第9話 ケルンの過去
後日、イングリッドはミーナの家で、一緒に刺繍をしながら思い切ってケルンの父親のことについて聞いてみることにした。
「ねぇ、ミーナ。ケルンとお父様との間に何があったの?」
イングリッドの質問に、ミーナは刺繍をする手を止めた。
「どうしたの、急に?」
「いえ、この前何となくケルンがそんな事を言っていたから……詳しくは教えてくれなかったけど。何だか気になって」
ミーナは瞼を伏せ、少し考えてから話し始めた。
「そう……ケルンのお父様、先代のリーフェンシュタール伯は、ここの生まれだけど、ここが好きじゃなかった。息子であるケルンのことも」
「どういうこと?」
「先代は山での質素な暮らしよりも、王都での派手な生活が好みだったみたい。だから、ここへも殆どお帰りにならなかったわ」
そう言えば、10年前に母の療養でここへ来たときも、伯爵様は不在だったわね。
「ケルンとは真逆ね」
「えぇ。でも、仲が悪かったのはそれが原因じゃないわ」
「というと?」
ミーナの顔に怒りと悲しみの入り混じった感情が浮かび上がってくる。
「先代は奥方様のことを、それは深く愛してらしたそうだけど、その奥方様はケルンを生んだ際に亡くなってしまわれたの。それで……先代はケルンが殺したようなものだと……」
「そんな!」
思わずイングリッドは椅子から立ち上がって叫んだ。
「そんなのっ……そんなのケルンの所為じゃないわ!」
「そうよ。でも、先代はケルンに冷たかったし、貴女達が来た年の秋には、ケルンを騎士団に入れたわ」
「一人息子を騎士団に?」
イングリッドは再び椅子に腰掛ける。
高位貴族が騎士団に息子を預けることは珍しくないが、普通は次男や三男で、爵位や領地を継ぐべき長男を入れることは非常に稀である。
運が悪ければ死んでしまう可能性もあるのに、跡取りを騎士にしようなんて、普通はありえないわ。それじゃ、まるで厄介払いしたみたいじゃない。
「先代は奥方様が亡くなってから荒んでしまったみたい。もともと、ここへは寄り付かない方だったけれど、金使いがどんどん激しくなっていったそうよ」
私の父と同じだわ。埋められない穴を埋めようとして、酒や賭博に溺れていった、あの父と。残された家族が居るというのに。一番近くで悲しみを共有出来る家族が。
「先代は、領地の経営にも関心を示さなくなった。先代の浪費の為、木が無計画に切られた話はしたわね。それで大きな水害が起きた。土砂は崩れたし、川も氾濫したわ。それでも、先代は私達を助けようとはしなかった」
「そんな……酷過ぎるわ」
あまりに痛ましい話だ。
「堪らず、ハーヴェイがケルンに手紙を出したの。仲は悪いけど、息子の言うことなら、もしかして聞いてくれるかも、という一縷の望みに掛けて」
そしてケルンは帰って来た。そして故郷の惨状を目にして激怒した。
「あんなに怒ったケルンを見たのは初めてよ。あの男を引き摺り降ろしてやる、と言って、急いで王都へ向かったわ」
”貴族が貴族としての責務を果たさぬなら、貴族など存在する必要があるのか?”
”家長としての務めを果たせないのなら、降りてもらうしかない。”
どちらもケルンが言っていたことだわ。自分の父親が領民を苦しめているのを見て来たから、厳しかったのね。
「それで、どうなったの?」
「私は王都に付いていったわけじゃないから、ハーヴェイから聞いた話だけど、そりゃぁ、大喧嘩になったらしいわ。で、先代は囲っていた愛人の家に逃げ込んだの。それで次の日、急に胸の発作で亡くなったの、先代」
「まぁ……」
「もともと不摂生な生活していたみたいだから……本当に、ケルンが殺したわけじゃないのよ」
状況的にそんな噂が立ち易い展開になってしまったてわけね。
イングリッドは頷いた。
「それから、ケルンは先代の放蕩の整理を始めたの。屋敷に置いてあった美術品を片っ端から売り払ったし、先代の愛人達の家も売り払ったわ」
当然、愛人達はごねたり、大袈裟に悲しんだり、ケルンに色仕掛けしたりと抵抗を見せたが、彼は一切の容赦が無かった。
「お前達が住む家も、身に着けている宝石も衣装も全て、我が領民が血と汗を流し稼いだ金で贖ったものだ。返してもらうぞ。身の回りの必要な物を持って、今すぐ出て行け。さもなければ、身ぐるみ剥いで叩きだすぞ、って言ったそうよ」
「……凄いわね」
でも確かにケルンの言う通りなんだけど。
しかし、ケルンのその強引かつ乱暴なやり方は、リーフェンシュタール伯は野蛮な山賊、という印象を決定付けてしまった。結果として彼の子々孫々まで、その印象が付いて回ることになってしまうことは、ケルンにも予想が出来なかった。
「で、それらを処分したお金で、救援物資を買い込んで戻って来たってわけ」
「そうだったの……」
ケルンは父親に苦しめられる私を見ていられなかったんだわ、きっと。自分の領民と重ねて。
「さ、暗い話はお終い。それよりも貴女達のことよ」
ミーナは気分を変えるために、膝を軽く叩く。
「え?」
「どんな事情で結婚したって良いじゃない。これから夫婦になっていけば良いんだから」
「でも……」
「私とハーヴェイだって、別に恋愛結婚ってわけじゃなかったし」
「そうなの?」
イングリッドは驚いた。2人はとても仲睦まじいように見えたからだ。
「私が年頃になったから、結婚させようってなったときの候補の中にハーヴェイが居たってだけよ。もともと幼馴染みで、よく知った相手だったし、まぁ別に良いかなって」
「まぁ……」
「でも、今はこの通り仲良くやってるわ」
ミーナは笑って手を広げる。全身から幸せなのが伝わって来て、イングリッドも思わず微笑む。
「だから、貴女達もこれからよ」
「ミーナ……」
ミーナがイングリッドの手を取る。
「良いこと教えてあげる。貴女、昔ケルンに花の刺繍を入れたハンカチをあげたでしょう?」
「え、えぇ……確かにそんなことをしたような……」
曖昧な言い方をしたが、イングリッドは明確に覚えていた。それが彼女にとって、刺繍を熱心に始める切っ掛けになったからだった。
母に教えてもらい、不器用にながら完成させた刺繍。
「ケルン、それはそれは大切にしてたわよ。貴女からもらったハンカチ」
「まさかっ」
イングリッドは動揺を隠せない。
だって、あれは本当に稚拙で子どもの手遊びみたいな刺繍だったし……。
「あら、本当よ。そうとう嬉しかったみたい。だから、離縁しようなんて考えないで。ケルンは口が悪いというか、偽悪趣味なところがあるけど、生半可な決意で貴女を貰ったわけではないと思うわ」