第3話 彼との生活
緑の眩しい風光明媚な景色が広がる。そんな中を黒髪の少年が走っていた。彼はその手に白い小さな鈴が連なっているような形の花を握って。彼の目指す先には一人の金髪の少女がいた。少年の姿を見て、その少女は微笑む。そして彼は彼女に、その花を渡すー。
ひと夏の美しい思い出。
こんなこと思い出しても、何にもならないのに……。
イングリッドはため息を吐いた。ケルンの妻になってから数日が経った。彼女も少し落ち着いて、自分の状況を考えられるようになった。
……こんなこと珍しいことじゃない。監視されて外に出られないのはおかしいけど。そもそも家にお金がないことは分かっていたもの。ただ、ヘルマン子爵と結婚させれると思ってたから驚いだけど。それでも、一言くらいあっても良いじゃない? いくらケルンが昔の知り合いだからって。
そのケルンは無理強いするつもりはない、という言葉通り、あの日以来、指一本イングリッドには触れていない。それどころか、次の日にはイングリッドの為に刺繍用の布や糸を大量に持ってきてくれた。
「君は刺繍が得意なんだろう? 思う存分やると良い。他に必要な物があったら言ってくれ」
これではまるで、丁重な客人扱いだわ。そりゃ、別に手を出して欲しいとかではないけれど……。
イングリッドは自分の中のよく分からない感情に戸惑っていた。この数日、リーフェンシュタール家の屋敷で過ごしてみて、ケルンが外で言われているように野蛮で無軌道な山賊みたいな男とは全然違うことを知った。
少なくとも無軌道、ということは無いわね。
ケルンの一日はとても規則的だった。朝食の席ではいつもイングリッドより先に着いているし、日中も仕事の為に会うべき人に会い、兵達と体を鍛えたり剣技を磨いたりしている。夕食でも酒は嗜む程度で、酩酊して前後不覚になるほど飲んだりしない。
私の父とは大違い。
イングリッドは皮肉気に笑う。父は母が亡くなってから酒に溺れるようになった。イングリッドの家が傾きだしたのもそれが原因だった。
イングリッドがぼんやりと考え事をしていると、誰かが彼女の部屋のドアをノックする音が耳に入って来た。
「イングリッド、少し良いか?」
ケルンの声だ。イングリッドは躊躇いながらも、どうぞと答えると彼が入って来た。
「何か用?」
イングリッドが彼を一瞥しながらやや険のある声で尋ねる。
「今度、舞踏会がある。出来れば一緒に出てもらいたい」
「舞踏会?」
「そうだ」
気は進まないけれど、いつまでもこうしている訳にはいかない。だって、私はもう、この人の妻にされてしまったのだから。
「……分かりました」
「良かった。では、こちらへ来てくれ」
「え?」
戸惑いつつイングリッドはケルンの後に付いていく。案内されたのは広間で、そこには様々な色の布地や宝飾品が並んでいた。
「舞踏会に何が必要なのかよく分からんからな、とりあえず商人を呼んでおいた」
「そ、そうですか……」
「必要な物を揃えてくれ」
そう言われても、とイングリッドは困惑した顔でケルンを見る。彼はそれを受けて安心させるように笑みを見せる。
「遠慮はいらん」
「それなら……」
イングリッドは夜会用のドレスを新たに誂えることにした。今、持っている物は、伯爵家の妻として着るにはあまりにも地味だった。しかし、そうなると新調したドレスに合う宝飾品も必要になってくる。
「本当に良いのですか?」
「さっきから急に畏まって、どうした?」
ケルンが不審そうな目でイングリッドを見る。
「だって、貴方は伯爵様ですもの。方や私は平貴族。冷静に考えれば当然でした」
「君は俺の妻だぞ。それに俺は遜られるのは嫌いだ。今まで通りで良い」
「でも……」
「俺が良いと言うんだ。それで良いだろ」
「……分かった」
イングリッドがため息を吐く。
「今持ってるドレスじゃとても伯爵家の格式に合わないから、一着だけドレスとそれに合う宝飾品だけ買わせて頂くわ」
「あぁ。ゆっくり選ぶと良い」
「ありがとう……」
イングリッドはぽつりと小さな声でケルンに礼を言った。それを聞いたケルンはニヤニヤ笑う。イングリッドは何だか悔しい気持ちになったが、あえて何も言わなかった。
ドレスの生地を決め、採寸され、それに合う髪飾りなどの宝飾品を選び終え、イングリッドとケルンは彼女の部屋に戻った。
「そうだ。渡しておきたいものがある」
「渡しておきたいもの?」
「あぁ。左手を出してくれ」
イングリッドは怪訝に思いながらも、ケルンの言う通り左手を差し出す。ケルンは懐から金の指輪を取り出し、彼女の左手を握りその薬指にその指輪を嵌めた。
「これは……?」
戸惑うイングリッドはケルンは少し気恥ずかしそうに掻きながら説明する。
「結婚指輪だ。うちに代々伝わっている代物らしい。とりあえず、それつけておいてくれ。嫌なら別の指輪を用意する」
イングリッドは驚いて首を振る。
「とんでもない。むしろ、本当に私がつけて良いの?」
「君以外につける者などいない」
「……分かったわ。失くさないように重々気を付けるわ」
「そうか、すまんな」
ケルンはそれだけ言って部屋から出て行った。イングリッドはその姿を見送った際に、彼の左手の薬指に同じ金の指輪をしているのを見つけた。
ドキン、とイングリッドの胸が跳ねる。一瞬、嬉しいと思ってしまった。
な、何、どういうことなの……。
イングリッドは恥ずかしそうに自分の顔を両手で押さえた。
そして夜会の日。イングリッドは化粧台の前に座り、髪を整えていた。別にそんなに拘って準備する必要はないという気持ちと、何であれきちんとしていないと駄目という気持ちで揺れていた。
別に、私は望んでケルンの妻として出席するわけじゃない。けれど、リーフェンシュタール家は伯爵家。適当というわけにはいかないわ。
そして、ほんの少しだけケルンの反応が気になるのだった。結局、イングリッドは万端準備整えて部屋を出る。内心では、高揚と緊張が入り混じっていた。
この前新調したドレスは、淡いまるで真珠のような、見る角度によって微妙な光沢のある白で、手触りも良く、刺繍もふんだんに施され、胸ぐりや袖回りには細いレースもあしらわれている。これほど高いドレスをイングリッドは着たことが無かった。それに髪飾りや首飾りの繊細な細工も、とても美しい。
これじゃ衣装負けしてるわね……。
イングリッドの高揚した気分が僅かに沈んだ。階段を降りて屋敷の入口まで行くと、ケルンが既に待っていた。
礼服に身を包んだ彼は中身はどうあれ、背が高く背筋を伸ばし立つ姿は貴公子然としている。イングリッドは思わず見惚れそうになった。
私ったらどうしちゃったの?
内心動揺しながらイングリッドはケルンの前に立つと、彼の視線が上下に動く。
「よく似合ってるじゃないか」
そう言ってケルンは口角を片方上げる。
「じろじろ見ないで」
妙な目で見られているのが恥ずかしいやら悔しいやらで、イングリッドはぷいっとそっぽを向く。
「良いだろ、減るもんでもないし」
「駄目ったら駄目なの」
「はいはい」
ケルンは苦笑して、イングリッドに腕を組むように肘を曲げるが、イングリッドはそれを無視してすたすたと歩いて行ってしまう。彼は肩を竦めてその後に続いた。
豪華に着飾った人々、優雅な管弦の響き、広いホールに煌めくシャンデリア。貴族達はダンスやおしゃべりを銘々楽しんでいる。
そこへケルンとイングリッドが従者を連れて入って来た。人々の視線が2人に集まる。そしてざわざわと遠巻きに何か囁き始めた。
「何だか晒し者にされた気分だわ」
「こんなところは、そういうもんだ」