天泣 (前)
※『衣通姫伝説シリーズ』の第三作です。前二作の続編となり、ネタバレ要素を含みます。
※この作品は、近親相姦をテーマとして取り扱っています。閲覧にはご注意ください。
※この作品は、古事記と日本書紀の記述をベースとした作品です。
その桜は、まだ咲き初めだった。
薄桃色の八重の花に、秋月皇子は手を伸ばす。
童狩衣が着崩れるのも構わずに、精一杯の背伸びをした。けれど、どうやってもあとすこしのところで、花に触れることはできなかった。
私が大人であれば、容易くこの手が届くのに……。
悔しさに唇を噛んだ、そのとき。
ささくれた秋月の心を慰めるかのように、背後から箏楽の音が聞こえてきた。
初めて耳にする調べだった。宴会や儀式で楽人が演じる退屈な曲ではなかった。奏でる者の心象がそのまま音になったかのように、耳を通して秋月の心にしみ込んできた。
振り向くと、宸殿の板張りの間で、春霞にけぶる桜花のような五衣をまとった若い女性が、一心に箏を奏でていた。
つま弾かれる絃が、静かな嘆きと激しい叫びを繰り返す。
その楽の音は、晴れた空に悲しみを広げるように響き渡り、やがて浄化され、穏やかな慰めとなって降りそそいでいるのだった。
まるで、天が……。
秋月の思いを汲み取ったかのように、小さな雨粒がぽつりと頬を濡らした。
箏の楽が激しさを帯びると、呼応するかのように一陣の風が吹いた。
嵯峨御所の褐色の庭池を波立たせた風は、萌黄地に若松唐草文様の童狩衣の袖をはためかせ、そして八重の桜花を枝から奪い取った。袖括りの五色の緒が、花びらを失った枝の先を虚しく彷徨う。
花びらと雨粒は風にすくいあげられ、筝の音とともに天に昇って消えた。
「あっ……」
思わず漏らした声がそうさせたように、箏の演奏がふっと止まった。
絃から上げられたその人の瞳が、わずかに彷徨ったあとでこちらを向く。交わったまなざしが、お互いの心を縫い留めたようだった。
わずかな沈黙ののち、その人の薄い唇が動き、箏の音にも勝る心地のよい声が秋月の耳元をくすぐった。
「あなたは?」
甘やかな声の問いは、しかし、心を覗かれるような鋭さを含んでいた。
「秋月です」
答える声が、心なしか震えた。
その人は、そう、と応じた。
「あなたも、白鳥の王の子なのね……」
言葉の意味はわからなかった。けれど秋月は、その人と自分が同じところにいるのだ、と告げられたような気がした。
そして、これからもそうありたいという願いが、口をついて出た。
「続きを」
その人が首を傾げる。ほのかに甘い香りがした。
「続き?」
「はい。曲の続きを奏でてください」
「聞きたいの?」
再びの問いに、秋月はうなずいて応えた。
そして、桜の花びらを見送ったときに心に浮かんだことを、言葉に乗せた。
「まるで、天が泣いているようでした」
その人は驚いたように目を見開いた。
「どうして、それを知っているの?」
問われて、秋月は戸惑う。知っていたわけではない。だから問われても、返せる答えなどなかった。
それを見透かしたのか、その人は問いを重ねた。
「お兄さまから聞いたの?」
「兄さま?」
「あなたにとっては、お父様よ」
秋月は、きっぱりと首を振る。
「ちがうの?」
「ちがいます。ただ、そう思えたのです」
その人の顔に、ようやく穏やかな笑みが浮かんだ。
美しかった。
そしてその笑顔は、秋月の心を一瞬で奪った。
「驚いたわ。もしかしたら、あなたはわたしの……」
なにかを告げようとしたその人の言葉をさえぎって、秋月の背後からまろやかな男の声がした。
「ここにおったのか」
振り返ると、声の主が立っていた。
帝かそれに準じる者だけに許された黄丹色の直衣に身を包み、ゆったりとしたすり足で歩いてきたのは、当代の皇太子、宇治雪東宮だ。齢四十に届くはずだが、その顔には老いはみじんもなく、十代にすら見えるほど肌の色艶は良かった。
「父上……お話はもう、終わられましたか」
すまなかったな、と詫びながら、宇治雪東宮は秋月の頭を撫で、かの人を見やってふわりと笑みを浮かべた。
「睦まじく話をしておったが、さてはそなた八花に惚れたな」
父の言葉の意味はわかったが、秋月は自分の気持ちをその言葉で表していいのか判然としなかった。
秋月の戸惑いをはにかみとでも思ったのか、宇治雪は顔を寄せると耳元でささやいた。
「美しいだろう、八花は。引く手あまたなのだが、そなたが望むのなら、なんとかしてやろう。どうだ、八花が好きか?」
あまりに直截な父の言葉にいささかの反感はあったが、彼女が好きか、と問われれば答えは決まっていた。
「はい」
うなずいた秋月の真剣な顔を見て、宇治雪は声をたてて笑った。
「よかろう。ならば、元服したらそなたの妻にするがいい」
父子のやりとりを微笑ましげに見ていた八花内親王が、拗ねたように頬を膨らませた。
「そんな決め方ってないわ、お兄さま」
「秋月は私のひとり息子だぞ、不満はあるまい。それに、歳もおまえと五つも違わないのだから、お似合いではないか」
べつに、と八花はそっぽを向いてつぶやいた。
「お断りしたわけではないわ」
「そなたたち二人が、初対面でお互いを見初めるとはな」
だって、と八花は頬を染めた。
「私があの曲に込めたものを、言い当てたのよ。お兄さまと二人だけの秘密だったのに」
ほう、と宇治雪は感心したように秋月と八花を見やった。
「ならば決まりだな」
宇治雪と八花が、顔を見合わせて笑う。
なごやかでおだやかな、春の祝いの花宴だった。
なのに……。
つい先刻のことを――父と伯父の間で交わされたおそろしい会話のことを、秋月は思い出した。
父は伯父に向けて、この笑顔と同じ顔でさらりと告げたのだった。
「やはり義兄には、死んでもらいましょう」