雌伏 (前)
御産所には陰陽師の加持祈祷の声や、僧侶による読経の声が満ちていた。
嵯峨御所の片隅に設けられた簡素な小屋で、いままさに出産がはじまろうとしていた。
動員された者たちはだれひとり、母親の素性を知らされていなかった。
とはいえ、貴族の女性ですら野外での出産があたりまえなのに、離宮に産所が設けられたということから、相当に身分が高い――おそらくは皇族の女性であろうことは、皆が暗黙のうちに察していた。
難産だった。
陣痛は深夜から始まったが朝になっても子は出てこず、一昼夜がすぎてようやく現れたのは赤子の尻だった。
立ち会った僧正は、母子に物の怪が取りついたからだと断じて、陰陽師や修験者たちに調伏を命じた。
やがて母親の絶叫があって、僧正がとりあげたのは、小ぶりな女児だった。
だが、それを最後に、沈黙が産所に訪れた。
母親は昏倒し、子も産声を上げなかった。
「八花殿のお子は、女子でした」
出産から数刻がすぎた宵の口になって、大鷦のもとに中務卿の住江親王が報告に訪れた。
逆子による難産の末に、赤子は僧正たちの処置で息を吹き返したが、母親はそのまま昏睡しているとのことだった。
大鷦は、頭を抱えた。
男子であれば、即座に出家させるつもりだった。女子となれば、いずれ白鳥王家の血を残すために必要となるかもしれない。だが、父親はまずまちがいなく、かの秋月皇子だ。緘口令は敷いているが、吉野の事件とその顛末は多くの臣下に知れ渡っているだろう。そんないわくつきの女子を、内親王の列に加えるのか……。
だめだ、と直感が否定した。八花はすでに適齢を過ぎているが、まだ芽鳥もいる。いずれ、どちらかが俺の子を、次の帝になる男子を懐妊する可能性もあるではないか。
大鷦は、住江に耳打ちをした。
「子は死産だったことにして、素性を隠して里子に出せ。養親には扶持をたっぷり与えて、誰の許にも嫁がせぬように厳命せよ」
瀬田川に転落した秋月皇子の探索を雑兵たちに命じた大舘は、目前の小屋の筵の戸を引き上げた。ここから秋月も早房も出てきた。ならば、芽鳥内親王が匿われていることは、ほぼ確実だ。
見込みどおり、うす暗い小屋の片隅にはひとりの女がうずくまっていた。庶民の女のような粗末な衣装だったが、その美しさと艶やかさは大舘の目と心を奪った。
この女であれば、帝が執着なさるのも納得できる。
「早房様も秋月様も、反抗したゆえ謀反の罪で討ち取りました。……芽鳥内親王殿下でいらっしゃいますな?」
女は頭を振って、答えなかった。
大舘は、女の袖口から玉の腕輪が覗いているのを見逃さなかった。言うまでもなく、庶民が持てるような代物ではない。
女は、大舘の視線が腕輪に向いたことで、それを欲しがっていると誤解したのか、腕輪を外して差し出した。
「これを持って去りなさい。ならばこの無礼、不問にしましょう」
自分の立場がわかっていないのか、女の言葉はあまりにも場違いなものだった。
大舘の頭に血が上り、その激情は瞬時に欲情に変わった。
配下の兵たちは、秋月の探索に散っている。ここにいるのは、この女と自分だけだ。ここでなにをしようと、誰も気づくまい……。
大舘は、ごくりと生唾を飲みこんだ。
女が恐れたように、後ずさる。その動きに合わせて、えもいわれぬ芳香が鼻をくすぐった。それで大舘の理性は消滅した。
女の衣装をはぎとり、板間に押し倒す。
歴戦の武人を相手に、かよわい内親王の抵抗など、なんの効果もなかった。
大舘は、こみ上げる欲情のままに女を犯した。いままでに味わったことのない、極上の抱きごこちだった。
事が終わって欲情が醒めた大舘は、しでかしたことの重大さをようやく理解した。
もし女が帝にこのことを話せば、俺の命など即座になくなる。どうする、どうすればいいのだ……。
回らない頭で打開策を考える。堂々巡りの結果、それしかない策を思いついた。
大舘は、ぐったりと横たわる女の胸に、剣を突き立てた。うめき声がしただけで、女はあっけなく絶命した。
大舘は顔をゆがめて嗤い、女の腕輪を抜き取って懐に入れた。
小屋を出ると、外では秋月皇子の捜索が続いていた。
瀬田川は広くて深いうえに流れも早く、遺体はようとして見つからなかった。
それからまる二日をかけた捜索も実らず、結局、秋月皇子は行方不明のままだった。
都に帰還した大舘は、早房の首と芽鳥の腕輪を帝に差し出し、謁見を願い出た。
帝の呼び出しに応じて内裏に赴くと、待っていた舎人によって庭に座らされた。違和感を覚えつつ、御簾の向こうから首尾を問う帝に平伏して答えた。
「早房様は抵抗なされたので、やむをえず弑し奉りました。秋月様は行方不明ですが、致命傷を受けて瀬田川に落ちましたので、助かってはいないと存じます。芽鳥内親王様は……」
どうしたのだ、という苛立った帝の問いに、大舘は、ははっと畏まった。
「誠に畏れ多くも、私がお救いに参上する前に、亡くなられておりました。おそらく、早房様の死を知って後を追われたのか、あるいは早房様が思い余ってお手にかけられたのではないか、と」
帝が立ち上がる気配があった。
御簾の下から、芽鳥の腕輪が転がり出た。
「これは、俺が芽鳥に贈った腕輪だ。そうか、死んだか。無残なことよ……」
落胆したような帝の声は、すぐに苛立ちを含んだものに変わった。
「ときにそなた、なぜこの腕輪を持ち帰った?」
帝の問いかけの意味がわからず、大舘は、はあ、と間の抜けた答えを返した。
「芽鳥の遺体から、なぜこれを取ったのかと聞いておる。下賤の者の分際で、遺体とはいえ我が姪の身体に触れ、穢したのだな?」
申し開きのできようもないことだった。策を弄したつもりが、完全に仇となった。帝の追求は続く。
「遺体ならばまだしも、そなたまさか、生きている芽鳥に乱暴を働いたのではあるまいな?」
大舘の背中を、冷たい汗が流れた。
帝の声が、はっきりと殺意を帯びた。
「そのような虚言で、欺けるとでも思うたか。この俺を甘く見たものだな。そなたのやったことなど、すべて筒抜けであるわ。……殺せ」
主君の言葉の意図を大舘は悟った。
悪事の生き証人の口を封じるために、最初から陥れるつもりだったのだ。任務に失敗して早房や秋月に討たれても良し、任務を全うしてもなんらかの言いがかりをつけて殺すつもりだったのだろう。
「お、お待ちを……」
大舘は助命を口にする間もなく引き立てられ、首を刎ねられた。
処刑された理由は、芽鳥内親王の腕輪を盗んだ罪による、と告知された。
「早房と芽鳥の件、じつに残念な仕儀であった」
八花は、床に伏せったままで、帝の言葉を聞いていた。
難産の末に昏倒し、なんとか一命はとりとめたものの、起き上がることもできなくなっていた。
その間に決着した事件の話に、八花は耳を塞ぎたくなった。
秋月は早房と芽鳥の逃亡を幇助した咎で討たれ、早房は芽鳥を殺害したあと追討軍に討たれた。そして追討軍を率いた者も、芽鳥の遺体から腕輪を盗んだ罪で処刑されたという。
出奔した者も、追跡した者も、誰も戻らなかった。
妹も、そして、あの人も……。
秋月が帝位につく未来は消えた。
今となってはもう、生まれた娘だけが希望だった。白鳥王家の血を引く、唯一の存在。娘だけは、なんとしても……。
しかし、八花の希望を打ち砕くように帝の声がした。
「そなたの子は、もうこの世にはおらぬ」
「いま、なんと?」
問いかけに、帝は瞼を伏せた。そしていかにも苦々しげに、言葉を吐き出した。
「言葉通りの意味だ。すんだことは忘れて、そなたは早く身体を治せ。もう子がなせぬというわけでもあるまい。白鳥の王家の血を残すには、ことここに至っては、もはやそれしか手はあるまい。俺にも、そしてそなたにもな。……違うか?」
その言葉を聞きながら、八花の意識は遠のいていった。




