第6話 攫われた理由
次の日、イングリッドは2階の自分の部屋の窓から、切ったシーツを使いそっとリーフェンシュタール邸を抜け出した。父や兄に会って真相を聞きたかったからだ。行き交う人々の間を通り抜け、家の前まで来て、ドアを叩く。しかし、何の反応もない。
「お兄様? 誰か居ないの?」
彼女の呼び掛けにも誰も答えない。それどころか、誰かが居る気配もまったく感じられなかった。
どういうこと……?
イングリッドの心に不安が募る。
どこへ行ってしまったの?
「ここにはもう、誰もいないよ」
イングリッドは呆然と家の前で立ち尽くしていたが、声がして振り返るとケルンが立っていた。
「どういうこと? 貴方何したの?」
イングリッドがケルンに詰め寄る。
「……」
「教えて!」
彼の胸を思い切り叩く。ケルンはため息を吐き、彼女の手を掴む。
「君は、君の父上のことについてどれだけ知っている?」
「えっ……」
そう問われてイングリッドは困惑した。
「父は母が亡くなって以来、お酒が増えて、仕事もしなくなったわ。それで家は……」
「問題はそれだけでは無かった。君の兄上は、そのことを君に隠していたが」
「何を隠していたというの?」
「賭博だ。君の父上は酒の他に賭博にも溺れていた」
「まさかっ」
イングリッドは目を見開く。
「君の兄上が必死に隠していたからな」
「……」
イングリッドが思うよりもずっと家は傾いていたのだ。
「そして、新たな獲物を狙っていたヘルマンに目を付けられた。違法な賭博場で金に困っていた君の父上と仲良くなり、気前よく金を与え続けた。そのうち、自分は妻となる女性を探していると話し出すわけだ。娘を差し出せばもっと金を貸せるから、と。君の父上はそれを承諾した。自分が賭博を続けたい、その一心に為に」
「そんな……」
「もう正常な判断は出来なくなっていたんだ。普通ならそんな理由で娘を嫁がせたりしない。しかも、妻を虐待するような男に。そこで、君の兄上が俺に相談してきたんだ」
ケルンはあの日のことを思い出す。
「それで、一体何だ火急の用件とは?」
「それなんだが……妹を攫って欲しい」
「……はぁ?」
ケルンはトバイアスのおかしな提案に、思わず片眉を上げた。トバイアスはケルンに父親の事情を説明する。
「このままでは妹は遠からず殺されてしまう……だから、頼む」
「あの噂、本当だったのか……」
ケルンが呟く。
「あぁ。私は法務院に勤めているから、女性の遺族から訴えがあったのは知っている。だが、法務院ではどうすることも出来なかった。妹を救ってくれ」
悲痛な顔でトバイアスはケルンに頭を下げる。
「しかし、俺も人の事は言えないほど、評判は悪いが良いのか? 父親殺しの野蛮な山賊だぞ」
「君は妹を虐待したり、殺したりしない。妹は助かる、少なくとも命だけは」
トバイアスは疲れた顔に、ほんの少し笑みを零す。
「それに、妹は君と結婚すると言っていたしね」
「……いつの話をしているんだ」
呆れたようにケルンがため息を吐く。
「頼む」
彼の脳裏に、きらきらと輝く金髪の少女の姿が浮かぶ。別れの間際、恥ずかしそうに自分に花の刺繍の入ったハンカチを渡してくれたイングリッド。
今はどんな姿になっているだろうか。
ケルンは目を細める。何はどうあれ、彼女が苦しむのを分かっていて放っておくわけにはいかないだろう。
「……分かった。だが、父親のことは何とかしろ、トバイアス。家長としての務めを果たせないのなら、降りてもらうしかない。病院にでも入れるか、賭博とは無縁の田舎にでも閉じ込めておけ。それが無理なら……お前の手で裁け。それが条件だ」
「あぁ、そうするつもりだよ」
「そうするつもりって……一体、お兄様達はどうなったの?」
イングリッドは最悪を想像して、血の気が引いた。
「父上を王都から離れた田舎へ連れて行ったよ。そこでしばらくトバイアスは父上の面倒を見るようだ」
「そう……」
どうして教えてくれなったの、お兄様?
「トバイアスは、もし君が家が崩壊寸前まで傾いていると知ったら、ヘルマンがどんな男でも家を支える為に嫁いだだろうと言っている」
「それは……家族を救う為なら、当然でしょう?」
「ヘルマンに嫁いだ女性達も同じだった。家の経済状況が悪くて、彼に支援してもらう代わりに娘を嫁がせた。まさか、あんな酷い男とは知らずにな。実家を支援して貰っている以上、娘達はどんなに辛くとも家族にも言い出せないし、逃げ出せない。それをあの男は分かった上で、痛ぶっていたんだ。そして彼の2人の妻はどちらもそれが元で亡くなった」
イングリッド手を握るケルンの手にも力が入る。彼にとっても胸糞の悪い話であった。
「ああいう男は狙った獲物に執着する。だから、ヘルマン子爵から借りた金も清算して訴え出られないようにした。だが、俺の屋敷の周囲を窺う怪しい連中がいたから、君を家から出すわけにいかなかった。俺と君が一緒にいるところを見れば、諦めると思ったんだが」
結果はあの通りである。
「だから、貴方に感謝しろって言うの?」
私の命を救ったから? ヘルマンへの負債を肩代わりしたから?
「知らん。君の好きにしろ」
「何よっ……」
今まで散々強引なことをしておいて、どうしてそこは何も言わないの……。いっそ、決めてくれたなら反発のしようもあると言うのに。
イングリッドの目から涙が溢れだす。
分かってる。これは八つ当たりだって。彼は友人に頼まれて、父親に売られ命を散らそうとしていた哀れな娘を助けただけ。
それでも、このやり場のない怒りと悲しみと悔しさを今はケルンにぶつけるしかないのだ。イングリッドはケルンの手を振り解いて、彼の胸を何度も叩く。
「……君も王都を離れて、少し落ち着くと良い。リーフェンシュタールは良いところだぞ。君も知っているだろう?」
ケルンは泣き続けるイングリッドの背に手を回し、宥めるように優しく撫でる。