第13話 山の試練
高原の放牧場には家畜達がのんびりと草を食んだり、寝そべっていたりとのどかな光景が広がる。昼を過ぎ、強い日差しと心地良い高原の風に吹かれながら、ケルン達一行は牧童達が寝泊まりする小屋まで辿り着いた。
そこで高地に体を慣らすため、一晩食事と寝床の世話になり、次の日の早朝、再び歩き始める。高原の夏は色とりどりの可憐な花が咲き乱れる美しい世界だった。
そこを登り切ると背の高い木々はなくなり、低木と苔のように地面に敷かれた緑が広がっている、山の稜線へと出る。もう左右どこも見ても山しかない。
未だに残る万年雪、誰も知らない池、山脈を織り成す大岩壁、岩の間に咲く名も知らぬ花々。そんな自然の作った美しい景色が、黙々と進むケルン達の目を楽しませる。
さて、ここまでは良いが……。
問題はこれからだ。フュンフドラーヒェン岳の山頂近くは荒涼とした植物の生えない岩場なのだ。足元には細かく砕けた砂利のような石に足を取られて、一行は何度か滑りそうになった。
「気をつけろ! 稜線から転げ落ちたら死ぬだけだぞ」
ケルンは鋭い警告を発する。一行は気を引き締めて、再び歩き始める。
「大丈夫かしら……」
ケルン達が出立してから2日が経っていた。イングリッドは屋敷の窓から、不安げに山を見上げる。ケルン達の姿が見えるわけでも、シュフィアート岳が見えるわけでもなかったが、外を眺めずには居られなかった。空には東の方より、雨の気配を孕んだ黒い雲が迫りつつあるのも、イングリッドを不安にさせた。
この2日は天気は順調だったが、シュフィアート岳へ入ったところで次第に周囲に濃い霞が掛かってきた。視界が急速に悪くなっていく。
「大将。これ以上進むのは危険ですよ」
「分かった。幕屋を張れる平たいところを探そう」
それに山の暮れは早い。真っ暗になる前に野営の準備に取り掛かることにした。
一行は霞の水分で、湿り始めた岩場を慎重に歩き、幕屋を張れそうな広さのある場所を見つけ、そこで野営の支度を始めた。分厚い雲が赤い夕陽を覆い隠し、周囲に暗さが増していく。
「今日は荒れそうだな……」
真っ暗な闇の中で、降りしきる雨の音。ときどき強い風が吹いては屋敷の窓を、水滴が叩く。
イングリッドはなかなか寝付けず、寝室の窓から外を望む。その時、閃光が奔った。そしてその後に轟音が響く。
「きゃっ」
雷鳴に驚いて、思わずイングリッドは小さく叫んだ。
「ケルン……山の方は大丈夫かしら……」
イングリッドがカーテンの端を不安を紛らわせるようにぎゅっと掴む。
「あんなお守りに効果があるなんて思ってないけれど……どうかケルン達を守って。お願い」
だって彼は、ここに必要な人よ。ここに居てくれなきゃ。それに……私だってケルンに会いたい。
イングリッドが一晩中、一心不乱に祈り続ける。
私が出来るのはこれだけ。山に祈るしかないわ。
強い風雨に曝されながら、ケルン達は幕屋に座り、まんじりとも動かずに耐えていた。何度か稲光が轟音を従えて迸るのを聞いた。
ここには遮蔽物は何もない。雷に撃たれたらひとたまりもないな。その前に幕屋が風で飛ばされるかもしれんが。そうなれば、命はあるまい。
ケルンは皮肉気に口を歪めるが、我知らずイングリッドから貰ったお守りを握りしめていた。幕屋の布が風でばさばさと揺れる。高山なので夏とはいえ、気温は低く、隙間から吹き込む風は冷たい。
これが身勝手をした俺への罰なら死ぬかもしれない。親父のことを笑えないな。
今ケルンは死の恐怖に襲われていた。
まだまだだな、俺も。
死にたくないと思ってしまう。まだやらねばならないことがあると。
どうか、俺を守ってくれよ、イングリッド。この夜を耐え凌げるように。
お守りを握る手が震えていた。
いつ終わるとも知れぬ夜もついに明ける時が来た。陽の力に雨雲が流れ去っていく。
「やれやれ、どうやら生き残ったみたいだ」
幕屋から外へ出た男達が見たものは、山の岩壁が朝陽に照らされ赤く色付く神秘的な瞬間だった。
「美しいな」
ケルンは微笑みながら一人ごちる。陽が昇るにつれて、岸壁は赤から黄色、そして白へと変わり、完全に太陽が山から顔を出すと、岩と緑と残雪が織り成すいつもの山の風景が広がっていた。
朝の厳かな山の儀式を見たケルン達は朝食を取ると、再び力強く歩き出す。
その日の昼頃、ついにシュフィアート岳の山頂直下まで来た。ここまで来たら後は山頂を目指すのみである。
「要らない荷物はここへ置いていけ。なるべく軽くして挑もう」
ケルンの指示で急登を登るのに必要ない野営の道具や調理道具、食料などはその場に置いて、頂へと向かう。切り立った大きな岩の塊が3つ並ぶ頂は、足だけではなく、手も使って登る。先頭を行く者が岩場に足や手を掛けられるところを慎重に見極め、それと同じルートを後続が続いていく。一人が万が一滑落しても受け止められるように全員頑丈なロープで互いの体を縛っていた。
急こう配の岩を一つやり過ごし、ついにシュフィアート岳の最高峰に挑む。太陽がじりじりと一行を照らす。さらに緊張も加わり、顔や背中、手にじっとりと汗が滲む。さらに高地は空気が薄く、息切れしやすい。
ここで滑り落ちたら何もかも終わりだ。
只ならぬ緊迫感の中で、手を滑らせるようなひやりとする場面もありながら、ケルン達はとうとう頂に立った。
剣のように尖った頂で、男達が歓喜の雄たけびを上げる。ケルンは体を一周動かし、頂点からの景色を確かめる。
行けども行けども、綿々と続く山脈のいと高き山並み、長い風雪が削った深い渓谷、高原の湖沼帯、森、川。そしてその山脈の合間のほんの僅かな平地にケルン達が暮らす村々があった。
この山からは、本当に小さく見えるな。自然の前では人の営みなど、あまりに些細だ。
母が死に、父にも顧みられなかったケルンを育て慰めたのは、ここで暮らす人々であり、自然であった。
だからこそ、ここに立ちたかった。彼らにとって、自分が頼れる、力強い統率者でありたいと常々思ってきた。
誰に証明するでもなく、自分自身にそう証明したかった。
常に先頭に立ち、守っていきたい。人々も、自然も、それに愛する女性も。
その決意を新たにして、ケルンは持ってきたリーフェンシュタール家の紋章が入った短剣を山頂にそっと置いた。初代がシュピアー岳の山頂でそうしたように。
もしかしたら、物好きな連中がいつの日かここへ登りに来るかもしれない。それまではここで、見守っていてくれ、人々の暮らしを。