雌伏 (後)
咲き初めの八重桜に手を伸ばす。
精一杯に背伸びをして、ようやくその花に触れることができた。
指先にやわらかな感触があって、甘酸っぱい芳香が鼻孔をくすぐる。
けれど、不意に起こった冷たい風が、八重の桜花を枝から奪い取った。
狩衣の袖が、花びらを失った枝の先を虚しく彷徨う。
花びらは風にすくいあげられ、はるかかなたの西の空に昇って消えた。
大人になっても、届かぬのか。
あなたには……。
「……八花」
そう呼ぼうとして、秋月は目を覚ました。
几帳で仕切られ、きちんと整えられた褥に寝かされていた。
屋根裏は高く、それなりの屋敷の一角だった。
大舘に斬られ、瀬田川に転落して、それから……。
よくも命が助かったものだ。
身体のどこもかしこもが痛むが、背中の傷は手当てがされているようだ。
「お目覚めになりましたか」
不意に、涼やかな女の声がした。
上等な五衣を着た女が、心配そうな眼差しを向けていた。歳の頃は、秋月と大きく違わないようだ。いささか野暮ったい顔つきだったが、気の強そうな大きな目が異彩を放っていた。
秋月は身を起こそうとしたが、激痛に襲われ再び仰向けに倒れて呻いた。
女はくすっと素朴に笑い、水をひとくち含ませてくれた。
「まる三日、昏睡なさっていました……ご安心ください、ここは息長宗家の屋敷です」
「助けていただいて感謝する。あなたは?」
かすれた声で問いかけると、女は居住まいを正した。
「当家の娘で、菜香と申します」
「私は……」
「存じておりますわ、秋月皇子さま。お話ができるようですので、父を呼んでまいりますね。それとお食事を」
菜香はそう言うと、部屋を出て行った。
一人になって、秋月はあらためて安堵のため息をついた。
息長宗家の娘が「父」と呼ぶのは、吉野で知己を得た茅渟皇子だろう。話のわかる人物だし、息長は父と母の生家でもある。彼らに救われたのは、運が良かったと言うべきだろう。
食事には、茅渟皇子だけでなく菜香も同席した。
不調法な田舎料理ですが、と菜香は謙遜したが、並んでいるのは手の込んだ料理ばかりで、菓子の皿には蘇が添えられていた。蘇は牛乳を煮詰めて作る滋養のある食品で、皇族の秋月ですら滅多に口に入らない貴重品だった。
息長氏の勢力は侮りがたいものがあると、秋月は思った。
「吉野での約束が、こういう形で実現するとは。これも縁というものでしょうな。しかし、貴方がなにゆえ怪我をなさって瀬田川を流されていたのですかな」
食事を勧めながら、茅渟は事情を尋ねた。
秋月は、芽鳥と早房の出奔から、瀬田の唐橋で大舘に斬られたところまでの経緯を語った。
話を聞き終えた茅渟は、さして驚きもせず、なるほどと頷いた。
「言いにくいことではありますが、大舘は最初から、貴方を亡きものにするつもりだったのでしょう。誰の命令かは、容易に想像がつきますな」
茅渟の見立ては衝撃的だったが、大舘の言葉を思えば、秋月もそれを認めるしかなかった。専行して芽鳥らを追えという密命からして、罠にはめるのが狙いだったのだろう。そうまでしてでも八花との仲を裂きたいというのであれば、帝が生きているうちは安心していられる場所などどこにもない、ということになる。
秋月の心中を察したかのように、茅渟がやわらかな声で続けた。
「まずは、命があったことを喜び、ここでゆっくりと養生なされませ。お望みとあれば、いつまででも構いませぬぞ」
茅渟の言葉は、にわかには信じがたいものだった。帝に知られれば、もろともに討伐されかねないというのに、あえて厄介者を抱え込むだけの理由があるのだろうか。
「それはありがたいが、私はどうやら帝に命を狙われているようだ。そんな私を匿ってくださるのか?」
問いには答えず、茅渟は菜香を見やった。
「貴方をお助けしたのは、この菜香でしてな。先ごろ夫に先立たれ、喪が明けたばかりでしてな。偶然と言えばそれまででしょうが、娘には思うところがあるようです」
茅渟の言葉に、菜香は姿勢を正した。秋月に向けたその眼差しには、色艶だけではなく、隠しきれない野心の光があった。
息長氏の本拠地である近江は、都と東国を結ぶ街道が走る交通の要衝だった。
往来する貴族や商人のなかには、息長の屋敷に逗留する者も少なくなかった。そんな者たちに紛れて、秋月はひとりの女性の訪問を受けた。
撫子と名乗った若い女性は茅渟皇子の遠縁の娘で、内侍司命婦という後宮に仕える上級女官だった。
「茅渟皇子さまから、貴方さまに都の様子をお伝えせよ、と仰せつかりました。朝廷では、すでに早房様と芽鳥様の出奔事件は沈静化しています。帝が緘口令を敷いていますので」
頷きで応じ、秋月は芽鳥の消息を尋ねた。
「芽鳥様は亡くなられたとのことです。そして、その責任を負わされて、大舘が処刑されました」
徒労感が秋月を襲う。
近江国まで出征してきて、芽鳥を守れず、父の仇も討てず、自身はこの有様だ。いまさら都に戻ることもできない。八花を取り戻すことなど、夢のまた夢になってしまった。
「ときに、八花殿の様子は? そろそろ産み月のはず。お元気なのだろうか」
秋月の問いに、撫子は一瞬だけ表情を曇らせたが、はっきりとした声で告げた。
「お亡くなりになられました」
秋月は、耳を疑った。撫子の言った言葉が、その意味の通りに受け取れなかった。
「いま、なんと?」
「亡くなられました。産後の肥立ちが悪く、そのまま。生まれたお子も、助からなかったそうです」
秋月はしばし言葉を失った。
死んだ、だと。八花が?
出産で命を落とす女性は少なくない。そして赤子もまた同じだ。それは知識として聞き知っていた。だが、まさか八花が……。
嘘だ、と思った。帝が、八花を私から遠ざけるために、そんな嘘を言いふらしているのだ、と。
しかし、心のどこかで気づいていた。調べればすぐにわかるような嘘をつく理由は、すくなくとも今の帝にはない……。
撫子が帰ると、菜香が夕食の膳を据えに来た。
食欲などなかった。
思い出すのは、ありし日の八花のことばかりだった。初めて会った日のこと、そして花の褥で結ばれた日のこと。言葉を交わしたことも、ふれあったことも、わずかだった。だが、たしかに彼女は、運命の人だった。
まんじりともせずに夜を明かし、日が暮れた。
どれくらいの時が過ぎたか、いつしか夢現で、八花の後ろ姿を追っていた。
力の限り走っても、彼女に追いつけない。声を限りにその名を呼んでも、彼女は振り返らない。
そして、果てのない暗闇の彼方に消えていった。
深い絶望に、心も身体も冷え切った。
そのとき、不意に、やわらかなぬくもりに包まれた。
秋月は、すがるようにそのぬくもりを求めた。




