表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/23

雌伏 (後)

 咲き初めの八重桜に手を伸ばす。

 精一杯に背伸びをして、ようやくその花に触れることができた。


 指先にやわらかな感触があって、甘酸っぱい芳香が鼻孔をくすぐる。


 けれど、不意に起こった冷たい風が、八重の桜花を枝から奪い取った。

 狩衣の袖が、花びらを失った枝の先を虚しく彷徨う。

 花びらは風にすくいあげられ、はるかかなたの西の空に昇って消えた。


 大人になっても、届かぬのか。

 あなたには……。



「……八花」


 そう呼ぼうとして、秋月は目を覚ました。


 几帳で仕切られ、きちんと整えられた褥に寝かされていた。

 屋根裏は高く、それなりの屋敷の一角だった。


 大舘に斬られ、瀬田川に転落して、それから……。


 よくも命が助かったものだ。

 身体のどこもかしこもが痛むが、背中の傷は手当てがされているようだ。


「お目覚めになりましたか」


 不意に、涼やかな女の声がした。

 上等な五衣を着た女が、心配そうな眼差しを向けていた。歳の頃は、秋月と大きく違わないようだ。いささか野暮ったい顔つきだったが、気の強そうな大きな目が異彩を放っていた。

 秋月は身を起こそうとしたが、激痛に襲われ再び仰向けに倒れて呻いた。

 女はくすっと素朴に笑い、水をひとくち含ませてくれた。


「まる三日、昏睡なさっていました……ご安心ください、ここは息長宗家の屋敷です」

「助けていただいて感謝する。あなたは?」


 かすれた声で問いかけると、女は居住まいを正した。


「当家の娘で、菜香(なか)と申します」

「私は……」

「存じておりますわ、秋月皇子さま。お話ができるようですので、父を呼んでまいりますね。それとお食事を」


 菜香はそう言うと、部屋を出て行った。

 一人になって、秋月はあらためて安堵のため息をついた。

 息長宗家の娘が「父」と呼ぶのは、吉野で知己を得た茅渟皇子だろう。話のわかる人物だし、息長は父と母の生家でもある。彼らに救われたのは、運が良かったと言うべきだろう。


 食事には、茅渟皇子だけでなく菜香も同席した。

 不調法な田舎料理ですが、と菜香は謙遜したが、並んでいるのは手の込んだ料理ばかりで、菓子の皿には蘇が添えられていた。蘇は牛乳を煮詰めて作る滋養のある食品で、皇族の秋月ですら滅多に口に入らない貴重品だった。

 息長氏の勢力は侮りがたいものがあると、秋月は思った。


「吉野での約束が、こういう形で実現するとは。これも縁というものでしょうな。しかし、貴方がなにゆえ怪我をなさって瀬田川を流されていたのですかな」


 食事を勧めながら、茅渟は事情を尋ねた。

 秋月は、芽鳥と早房の出奔から、瀬田の唐橋で大舘に斬られたところまでの経緯を語った。

 話を聞き終えた茅渟は、さして驚きもせず、なるほどと頷いた。


「言いにくいことではありますが、大舘は最初から、貴方を亡きものにするつもりだったのでしょう。誰の命令かは、容易に想像がつきますな」


 茅渟の見立ては衝撃的だったが、大舘の言葉を思えば、秋月もそれを認めるしかなかった。専行して芽鳥らを追えという密命からして、罠にはめるのが狙いだったのだろう。そうまでしてでも八花との仲を裂きたいというのであれば、帝が生きているうちは安心していられる場所などどこにもない、ということになる。

 秋月の心中を察したかのように、茅渟がやわらかな声で続けた。


「まずは、命があったことを喜び、ここでゆっくりと養生なされませ。お望みとあれば、いつまででも構いませぬぞ」


 茅渟の言葉は、にわかには信じがたいものだった。帝に知られれば、もろともに討伐されかねないというのに、あえて厄介者を抱え込むだけの理由があるのだろうか。


「それはありがたいが、私はどうやら帝に命を狙われているようだ。そんな私を匿ってくださるのか?」


 問いには答えず、茅渟は菜香を見やった。


「貴方をお助けしたのは、この菜香でしてな。先ごろ夫に先立たれ、喪が明けたばかりでしてな。偶然と言えばそれまででしょうが、娘には思うところがあるようです」


 茅渟の言葉に、菜香は姿勢を正した。秋月に向けたその眼差しには、色艶だけではなく、隠しきれない野心の光があった。



 息長氏の本拠地である近江は、都と東国を結ぶ街道が走る交通の要衝だった。

 往来する貴族や商人のなかには、息長の屋敷に逗留する者も少なくなかった。そんな者たちに紛れて、秋月はひとりの女性の訪問を受けた。

撫子(なでしこ)と名乗った若い女性は茅渟皇子の遠縁の娘で、内侍司命婦という後宮に仕える上級女官だった。


「茅渟皇子さまから、貴方さまに都の様子をお伝えせよ、と仰せつかりました。朝廷では、すでに早房様と芽鳥様の出奔事件は沈静化しています。帝が緘口令を敷いていますので」


 頷きで応じ、秋月は芽鳥の消息を尋ねた。


「芽鳥様は亡くなられたとのことです。そして、その責任を負わされて、大舘が処刑されました」


 徒労感が秋月を襲う。

 近江国まで出征してきて、芽鳥を守れず、父の仇も討てず、自身はこの有様だ。いまさら都に戻ることもできない。八花を取り戻すことなど、夢のまた夢になってしまった。


「ときに、八花殿の様子は? そろそろ産み月のはず。お元気なのだろうか」


 秋月の問いに、撫子は一瞬だけ表情を曇らせたが、はっきりとした声で告げた。


「お亡くなりになられました」


 秋月は、耳を疑った。撫子の言った言葉が、その意味の通りに受け取れなかった。


「いま、なんと?」

「亡くなられました。産後の肥立ちが悪く、そのまま。生まれたお子も、助からなかったそうです」


 秋月はしばし言葉を失った。

 死んだ、だと。八花が?


 出産で命を落とす女性は少なくない。そして赤子もまた同じだ。それは知識として聞き知っていた。だが、まさか八花が……。


 嘘だ、と思った。帝が、八花を私から遠ざけるために、そんな嘘を言いふらしているのだ、と。

 しかし、心のどこかで気づいていた。調べればすぐにわかるような嘘をつく理由は、すくなくとも今の帝にはない……。


 撫子が帰ると、菜香が夕食の膳を据えに来た。

 食欲などなかった。

 思い出すのは、ありし日の八花のことばかりだった。初めて会った日のこと、そして花の褥で結ばれた日のこと。言葉を交わしたことも、ふれあったことも、わずかだった。だが、たしかに彼女は、運命の人だった。


 まんじりともせずに夜を明かし、日が暮れた。

 どれくらいの時が過ぎたか、いつしか夢現で、八花の後ろ姿を追っていた。

 力の限り走っても、彼女に追いつけない。声を限りにその名を呼んでも、彼女は振り返らない。

 そして、果てのない暗闇の彼方に消えていった。


 深い絶望に、心も身体も冷え切った。

 そのとき、不意に、やわらかなぬくもりに包まれた。

 秋月は、すがるようにそのぬくもりを求めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ