継ぐ。それでいいな?」


 伊穂の念押しに対して、瑞葉は頭を振って反対した。


「いかに父帝の遺言であろうと、否、父帝の言葉であるがゆえに、聞けぬのです。父帝と岩乃皇后が作り上げたこの国の安定を揺るがせたのは、何が原因だったか。それを兄上もよくご存じのはずだ。父帝が白鳥王家の血に、あの一族の魔性に囚われなければ、葛城の後ろ盾を失うこともなかった。そうまでして結縁しようとした八花殿も芽鳥殿も、あのような不埒な行為で父帝を裏切った。父帝が白鳥の王家に関わったのは、間違いだったのだ。あの者どもを排して葛城と再び手を結び、この国の政を安定させるには、今が絶好の機会です。そうは思いませんか」

「たしかにそうだが、帝位継承の正統性を皆に認めさせるためには、白鳥王家の権威を頼むしかないのも事実だ」

「それが国政を乱すもとになる、と何度言えばお分かりになるのか。白鳥王家の権威を利用すると仰るのなら、木花開耶の正体を公表せねばならないが、いままで秘匿してきたことにどのような言い訳をなさるおつもりか。それに、そうなれば葛城との関係の修復は不可能となりましょう。海千山千の父帝なればこそ、葛城の後ろ盾なしでもなんとかしのいでこられましたが、兄上にそれができますか」


 瑞葉の言葉は、反論のしようもない正論だった。だが、その容赦のない指摘は、正鵠を射ているがゆえに、伊穂を苛立たせた。


「大きなお世話だ。私は皇后の息子でもあるのだぞ。母上も、そして葛城も、この私であれば支えてくれよう。それに、帝位継承に争いが起きて、そなたの実家や住江の実家が出しゃばってくれば、それこそ国を乱すことになる。そなたにそのような野心がないのであれば、黙って私の言うことを聞け。さもなくば、謀反の疑いありとして処罰するが、どうだ」


 瑞葉は険しい眼差しで兄を睨んでいたが、やがて深いため息を落とした。


「わかりました。そこまで仰るのなら、しかたがない。私とて、逆賊と呼ばれてまでお諫めしようとは思わない。兄上の思い通りになさればいい」


 伊穂は急変した弟の態度に、かすかな不安を覚えた。まさか、不遜な企てを胸に秘めているのではなかろうな、と。


 *


 瑞葉は、兄の頑迷さに呆れていた。

 木花開耶のことが世間に知られれば、逆に我らの権威が損なわれるだけだ。だが、公表しなければ、そもそも彼女を后とする意味がない。

 つくづく、白鳥王家は国に乱れを生む存在だ。正統ではあっても、そこに正義などない。やはり、その血筋を絶つしかないのだ。

 だが、そうなると……。


 あれ(・・)を殺すことになるのか。


 瑞葉の脳裏に、木花開耶の姿が浮かぶ。

 年に数度の節会で面会するだけの、形式的な父娘だった。親として愛情を注いだことなど、ただの一度もなかったし、その必要も感じなかった。むしろ、出自を思えば忌避すべき娘のはずだった。

 だが、白鳥王家の最期の女子などという重い宿命を背負わせるには、彼女はあまりにも普通の少女であった。国政の安定のためなどという大人の勝手な事情で、年頃の娘らしいこともさせてもらえず、あまつさえその未来や命までも摘み取られるなどということが、ほんとうに正義と呼べるようなことなのか。


 瑞葉は頭を振って、煮詰まった思考を振り払った。

 そのとき、一筋の光明が差した。

 あの方ならば、あるいは……。

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