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落鳥 (前)

 秋月が息長に身を寄せてから、十年が過ぎていた。


 結婚した菜香とのあいだには、二人の子どもを授かった。長女に奈方(なかた)、長男に安濃(あのう)と名付けたのは、義父の茅渟だった。茅渟にとっては初孫だったが、秋月の存在をおおっぴらにできない事情もあって、正式な披露目などは行われなかった。

 秋月は名を隠し、茅渟の縁者として、息長の領地経営を手伝いながら、穏やかな暮らしをしていた。

 表向きには……。


 中秋の満月が空を渡る夜、茅渟は「月見をしましょう」と秋月に声をかけて、釣殿に誘った。人払いがしてあり、酒肴が整えられていた。

 秋月の杯を酒で満たした茅渟は、世間話でもするかのように軽い口調で切り出した。


「あれとは、うまくやっておられるようですな」

「あれ、とおっしゃると?」

「撫子のことです」


 やはりその話か、と秋月は肩をすくめた。

 撫子は茅渟に紹介された後宮女官だが、秋月は定期的に彼女を都から呼び寄せて、一夜を共にしていた。十年近くもそんなことを続けていたから、知られていてもしかたがなかった。

 言い訳を探す秋月に、茅渟は「いやいや」と首を振った。その顔に非難するような色はなかった。


「責めているのではありません。……都や御所の様子を探るのに、あれほど役に立つ者はおりませんからな」


 見抜かれていたのかと、秋月は舌を巻いた。いかにも凡庸な風体の男だが、義父はときおり驚くほど鋭い一面を見せる。もしかしたら、ここまで見越して、撫子をあてがっていた可能性すらある。

 秋月は素直に心情を明かすことにした。


「恐れ入りました。息長での暮らしや菜香に不満があるわけではありませんし、都に未練があるというわけでもないのですが……」


 心の奥底に、どうしても消すことのできない熾火のような感情があった。父を殺し、八花を奪い、芽鳥を不幸にし、いるべきではない地位にいるあの男――大鷦の存在が、抜けない棘のように心を刺し、痛みを生み続けているのだった。


「……私には、なさねばならないことがあるような気がするのです」


 茅渟は視線を秋月からはずし、遠く西の空を見た。


「そうでしょうな。貴方は本来なら、このようなところで埋もれるべき人ではないのですからな。もしお父上の宇治雪東宮の暗殺事件がなければ、いや、お父上がすんなりと帝位に就いていらっしゃれば、今ごろ貴方が帝だったはずだ」

「ですが、そうはならなかった。そして、それがすべての発端でした。あの事件は、父に殺されることを恐れた帝――大鷦が先に仕掛けたのだと、大館が言い残しました。本当なのでしょうか」


 うむ、と茅渟はうなずいた。


「帝位に就けない愚痴を言い募っていただけの山杜殿を、宇治雪東宮は謀反の罪ありとして討伐した。奸計とまでは言えないが、言いがかりにも等しいものだった。その内幕を知った大鷦殿が、次は自分の番だと恐れて先に手を打ったのです」


 山杜親王謀反事件の真相は、秋月にとって衝撃的ではあった。だが、納得できないものでもなかった。


「それにしても、なぜそうまでして、父は二人の兄を排除したかったのでしょう。帝位に就いてから穏便に遠ざけることもできたはずなのに。なにか怨恨でもあったのでしょうか」


 秋月は思いつきを口にしただけだったが、茅渟は「その通りです」とうなずいた。


「これは、二つの血統の争いなのですよ。宇治雪東宮は、遡れば小碓(おうす)命を通じて初代神護(じんご)命に繋がる、白鳥王家の血統です。対して、山杜親王や大鷦親王は、嫡流王家を名乗ってはいるものの、父親の誉田帝は小碓命を死地に追いやった者の子孫であり、その血統は神護命に繋がっていない。宇治雪東宮も、そして大鷦殿も、それをご存知でしたからな」


 初めて聞く話だった。

 だが、妙にすんなりと腑に落ちた。父の言動や大鷦の暗躍、残された自分や八花や芽鳥の扱いなど、いろいろなことに合点がいった。

 白鳥の王家の最後の男子である自分は、良くて飼い殺し、なにか失点があればそれを理由に処分してしまうつもりだったのだ。

 それは権力闘争そのものだった。勝てば生き残り、負ければ消えるのだ。

 自身の置かれた境遇の意味を理解したとき、秋月のなかで、やるべきことがおぼろげながら輪郭を持ちはじめた。

 そして、それをはっきりとした形にする決定的な事件が、翌年の初夏に起きた。


 *


 その年の夏の暑さは、老いた大鷦の身体には酷く堪えた。

 褥に臥せって、起き上がれない日が何日も続いた。

 幾人もの薬師が呼ばれ、陰陽師やら僧侶やらの加持祈祷も行われたが、日に日に容態は悪化し、意識が朦朧とすることが多くなった。


 病床にあって、大鷦は自身の人生を振り返っていた。


 大鷦の人生を一変させたのは、言うまでもなく山杜の謀反事件だった。あれで宇治雪東宮の心底を知るまでは、上手く立ち回っていれば安楽な皇族の暮らしを続けられると高を括っていられた。そう、あの言葉を聞くまでは……。


『やはり義兄には、死んでもらいましょう』


 確かに、誰がなんと言おうと、正義は宇治雪東宮の方にあった。反意をちらつかせる山杜を宇治雪が誅することは、誰にも咎められないのだ。であるのならば……。

 大鷦は一計を案じて、宇治雪に提案した。


「この俺に、討伐を任せてくれないか」


 そうすれば、うまく誤魔化して山杜を逃すことができる。風流人の宇治雪は、自ら手を汚すようなことは嫌うだろう。そう見込んだ。

 だが、宇治雪はそんな次兄の心底を見透かしたように、それには及びません、と切り捨てた。


「すでに討伐の者を向かわせましたので、今ごろは決着しているでしょう」


 末弟の言葉に、大鷦は驚いた。


「兵部省にも近衛府にも動きはないのに、いったいどこからそんな手勢を?」


 なぁに、とうそぶいて、宇治雪は東の方を見やった。


「私が頼めば動いてくれる者がいるのですよ、都の近くにね」

「……息長か」


 近江を支配下に置く息長氏は、宇治雪東宮の生母である矢河枝(やかわえ)姫の実家だ。その血筋を遡れば、初代神護帝に至る。その権威もさることながら、都の周辺では軍事力と政治力で葛城氏に比肩しうる数少ない氏族だった。

 正統な王家の血筋という権威を持ち、自由に動かせる軍事力も持っているとなれば、誰も宇治雪に逆らうことなどできない。生殺与奪の権を握っていることを、誇示されたようなものだ。

 大鷦は拳を握り、手の震えを抑え込んだ。喉がからからに乾き、ごくりと唾を飲み込んだ。

 宇治雪は、笑顔をうかべたままで「時に」と切り出した。


「私は義兄を討っても、帝位に就くつもりはありませんから」


 それはまさに不意打ちであった。

 山杜の戯言にも等しい言葉を謀反の証と決めつけたくせに、自らは帝位には就かないという。宇治雪の本意を、大鷦は図りかねた。

 困惑して答えに窮する大鷦を嘲笑いながら、宇治雪は問いを重ねた。


「大鷦殿は、政の根幹はなんだと思っておられますか?」

「徳をもって治める、だな」


 そうです、と宇治雪は相槌をうっておいて、ですがと続けた。


「私はね、そういうことに興味はないんですよ」


 そう言うと、宇治雪はまなざしを遠くに投げた。そして、いかにも無念そうに、そして無邪気に、宇治雪は言葉を続けた。


「帝位も政も、どうでもいいんです。私には、妹――宇治咲(うじさき)さえいれば、それでよかったのですよ。そんな私が帝になっても、臣下や民が困るだけでしょう。なのに、どうして即位しなければならないのでしょうね」


 愚痴のようなつぶやきを漏らした宇治雪の目に、黒く冷たい底意が揺らめいていることを、大鷦は見逃さなかった。わざと困ったような顔を作り、頭を掻いた。


「俺もそんな面倒な役目は御免だな。今のままの気楽な身分がいい。父帝が決めたことでもあるし、やはり帝には貴方がなるべきだ」

「そうですか。それは……」


 宇治雪東宮は、心底からそう思ったというふうに、言葉を吐き出した。


「残念ですね」


 大鷦には、弟の心の声が聞こえたような気がした。


『貴方を殺す口実ができなくて、残念ですよ』


 花の香りを運ぶ暖かい風が、大鷦の頬を撫でていった。

 大鷦は、かろうじて頬を緩めた。

 その背中を、冷たい汗が流れ落ちた。

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