日々の罪と、絵空の法廷(仮題)
(裁判の事は詳しくないので大目に見て下さい)
自分が何を間違ったのか分からない。
だが罪は厳然として存在し、俺の行先を遮っていた。
「あなたは、思い違いをしていたのです」
上段から曇りのない声が降ってきた。
自分は思い違いをしていたのか。
いつ、どこで、何を。
西日が差し込み、セピア色に褪せた法廷には三人の人間がいた。俺と、裁判長と、Aだった。
俺が被告側で、Aが原告側に座っている。Aの表情からは何も読み取れない。まるで、俺の知らない他人になってしまったかの様に感じた。
普通はこの厳粛な場に立った時に、過去の愚かな自分に対して悔いるべきなのだろう。
だが俺には悔いるべき過去などは無く、年のせいで錆びつき始めた頭をいくら捻ろうが、ただただ日常だった日々が思い返されるだけであった。
※※
俺は定年で会社を退職した後、年上の元上司の薦めでとある事業所に入った。再雇用先は、良く言えば人の為に働く善人の集まり、悪く言えば搾取されるお人好しが集まる様な小さな営業所であった。俺に用意された椅子はそこの部長のもので、事業所の仕事としては施設管理や細々としたガイド業がメインらしい。人手不足の事業所での日々は忙しく、楽隠居を考えていたアテは見事に外れた。
俺は引いた外れ籤を箱に戻したくなったが、元上司の「こいつらを助けてやってくんねぇか」との言葉を聞き、手の中の白い籤を握りしめた。自分の磨いてきた経験を生かして此奴等を職場ごと救う事に決めたのだ。どうせ家に篭って妻の尻に敷かれる日々を過ごすよりも、煩わしくとも他人と関わる方が心地良い。何、定年を過ぎた老人が働いた所で後4,5年が限界だろう。
その想定は簡単に覆された。秘書の一人も付けずに、体系化されていない仕事をするのがいかに煩雑であるか。誰も彼もが仕事下手で見ていられず、自分の事もままならないまま、彼等を守る様に立ち回った。今までのやり方がそのまま通じず、0とは言わずとも積み上げた財産はあまり役には立たなかったが、嘗て育て上げたコネを使える事は幸いであった。
まずは人材育成が必要だ……そう考えて近付いたのが、彼女だった。
※
「只今より、公判を開始します。原告より『部長による立場を利用した嫌がらせがあった』との訴えの提起がありました。原告、訴状を陳述しますね」
※
彼女を仮にAとしよう。出会ったばかりの彼女はまだ未熟であった。Aは都会の大学を卒業してすぐに小さな営業所に就職した。面接の時に着ていた慣れないスーツには折り畳まれていた時のシワが付いていた。きちんと義務教育は受けてきた様だが、碌に社会の事は学べなかったのが一目瞭然であった。ましてや、ちゃらついた都会の大学では言わずもがなである。だが、懸命に学ぼうとする姿には好感を覚えた。
Aは俺の直属の部下ではない。俺は全体を総括する立場だが、彼女は一部署の一従業員でしかない。しかし、俺には手足が必要だった。最初、試しに彼女に仕事を振った時、彼女は唯々諾々とそれに従っていた。面白みが無かったので少し揶揄ってやれば、少しずつ文句を言う様になっていった。
彼女は鐘の様であった。打てば響き、しっかりと腰を入れて一撃を入れれば、良い音を出した。彼女を育てるのはとても楽しく、暇さえあれば話しかけて反応を楽しんだ。
※
「陳述します」
そうして俺に慣れてきたAは、次第に生意気な口を聞く様になってきた。社会のしの字も知らない小娘の分際で、人様に口答えする様になってきたのだ。Aは普段、どれだけ俺に守られているのか、世話になっているのかを知らないのか。彼女には、俺の思いを知らせてやる必要があった。それと同時に、俺は彼女を娘として守ってやる必要があった。
ある五月晴れの日、今の職場に昔の後輩がやってきた。俺は昼休憩を取るAに「茶だ」とだけ告げると、後輩を応接室へと案内した。素直にコーヒーを淹れて応接室に入ってきたAに、俺の後輩が「この人の言ってる事に従ってると大変でしょう」と冗談めかして言った。俺は「こんな奴の言う事なんて真に受けるなよ」と後輩に返してやった。だが、Aは「そうですね……」と、俺と後輩、どちらを信ずるべきか判断しかねている様子だった。
だから、俺は軽く頭を小突いて「俺を立てろよ」と忠告してやった。
※
「一旦ここまでで、原告、被告共に異議はありますか?」
「ありません」
「ありません」
※
俺の仕事はあまりに膨大だったので、Aを鍛えるついでに仕事を手伝ってもらう事にした。梅雨の中でも外仕事に励むA自身にも仕事がある様だったが、俺の仕事も忙しかったので暇そうに見えた時にやらせていた。Aは大変そうではあったが、こうして仕事をこなす事で人は育っていくのだ。寧ろ、そうして仕事をさせてもらえる事に感謝すべきだろう。Aは文句を言いつつも、分からない事は俺に聞き返し、着々と仕事を片付けていった。俺はAに仕事のやり方を聞かれ、一つ一つ丁寧に教えてやった。そうして、長いようで短い夏は一瞬で過ぎ去った。Aは世間知らずのお嬢様であるだけで、やり方さえ覚えれば思ったより仕事が出来るらしい。俺は、彼女の評価を一段階上げた。
10月の末頃に受けた仕事はイベントの企画立案と実施であったのだが、当日はとにかく忙しかった。あれもこれもと、誰もが俺に物を聞く。少しは自分の頭で考えて欲しかった。
Aも、その一人だった。俺はAに同時にいくつもの仕事を頼んだのだが、Aはそれを言われた順にしか片付けられなかった。物事には順序があると言うのに、Aは何も分かっていない。
俺はちんたら手を動かすAに向かって
「お前何やってんだ! こっちの仕事が先に決まってんだろ!」と怒鳴り付けた。
Aはそれに「言われた順番で仕事をしています! あなたの頭の中の順序なんて知りません! どれを先にやるのか教えて下さい!」と怒鳴り返してきた。
俺は「うるさい! こっちは忙しいんだ、自分の頭で考えろこのバカタレが!」とだけ言い残し、自分の仕事に戻った。Aは使える様で使えない奴だが、これで少しはスムーズに動けるだろう。
Aはまるで、昔の俺の様だった。何にでも噛みついて、その度に上からボコボコにされて、それで学ぶ犬の様な奴だ。此奴が社会に出ても困らない様俺が直々に、しっかり教育をしてやらねばなるまい。Aはこの程度ならば大丈夫そうだと分かったので、もっとビシバシと育てる事ができそうだった。
※
「これまでの内容で原告、被告共に異議はありますか?」
「ありません」
「ありません」
※
Aは仕事ができる。それはまるで昔の俺の様だった。この小さな営業所にAの才能を埋もれさせておくのは惜しい。此奴は巨きな機械の歯車として、多くを回れるだけの能力がある。こういう奴にはたくさん仕事をさせとかないと勿体ないーーそれは、俺がいつか言われた言葉であった。「仕事が出来る奴が仕事をする。お前はキリキリ働け!」と。そう言われた時、俺は腑に落ちない思いを抱えたものだ。昔言われた言葉をそのまま俺は言い、Aは怪訝な顔をしていた。昔の俺もそうだった。だから、Aにもいつか分かる時が来るのだろう。今の俺の様に。ふと、俺の昔の職場なら、どれだけAを生かせるだろうかと思った。それは非常に魅力的な考えだった。Aには、俺の後を継ぐ資格がある。この俺が認めてやっているのだから、それは光栄に思って然るべしである。
俺はそんな事を考えながら、Aに「ここを出たら、俺の元の職場に来ないか?」と声を掛けてやった。
だがAは「絶対に嫌です」と抜かしやがった。俺がここまで思ってやっているのに、この即答であった。全く躾がなっていない。Aは「私は教員を目指しているので」と続けた。確かにAは以前そんな事を言っていたと聞いた事があった。だが、今それは全く関係無い。Aには、他人と話を合わせる必須技能が欠けていた。
だから、俺はAを叱るために俺はデコピンをしてやった。
Aは基本的に俺を立てるという事をしなかった。部下は、上司を気持ちよくさせてなんぼである。相手を煽て、自分の望む方へと転がしていくのは社会人として必要な技術であるのだ。Aの、他の仕事はよく覚える癖に、そうした人の転がし方がなってない所が目についた。
そして、Aの先輩に「こいつはこうやって人の話をぶった斬るから駄目なんだ。話がそこで終わっちまうだろう?」と教えてやった。Aの先輩は「はぁ」と分かった様な分からない様な返事をし、Aは俯いて何も言わなかった。ようやく俺の言う事が少しは分かったのだろう。
※
「原告、被告共に異議はありますか?」
「あります。以前からそうして何度も誘われていた事を加えて下さい」
確かに俺は何度かAに昔の職場の話をした記憶がある様な気がしたが、その内容はよく覚えていなかった。だから改めて話をしたのだという事が何故分からない。だが、Aが言うのなら事実としては正しいのだろう。Aは年を食った俺よりも記憶力が優れていた。
「ありません」
※
そういえば、Aをガイドに連れて行った事もあった。Aは普段、そうしたガイド業をしない部署であるが、折角ならばと俺が参加させてやった。Aにとって初めてのガイドであるが、基本的にガイドは俺と▼▼とでやる予定であったので、Aの仕事はツアーを楽しみながら、アシスタントとして補助を行う事だった。Aにとって初めて歩く道ではあるが、普段雪の中で仕事をしているAならば、雪の中の散歩位は軽くこなすだろう。俺はAの緊張を解す為に「今日はお客さんとして着いてくれば良い」と声を掛けて出発した。
しばらく歩いたその先で、俺はツアーを盛り上げる為に客の前でAに話を振ってみた。Aはわずかに戸惑ったものの、すらすらと答えていた。それではツアーとしては面白くなかったので、俺はAにもっと突っ込んだ説明を求めると、Aは口籠った後に「分かりません」と答えた。俺はそんなAの様子に満足し、「ちょっといじめ過ぎたかな?」と言いながらAの説明では足りなかった部分を補足した。マスクで分からないが、客達も満足している様に見えた。
その次に止まった時、▼▼はAに上を見上げる様に促した。俺はそこで▼▼が何をしたいのかピンと来た。Aは疑う事無く空を見上げると、▼▼はその隙を突いてAを雪の中に押し倒した。Aは突然の事で戸惑ったのか、普通の人がやる様に転んでしまって、何も面白くは無かった。雪の中で押し倒されるのならば、空を見上げる様して大の字に倒れて人型を作らなくてはいけないのだ。その解説に繋がらない転び方をしたAはガイド失格であり、俺は憤慨して「そうやって倒れちゃ駄目だろう。早く立て。もう一回チャンスをやるから次はしっかり決めろ」と、Aに挽回する機会をくれてやった。それでAを押し倒すと、次はしっかりと大の字に倒れた。それでいいと俺は頷き、▼▼は「こうして倒れると、こういう跡ができるんですよね。ほらここで腕を動かせば天使の翼の様に……」と自分も倒れて実演していた。これこそがガイドだろうと俺は満足して見ていられた。Aも楽しんでいた様であるし、良い経験となっただろう。
※
「これまでの内容で原告、被告共に異議はありますか?」
「あります。後日の件も付け加えて下さい」
確か、後日Aからツアーで押し倒された時に下着を濡らして寒かったからやるなら事前に言って欲しいと言われた記憶がある。どうでもよかったので今まで忘れていた。
「ありません」
※
そんなAは、時たま馬鹿になる。朝のミーティングが終わった時に、年度末の報告書についてAの後輩をいじっていた時だった。俺がAの先輩に「Aの後輩が仕事ができなければ、お前の責任になるんだぞ」と教えてやってる時だった。Aの後輩が項垂れる横で、Aが「私が後輩の責任を取ります」と言い出したのだ。
俺には意味が分からなかった。平社員であり大事に育てられているだけの雛であるこの半端者が、どんな責任を取れるというのか。
俺は激昂した。「お前が責任を取れる訳が無いだろう!」とAを怒鳴りつけた。それに対してAは「はい。ですが先輩として後輩の仕事を手伝いたいです」と言った。この小娘は何を言っているのだろうか。責任という言葉の使い方が間違っていた。日頃から俺はAに対し、「責任を持って後輩の面倒を見てやれ」とは言っていたが、それとは違うだろう。どうしてすぐに理解しようとせず、ああ言えばこう反発し、人の話を聞かないのだろうか。Aがまた口を開こうとしていたが、「黙れ!」と一喝した。
「責任という言葉の意味を知ってるのか?」にも、Aは同じ様な答えを返すばかりで理解できない。班としての仕事? そんなものは詭弁である。ちゃんちゃらおかしい。
俺は「お前が責任を取れる筈が無いだろう! こンのバカタレが! 二度としない様に心に誓え! おら! 反省したかは態度で示せ! 分かったか!」と、出来の悪いAを叱りつけた。
Aは自身の心臓に拳を当てて「はい! はい!」と何度も元気良く答えた。素直に話を聞くその姿に俺はやっと少しは溜飲を下げた。Aはその返事の後すぐに、何故か泣き崩れた。またしても、俺には理解できなかった。此奴は、何で泣いているんだろうか。俺は、何かAを泣かせる事をしてしまったのだろうか。原因は分からなかったが、「そう泣くんじゃない」と頭を撫でてやると、少しずつ落ち着いて来ている気がした。
その後も、俺が親切に言ってやった事を突っぱねてきた時もあった。あの時も素直に謝りに来てやったから、頭を撫でて「よしよし」と慰めてやった気がする。最後には素直に自分の非を認めるのは、Aの美徳かも知れない。
※
「これで全てになります。原告、被告共に異議はありますか?」
「ありません」
「ありません」
「では、第一回口頭弁論を終了します」
こうして第一回口頭弁論では現状の把握が行われたのであった。
「続いて、第二回口頭弁論にて争点の整理を行います。原告側、発言を許可します」
すっと真っ直ぐに手を伸ばしたAが、裁判長の許可を得て主張を始めた。
「はい。まず、部長の発言内容が適切であったのかに疑問を感じています。職員の昼休憩中は労働基準法34条で保障されており、職務上の命令を出すべきではないのではないでしょうか」
「異議あり。そうやって融通が効かないのは、Aちゃんの悪い所だぞ? 客がいつ来るかなんて分からんし、普通茶位は淹れるだろう」
生意気にも法令を持ち出してきたAに対し、俺はAの悪い所を指摘しつつ正論をぶつけてやった。
「原告、何か異議はありますか?」
「はい。来客を受け入れる準備が必要である事は存じておりますが、午前午後共に外仕事が入る部署の私以外にも、昼休憩を終えられている内勤の職員の方々がおりました。その方々ではなく、敢えて私に対して『茶』というぞんざいな一言を投げかける必要があったのでしょうか」
相変わらずAはよく回る口で自分の立場からものを話してくる。噛んで含めて、俺にそれを受け入れろとでも言う様に。実に部下として度しがたい態度であるが、それが可愛くもある。俺は腕を組んでこう言った。
「あったに決まってんだろう。あのなあ、お前はまだ茶の淹れ方一つなっちゃいなかった。他のサポートが受けられる時にこそ、そうして練習しようという向上心は無いのか? それに、Aちゃんが淹れてくれるコーヒーは美味しいよ、それで良いだろ」
「意義あり。先程述べた通り、休憩時間は保障されたものです。給湯方法は職務時間内でも学ぶ機会はあります。では逆に尋ねますが、部長は私が断った場合はどう返されますか?」
「そりゃ、『Aちゃんのコーヒーが飲みたいからさ』と煽てるか、時間が無ければ『四の五の言ってないでさっさと淹れて来い』と命令するかのどちらかだろう。そもそもAちゃんがコーヒーを出し渋る意味が分からない」
「はい。従って、私には休憩時間であれ職務命令に従わざるを得ない状況でありました。私の主張は以上です」
Aは胸を張って発言をした。
「原告側の主張を受け入れます」
「チッ……」
Aは小賢しくも俺の返答を使って裁判長に自分を良く見せたのだ。やはり女はこうした所が狡いと感じる。俺は苛立ちを示す為に、Aにも聞こえる様にわざと大きく舌打ちをした。
Aはまた手を挙げた。
「はい。次に、部長の発言が感情に任せたものであった点を指摘します。例えばイベントの際、部長は私を怒鳴り付けましたが、いくつもの指示を出された中、言われた順にこなす事は正されるべきミスであったのでしょうか」
「そうだ。普通は相手の状況を見て、自分の頭で考えて動くだろ。何でてんてこ舞いになってる俺に聞く必要があったんだ」
俺はあの時、本当に余裕が無かったのだ。そんな状況すら分からずに話しかけてくる方に非があるだろう。仕事に慣れてくれば、お互いに意図を察し合う「阿吽の呼吸」となっていく。Aはまだその段階に無い、それだけの話であった筈だ。
「異議あり。私が聞いたのではなく、私が指示通りに動いている場面での部長側からの発言でした。また、指示の優先順位を示した上での訂正なら従いますが、部長の頭の中だけで完結する事柄を推定すべきと仰るならば、パワハラの『過大な要求』に該当します。また、内容はともあれ部下を多くの人々の目の前で怒鳴りつける事は暴言に当たるのではないでしょうか」
Aは、俺が勝手に言った言葉であり、俺の言動はパワハラだと難癖を付けてきた。全く以って独りよがりで稚拙な回答であったので、俺はため息を一つ吐くと、怒りが漏れない様に気をつけながらAを嗜めた。
「俺がパワハラなんてする訳が無いだろうが。俺はただ、未熟なお前を育ててやってるんだ。Aちゃんはさぁ、どうして、いつも! そうやって人の意見を聞かずに曲解するんだ。ほら、駄目だぞ? 分かったか?」
優しく諭す俺に対し、Aは何も言わずにすっと手を挙げた。
「原告、どうぞ」
Aは凛とした声でこう言った。
「証人喚問を希望します」
証人とは、と思い果て、俺は被告としてこの場に立っている事を思い出した。さて、Aは誰を呼んでどんな都合の良い言葉を並べ立てるのだろうかと、手ぐすねを引いて待ち構えていた。
「受け入れます。証人、こちらへどうぞ。あなたは○○社の△△さんで間違いありませんね」
その名前が呼ばれた事に俺は少々意外に思った。俺はてっきりAは自分の仲間となりそうな営業所の同僚を引っ張ってくるのかと思っていたが、挙がった名前は聞いた事の無い人物であった。○○社は、先程挙げられた10月末のイベントの時に提携した外部企業であったが、そこの人物が俺とAに対して何の関係があると言うのだろうか。そう考えると驚きは次第に苛立ちへと変わっていった。
「はい。△△です」
意識にも残らない様な人物はいつの間にか証人台に立っていた。
「これから行う証言に嘘偽りが無い事を宣誓して下さい」
「私は、これから行う証言に嘘偽りが無い事を宣誓します」
いつも通りの宣誓が終わると、Aが△△に対して質問した。
「△△さん。あなたは、部長が私に対して怒鳴っていた場面に居合わせましたね?」
「はい。……正直、あの時はよく印象に残っています。突然怒鳴られたので。俺らはたまにそちらの営業所と一緒に仕事する機会があって、そちらの部長さんにも会う機会があったので顔は知ってたんです。でもあの時、俺にあれこれと事前の説明をしながら仕事をこなすAさんに対して突然怒鳴ったもんだから、とてもびっくりしました。それで、その後思わずAさんに聞いてしまったんです。『いつもあんな感じなんですか?』と」
証人の△△はゆっくり思い出しながら、すらすらとそう答えた。
「原告、証人の証言は記憶にありますか」
裁判長に尋ねられ、Aはしっかりと頷いた。
「はい。よく覚えています。営業所外の人からかなり引き気味にそう聞かれたので、その時は怒鳴られた恐怖もあり、私が○○社からの部長や営業所の評価を下げてしまったのかと恐ろしくなりました。しかし、後から考えると部長の叱責は回避不能であったと思い直し、部長は切羽詰まると他人に当たる傾向があると聞いた時に、私はやっと安心できました」
Aはまたしても勝手な事を言っていたので、俺は怒りを示しながらAの駄目な点を指摘してやった。
「は? 知らん。そんなの俺は聞いてない。なぁAちゃんさぁ、さっきから意味分かんないぞ。あの時、指示に従えなかったのはお前だろう? 誰が、いつ、誰に当たったと? そんなの、当然の怒りだろうが! 部下は口答えするな! それを言うならまず仕事をしろ。な? お前はなぁ……どうして、いつもいつもああだこうだと理由をつけて、自分が悪かったと認めないんだ。俺がああして怒るのは当然だろ?!」
「ッ……」
Aは次第にヒートアップする俺の言葉にびくりと肩を震わせただけで、俯いて何も言わなかった。やはり、Aにはこうして一つ一つ指摘してやるのが堪えるのだろう。俺は自分の正当性に満足して頷いていたが、それに水を差したのは裁判長であった。
「静粛に。……私感ですが、20代女性である原告に対して被告が強い口調で怒鳴れば彼女が恐怖を感じるのは当然と思います。ましてや、側で聞いていただけの証人でさえこの始末です」
裁判長は△△とやらを指した。彼は肩をすくめて寄る辺無さそうに視線を彷徨わせていた。
「被告は怒鳴りつけるだけでパワーハラスメントの『精神的な攻撃』に該当する案件として扱われる可能性がある事は重々承知しておいて下さい」
裁判長も、論点をずらして意味の分からない言い掛かりで発言を終えた。やはり、若い乙女であるAに絆されたのだろう。そうして被害者ぶって徒党を組み味方を増やすのも、女の狡いところである。裁判長の目が俺を見下している様に見えて癪に障ったが、俺は何とか冷静さを保ったまま、ズレた論点を正そうとこう言った。
「意味が、分からん。それを言うならあの時コイツだって怒鳴って返してただろう。何で俺だけがそう言われなくちゃいけないんだ」
「それは、被告が原告の上司であり、還暦を超えた男性であるからです。他に説明は必要ですか」
「……」
俺は裁判長にも態々指摘してやったのだが、公平な立場である筈であるのに俺の言葉を受け入れようとせず、剰え上から『立場を弁えろ』と言ってきやがった。だが、俺の年齢もAの上司である事も事実であるので、何も否定しようが無く、黙るしかなかった。
Aが手を挙げた。
「原告の発言を許可します」
「はい。話が逸れましたが、部長の発言は一方的な感情論である事を指摘します。事前に説明も無く、相手の理解度も確認せずに感情のままに叱りつける事で、相手の納得と成長に繋がるのでしょうか」
またAが話を混ぜっ返してきた。人と人との関係は相手の気持ちを慮っての関係に決まっているし、俺はAの空気を読む力を育てていただけなので、Aの言っている事はおかしい。
「は? 一々説明してやってんのに、まァたお前はそう言うのか? 俺はそうして育てられて来たんだ。だから、お前を育ててやってるだけなんだぞ? なぁ……Aちゃんよ。さっきから人を怒らせて、どれだけ恩を仇で返せばお前は気が済むんだ? 帰ったら覚悟しておけよ。な?」
「ひっ……」
Aは俺の言葉に怯えていた。そうだ。そうしていれば可愛いのにと俺は思った。だが、裁判長はそんなAを庇った。
「被告の発言は脅迫に当たります。発言を控えて下さい」
「俺はAに対して聞いているだけなのに何の問題があるんだ? 無いだろうなぁ?」
俺はAばかりの味方をする裁判長に食ってかかった。しかし今度はAが決意を決めた様に手を挙げた。Aは、一つ頷いた後にこう言った。
「……では、部長に尋ねます。例えば、部長が玉葱、お肉、砂糖の順番にお使いを頼まれた時、部長は何から買いますか?」
「は? 話題を逸らそうとするなよ。俺の質問に答えろよ、なぁ。『はい』と言えよ。お前がちゃんと従うのなら、俺は許してやらない事も無いんだぞ」
何を言うのかと思えば、今の時間とは何の関係も無い話であった。Aは俺の話を聞かずに、自分の都合の良い話題に転換しようとしていたが、それにはやり方がお粗末であった。だから俺はAに俺の言い分を突きつけてやった。
「今は原告の質問時間です。被告は原告の質問に答えて下さい」
だがやはり裁判長がAを庇った。
「……チッ、こんな質問に答える意味があるのか知らんが、玉葱からに決まってんだろうが馬鹿者」
俺は至極詰まらなくなり、しかし渋々と答えてやった。
「私は。私は、玉葱から買おうとして怒鳴られました」
「はぁ?? 言われてないのに順番なんて分かる訳無いだろう。ふざけるのも大概にしろよ」
またAは訳の分からない事を言ったので、俺は当然の事を返してやった。Aはまた俯いたが、すぐに真っ直ぐにこちらを見てから、証人の方へと向き直った。
「っ……私の言葉で不十分ならば、あの時一緒に仕事をしていた△△さんに伺います。△△さん、部長から私に対し、指示の優先順位を示す様な発言はありましたか?」
「い、いや……記憶にないですね。俺も何でAさんが怒鳴られているのか意味不明って思ってましたから、俺が知る限りでは無いはず、です」
突然話を振られた証人は戸惑っていたものの、Aの方を見ながらすらすらと返答した。
「△△さん、ありがとうございます。あの時、こちらの営業所のみの事前打ち合わせはありませんでした」
「馬鹿かァお前は。俺が大変だったんだから、そこは自分で判断するに決まってんだろ」
やはり、Aには俺の言葉は伝わっていなかった様だ。俺は再三、あの時の状況を説明してAの不当性を指摘してやった。
「被告は自分の発言を思い返して下さい。判断材料を与えずにミスを誘導するのはパワーハラスメントとなる可能性があります。原告、どうぞ」
だが裁判長はつれない返事しか返さない。俺は今までで苛立ってはいたが、自分でも堪忍袋の尾が切れかかっているのに気づいていた。そんな俺をよそに、Aはまた手を挙げた。
「はい。イベントの件のみならず、『責任』の所在を問うた件でもミスの誘導があったと指摘します。私は、私が責任の一つも負えない事は重々承知しておりました。しかし、常日頃から部長に『責任を持って後輩の面倒を見ろ』と言われていた手前、他の人々がいる前で後輩が叱責される姿を見ていられずに、助け船を出したかったという思いがあります。ただしその際、『責任』という言葉を使ってしまった事で、部長が『責任』を重く使っている思いを踏み躙る真似をしてしまった事は反省しています」
「ほら、お前のせいじゃないか」
Aは反省していると言うし、何も問題が無いじゃないかと俺はヤジを飛ばした。Aはそれには応えず、話を続けた。
「しかし、事前にそうした思いに対する説明はあったのでしょうか。人がどの言葉をどうやって受け止めているのかは、その思いを聞かねば分からないものです。あの時、部長は『責任』という言葉に反応し私の鼎の軽重を問う事に終始されていましたが、私は部長が他人の前で非難をする態度の指摘をしたつもりでした。その論点のズレを指摘しようとした言葉は、口を開けぬまま飲み込むしかありませんでした」
『かなえ』とか、変な言葉を使って自分の責任から目を背けようとしているAに現実を見せる為、俺は諭す様に言ってやった。
「は? 俺の方が経験があるんだから俺の方が正しいに決まってんだろう。お前がそんなに言いたい事があるなら早く言ったら良かっただけの話だ。女性は溜め込むからな。俺はお前がそんな事思っていたとか聞いてないし、そんなのは下らない事だ。こんな場所で争う必要すらないだろう」
「私はそれを部長に伝えましたし、その後の反論を頭ごなしに否定したのはあなたですよ」
「だがお前はその後自分の非を認めて泣いて謝ったじゃないか」
あの時のAが泣き顔はよく覚えていた。泣きじゃくるAを慰めてやったのも俺だったからだ。だが、Aは俺の意にそぐわない事を言い出した。
「それは……愛があるから全面的に受け入れろと言い続ける人の言葉が感情的でしかなくてどうしても理解出来ず、怒鳴られて恐怖を感じて限界を超えてしまったからです」
「こんな事で感情的になるんじゃあないよ。そうやって俺に責任を転嫁するな? Aちゃんはもう子どもじゃないんだから」
俺はAの指摘をしてやって、感情的に訴えて来ようとする彼女の梯子を外してやった。可愛い子には旅をさせるものだし、獅子は千尋の谷に我が子を落とすという。これくらいの厳しさは必要だろうと俺は信じていた。Aは子どもでは無いのだから、俺の厳しい言葉の裏にあるこの愛情に位気付くはずである。
Aは、はぁと軽く溜息を吐いた。
「部長は先程の裁判長の言葉を覚えていますか? また私の言葉では足りない様なので、△△さんに伺います。イベントの際、私が部長に怒鳴られた時、あなたはどう思いましたか?」
Aはゆっくりとがぶりを振ると、証人に返答を委ねた。それは反則だったので俺は即座に異議を申し立てた。
「異議あり。裁判長、Aは俺を陥れる為の誘導尋問しようとしているからやめさせろ」
「被告の異議を却下します。△△さん、発言をどうぞ」
だが、裁判長こそにべもなく俺の反論を突っぱねた。△△は「えぇぇ……」と言いながらも、
「えっ……普通に怖いと思いました。それと、そちらの営業所っていつもあんな感じなのかなぁとか、あんな上司じゃなくて良かったとか思いました」
一瞬戸惑い、こちらをちらちらと伺いながら若い従業員は素直過ぎる程に内心を吐露していた。
Aはそれに満足したのか深く頷いた。
「△△さん、ありがとうございます」
「チッ……顔は覚えたからな」
第三者からも怖かったと言われてしまえば、俺は何も言えなかった。だが、あれだけ俺からいじられて嬉しそうだったAを思い出すと、どうしても腑に落ちなかった。
「では、次の争点に移ります。△△さん、ありがとうございました」
「失礼します」
俺が歯噛みしている間にどこの馬の骨とも知れない奴は退場し、再び三人だけの法廷となった。
またしてもAがすっと手を挙げた。俺も競って手を挙げようかと思ったが、そもそも俺は時に厳しく、時に優しく愛を持ってAを指導していただけでパワハラをしていないのだから、どこを争点とするのか全く分からずに議題を提起できない点に思い当たり、挙げかけた手を戻した。
「原告の発言を許可します」
「はい。私は、部長は私に対して過干渉である点を指摘します。部長は私を可愛がるべき部下と捉えながら、娘の様に扱っている事は周知の事実です。しかし、それが職場の勤務時間内に行われる場合、権力が伴う命令となり、身体的・精神的な苦痛を伴う発言となる場合があります。具体的には、相手が許可しない場合の身体的な接触はパワハラの『身体的な攻撃』に当たると指摘します」
「はぁ? 俺が頭を撫でた時、お前は嬉しそうにしてただろうが。あれは軽く頭を小突いただけで痛みを与えていないから、おかしいだろ」
「私はそうして撫でられたりデコピンされるのが嫌でした。また、ガイドを行う最中、事前説明も無しに雪の中に押し倒す事も『身体的な攻撃』に当たるのではないでしょうか」
痛くも無い接触をあくまで攻撃にしたいのか、Aは更に言い連ねた。それは違うと、俺は教えてやった。
「別に痛くないんだからいいだろう。押し倒した件はガイドで盛り上げる為にやったんだから、お前が嫌だったかどうかなんて関係ない。盛り上がったんだから良いだろ。そういうのが嫌なら最初から言っとけよ。分かる訳ないだろ」
「お客さんを連れてのガイド中では、そうして嫌だという事も出来ませんでしたので、後日に嫌だったと伝えました。覚えていますか?」
「そんな事言ってたか? 覚えてない」
「……では、雪に押し倒された以外の、普段の会話の中で頭を小突いたり、撫でたり、デコピンをしたり、叩いたりした時について尋ねます。その際、私が部長に嫌だと伝えたり、手を防いだり、逃げたりした場合、部長はどうしますか?」
「俺を邪魔するのなら苛つくが、お前が素直に自分の気持ちを言わないのが悪い。嫌なら嫌とハッキリ言えよ。分からないんだからさぁ」
俺は当たり前の事を言ってやった。俺はAちゃん達部下には寛容で、失敗だって笑って許してやる度量くらいある。これが人を育てるって事だろう。
「部長は、意見を聞く体制でなければ私の生意気な口を封じて終わりにしたのでしょう。そうなるのが嫌で、私は受け入れるしかありませんでした。ただ、一番屈辱的だったのは、慰められる様に頭を撫でられた時です」
Aは思ってもみない事を言い始めた。慰めてやっているのが嫌? あれだけ悦んでいたのに? 意味が分からない。俺は、目の前にいるAが、まるで別人の様に感じた。
「もし、これが家族間で痴話喧嘩の様な他愛無い話で慰められるのなら理解できますが、上司と部下という職場内の関係で、部長の感情論に怯えた形で泣いた私に対して、断れない権力を伴って、責任の所在を有耶無耶にする様にして、私を弱くて間違った者と型に嵌めて、それを受け入れる度量の広い上司を演出するのは、部長の自己承認欲求を満たす為でしかないからです」
「はぁ? 何言ってんだ? お前は、慰めてやらない方が良かったって? 人の好意も素直に受けられないお子ちゃまなのか?」
Aは長々と何か言っていたが、全く耳に入らなかった。俺はその自分が正しいと言いたげな態度が癇に障ったので、Aに社会について教えてやった。
「…………。では部長は、私に対して優越感が無かったと言えますか。私を、まだ未熟な子どもと扱ってはいませんか」
Aは、非常に苦しげにそう聞いてきた。俺は何故いまそんな事を聞くのか分からなかったが、懇切丁寧に返してやった。
「俺の方が社会で長く生きているんだから当然だろうが。そもそも、俺はAを適度に可愛がって育てているだけで、それに一々文句を言われる筋合いがどこにある」
反論は許さないと、同意を求めてAを見るが彼女は俺と視線を合わせようとはしなかった。
それを見ていた裁判長はふぅと一息入れると、静かに話し始めた。
「……原告は、社会について深く知らないかもしれません。知識が不足しているかもしれません。単純なミスをするかもしれません。それは、まだ年若く経験が無いからかもしれません。しかし、経験が無いから、まだ若いから、女性だからと、相手を下に見るのはいかがでしょうか」
裁判長はそこで一旦言葉を切り、Aを見やった。Aはちっぽけなまま、底光りする様な視線をこちらに向けていた。
「あなたは、彼女を大切にしていると言いますが、本当にそうでしょうか。自分の思い込みだけで判断して、目の前の、あるがままの彼女を無視してはいませんか。彼女はこう思っていた、ああ感じていた……それらは全て、あなたの思い込みです。目の前のAさんは、自分の声を上げているにも関わらず、あなたはそれを聞いていません。 Aさんは、あなたの娘ではありません。過去のあなたでもありません。あなたの思い通りに動き、あなたを引き立てる玩具でもありません。そして、あなたの行動を正当化し、自尊心を保つための道具でもありません」
「はぁ? 当たり前だろうが。誰がいつ、此奴にそんな扱いしたと言うんだ。えぇ? ずっと目を掛けてやっただろうが。この恩知らずが! さっきから黙って聞いていれば意味の分からない事をべらべらべらべらと喋りやがって、部下なら少しは俺を気遣えよ。な?」
俺はAを無碍にした覚えも、辛く当たった覚えも、自分の為に利用した覚えもなかった。俺はただ、Aに健やかに育って欲しかっただけなのだ。こんな風に罵倒される筋合いは無いと、Aに言ってやった。
Aは、ギリと奥歯を噛み締めると、凍った空気を吸って吐き出す様に、苦しげに話し始めた。
「……もう、聞きたくありません。私だけが我慢すれば良いと思っていましたが、もう、堪えられません。どうして、感情論で解決しようとするのですか。どうして、自己矛盾に気付かないのですか。どうして、自分の話を押しつけて、人の話を耳に入れないのですか。私は、何度も嫌だとはっきりあなたに言ってきました。どうやったら、あなたはその扱いをやめてくれるのですか。私に『いじられキャラ』だと勝手にレッテルを貼って、私を出来ない奴だと決めつけて、人生経験と立場を使ってマウントを取って、自分は偉いんだ、仕事が出来るんだと満足するためのダシに使って……どうして私が喜んでいると思い込むのですか」
Aは一度言葉を切って、深呼吸を繰り返した。俺はAが何を言いたいのか分からずに不愉快なのでAを止めようとしたが、口を開きかけた途端に裁判長に睨みつけられたので断念した。俺は空気が読める大人であるのだ。
Aは握りしめた拳を震えさせながら、はじめは小さな声で、次第に何かを訴える様に力強い口調で言葉を繋いだ。
「どうして私が私の心を踏み躙るあなたの気持ちに寄り添わなければならないのですか。どうして私があなたの承認欲求を満たす為に太鼓持ちをしなければならないのですか。何度見返しても契約書に記された職務との関係性が見当たりません。あなたの機嫌を取る事も私の仕事なのでしょうか。何故、私は職務命令としてそれを求められているのでしょうか!」
「何でも何も無い。それはお前が社会に出て困らない為に決まっているだろう。あのなぁ、俺はお前を大切に思っているから、お前がうまくやっていける方法を手取り足取り教えてやっているんだ。何でそれを分かろうともしないんだ。感謝こそすれ、俺が咎められるのは筋違いだ。それに、お前は俺がいじってやると嬉しそうな顔をしてた。そりゃ誰だってお前が喜んでいると思うに決まってる。お前が嫌がっているというのは初耳だ。こっちだってそれを知っていれば……」
何故、お前は今までそうして正直に言わなかったのかと責める様にAを見つめた。Aは嫌そうな顔をして未だに俺と視線を合わせようとしない。俺はそこでAの態度から一つの答えを導き出した。
「そうか、お前は俺が嫌いなんだろう。だから、こうして下らない裁判なんか起こして、周りが自分に同情するように仕向ける。それは卑怯だし、Aちゃんはもう大人だろう? 社会に出たら、そんなのは通っていかないぞ? 俺がやめろっつってんだからやめろよ、分かったな?」
何度言っても話の通じないAに対して、俺は懇切丁寧に説明してやった。Aが大仰に宣った「何故分からない」は俺の台詞である。ふと、Aが本気で俺を嫌っている可能性も考えたが、それはあり得ないと自分で打ち消した。
「……私を一番子ども扱いしているのは、部長です。私は決してあなたを嫌った事も、憎んだ事もありません。日々、色々と面倒を見て下さっている事には感謝しています。こうして私がこの場に立つのは、私が気兼ねなく仕事をしたいから、あなたに私に対する態度を改めて欲しいという理由以外にありません。……裁判長、私からは以上です」
Aはやはり俺を嫌ってない事を知り、俺は知らずの内に安堵した。気兼ねなく仕事をするのに現状何が不満なのかは分からないが、Aの主張はこれで終わりらしい。
「被告に告げます」
裁判長は俺を見た。中立な立場から法のみ見ると言いながらAの味方ばかりした彼女は、最後にこう告げた。
「Aさんは、一人の社会人です。彼女は、一人の人間です。あなたの独りよがりで自己中心的な上から目線の発言で、彼女は何度も傷付いてきました。現実が見えていないのはあなたの方です。あなたはずっと、思い違いをしていたのです」
「今一度、パワーハラスメントの定義を確認します。まず、優越的な関係にもとづいて(優位性を背景に)行われること。次に、業務の適正な範囲を超えて行われること。最後に、身体的もしくは精神的な苦痛を与えること、または就業環境を害すること。ここまではいいですね?」
「被告の原告に対する言動はパワーハラスメントに当たります。部長という優越的な立場からの部下の女性に対する望まぬ接触や拒否できない場面で雪上に突き飛ばす行為は『身体的な攻撃』に該当します。勿論、他人の前で怒鳴り付けたり、理不尽な理由で責めたり、不当な程の叱責を下す行為は『精神的な攻撃』に当たります。本公判中での発言も含め、被告が原告に対してパワーハラスメントを行っていた事は明白です。よって、当裁判所は原告の請求を認めます。判決は、追って書面にて送付……」
☀︎
ピピピピッ、ピピピピッ……という音で目を覚まし、目覚まし時計を覗けばまだ朝の6:00であった。最近は年のせいか朝早くに目を覚ますので、目覚ましも朝早くにセットしておき、朝の時間を有効活用しているのだった。
それにしても、嫌な夢を見た。Aに裁判を起こされるなんて、悪趣味な冗談でしか無い。彼女は従順なのも取り柄なのだから。夢は夢らしく、傍聴人も弁護士もおらず、何故か裁判長と俺とAしかいなかったし、何度も日を分けるはずの公判も一緒くたになっており、その他諸々の点でおかしかった。登場人物も俺を含めて明け透けだったりおかしな発言をしており、まるで俺を貶める為だけにやっている様にも見えた。間違いなく論理的に破綻した悪夢であったが、それでも端々が嫌にリアルであったのは以前俺が仕事で何度も代理人として裁判所に呼ばれていたからであろう。
俺は早々に夢の内容は忘れる事にした。切り替えが早くて後に引き摺らないのは良い処世術であり、俺の美点だ。
「何でもかんでもハラスメント、ハラスメントって……今度はキメハラ? 何なのそれ。流行ったアニメが元? 何よそれ、肩身の狭い世の中ねぇ」
いつも通りに朝ご飯を食べながらテレビを点けると朝っぱらからハラスメントのニュースをやっていた。俺は夢の内容を思い出して不愉快になったのでチャンネルを替えようとしたが、リモコンは妻の手の中にあるので俺にはどうしようも無かった。俺は頑なにチャンネルを替えようとせずにハラスメントを責め立てる番組を見せる妻にその意図を尋ねた。
「……お前は、俺がハラスメントをしてると言いたいのか」
「何? 別に誰もそんな事言ってないんだけど。でもまぁ、このイラストは何だかあんたに似てるわよね。顔がね。あっ、明日から雨が降るなら先に洗濯物干してくるわ。もう一回洗濯機回すから洗濯物あったら放り込んでおいてね」
そう事も無げに言うと妻はドタドタとリビングを出て行った。机の上にはリモコンが残されていたが、もうチャンネルを替える必要は無かったので触りもしなかった。誰もいなくなったリビングでは、天気予報に続いてサクラ前線の北上の様子が空々しく響いていた。列島は桜に酔っていたが、外出を控えない馬鹿な連中は多いのだろうと思うと、それがいかに悪い事であるのか思い知らせたくなった。
停車中、苛々しながら前方の車両を見ると、そこには首都圏の地名が書かれていた。思わず「チッ……」と舌打ちが漏れた。ヴーッ、ヴーッと出勤中にポケットに入れた携帯が震えたが、赤信号であってもハンドルで手が埋まっていた為に後から掛け直そうと思うに止めた。どうせ、今日の面会の件や相談の件だろう。前方の車とは違い、朝っぱらから俺は忙しかった。
事務所に入ると、全員がこちらを向いた。やはり俺はここの部長であるからだ。口々に挨拶をする面々の中にAもいた。マスクで口元が隠れていて分かりづらいが、あまり元気の無い返事だったので、「おう、おはよう。あまり元気が無いな!」と言ってやったが、ぼんやりと頷くだけで反応が薄かった。最近、Aは反応が薄い。面白みが無くなって来たのでそろそろ一喝入れてやるのも良いかも知れない。
朝のミーティングを終えると、外仕事の連中が出払って事務所は静かになった。ようやく携帯を確認すると、見知らぬ番号からの着信であった。取り急ぎ、折り返し電話をした。
「もしもし、××営業所ですか。私、本部の□□と申します。失礼ですが、そちらから匿名でハラスメントがあったとの話を受け、こちらで調査を行う義務が発生したのですが……何かご存知ですか?」
『あなたの言動はパワーハラスメントであると判断しました』。
そう、夢で言われた言葉が不意に蘇った。
「は? あっ、あぁ失礼しました。取り急ぎ調査をした上でこちらから折り返し電話します。では」
ガチャリと急いで電話を切ると、どうやって調査をしようかと思案しかけた。だが、すぐに他の電話が掛かってきたので、頭の中から流れ去ってしまった。
外仕事をするAを見ると、女性には重いだろう荷物を後輩と運んでいた。
「よぉ、やってるか?」
「お疲れ様です」
黙々と作業をするAを見れば、いつも通りに可愛い女の子であり、そうした肉体労働は似合っていなかった。
「それ重いだろう。はぁー、だからこうしてお前達は筋肉がついていくんだよな」
Aが荷物を下ろした時を見計らって俺はAの二の腕を掴んで筋肉の付き具合を確認した。
「……」
Aは無抵抗のままこちらを見ていた。俺はパッと手を離すと、
「乙女なんだからさぁ、無理するなよ」
Aを気遣う様にして自分の仕事に戻った。俺はAにとって良い上司であった。
「何か届いてましたよ」
いつもの時間に部下がポストから郵便物を取ってきた。俺は丁度空いていた右手で郵便物を受け取った。
それは、一通の封筒であった。くるりと裏返して差出人を見ると、最寄りの簡易裁判所である事が分かった。
『私だけが我慢すれば良いと思っていましたが、もう、堪えられません。』
次第に心臓がうるさくなり始めたのが分かった。
『部長は私に対して過干渉である点を指摘します』
Aは、大切な部下であると同時に俺にとって娘の様な存在の筈だ。
『私を一番子ども扱いしているのは、部長です』
俺は何も間違ってはいない。何も悪い事はしておらず、皆が楽しく仕事をできる環境を整えているだけだ。Aだってほら、嬉しそうだろう。
『あなたは、思い違いをしていたのです』
嫌な、予感がした。
4月に書いたものを、最近のストレスの高まりに押され投稿しました。
12月の今、部長の余罪は増えるばかりです。
最近の作者「ククク、部長が書き下ろされたか。奴は四天王でも中堅よ」って感じなので最近は毎日心臓がドキドキです。趣味もやる気になれません。
どうか、どうか何か反応を下さい!
ワタシ 怖い人 違う。感想に貴賎なし!
「人を馬鹿にしてる」とかでも良いので!