九 地面が発する磁力と太陽が発するエネルギー
「私、不安なのよ。あの子には死神とか…何か変なもんが憑いてるんじゃないかって」その夜、克代はそう言って徳次に、自分が留守の間は比奈の傍に居て守って欲しいと頼んだ。
「死神かどうかはわかんねえけど、確かに、あの子には不思議なとこがあんな」
「徳ちゃんもなんか感じる?」克代は不安げに徳次を見やった。
「空気が異常に冷たくなる時があるだ。それもあの子の周りだけだ。しかもその冷たさってのが半端じゃねえ。空にゃお天道様がガンガン照ってるちゅうによ」
「まるで氷の海のような……?」
「そうだ!それから、ゆらゆらと身体が透き通るだよ」
「今にも消えちゃいそうに、でしょ」
「昔……、遠い昔のこった」徳次は、忘れていた遠い記憶を呼び戻すように目を細め、一点を見つめて話しだした。「同じような空気の人が居た。克ちゃんも知ってるんじゃねえかや?戦争が終わって何年も経って、一人の兵士がこの村にやってきた」
「もしかして、この山の上の方に住んでいた人じゃない?」
「そうだ」徳次は肯いた。
「絶対に近寄っちゃいけないって、お母さんに言われたわ。気味が悪いし、何をされるかわからないからって」
「戦地から沢山の死霊を連れて帰ってきた兵隊さんだと、霊媒の婆さんが言っとったからな。皆、怖がって誰も近寄らなんだ。だけど、あの人はガダルカナルに送られて、二万人以上が戦死したっちゅう大変な戦を生き延びて帰って来たんだ。死んだ戦友達との約束を守って、戦友の最後を遺族に伝えるために、死に物狂いで日本に帰って来た人だ」
「良く知ってるわね、そんなこと」
「うん。あの人は戦地でかかったマラリアの所為で、時々、大変な高熱を出して寝込んだだよ。そんときゃオラが婆ちゃんに言われて食い物を運んだからな。熱が出るとな、三、四日はブルブル震えて、大変な苦しみようなんだけど、暫くすると熱が下がる。熱さえ下がれば何でも無かったようにいろんな話を聞かせてくれたもんだ」
「怖くなかった?」
「そりゃ最初は怖かったさ。でも婆ちゃんに、遠い戦地から死霊を連れて帰ってきた人なんだから、親切にしてあげにゃいけねえって言われたからな。しかたねえべ。霊媒の婆さんとオラとこの婆ちゃんとは仲が良かったしな」
「霊媒って、拝みやのお婆さんのこと?確か……、村のはずれに住んでた」
「そうだ」
「それで、その兵隊さんはどうなったの?」
「克ちゃんが東京へ行っちまった翌年かな。死んだよ」
「だって、まだそんな年じゃなかったでしょうに」
「四十にはなってなかったと思う」
「可哀そうに……」
「でも、霊媒の婆さんが、あの人はすぐに生き返るって言ってたな。彷徨える霊を救った人はすぐに生まれ変われるんだそうだ」
「彷徨える霊ッて何?」
「寿命を全う出来ずに死んでこの世を彷徨っている霊だと。何でも、寿命が残っているうちに死ぬと魂は天空へは行かれないらしい。自殺したり、戦争や事故なんかでまだ寿命があるのに死んでしまった人達の霊が、行き場が無くてこの世を彷徨っているそうだ。そんな霊を救って天空へ連れて行くことが出来たら、その人は直ぐに生まれ変わり、次の人生では何でも幸せに暮らすことが出来るとか」
「へええ。始めて聞いたわ。だけどさ、その兵隊さんが本当に彷徨える霊を救ったかどうかなんてわからないじゃない」
「いんや違えねえ。その兵士が死んだ時、そりゃあ美しい七色の光りが真っ直ぐ天に昇っていったからな」
「見たの?その七色の光りっての」
「オラは見たよ。だけど村の衆には見えなかったらしい」
「他の人達が見てないんじゃ、徳ちゃんの見間違いじゃないの?」
「いや。婆ちゃんも霊媒の婆さんも見たと言っとった。それで、あの人はすぐに生き返ってくるって言っただよ」
「すぐに生き返るんなら素晴らしいじゃないの!もう一回人生をやり直せるなんて、私にしたら願ってもないことだわ」克代は少しばかり顔を輝かせたが、直ぐに決然として言った。「でもあの子は駄目!まだ十七歳よ。これから無限の人生があるって言うのに」
徳次の脳裏に史恵の顔が浮んだ。「この子の為に私がどれだけ心配し、どれだけ苦労をしているか……」と、切々と訴えていた史恵。もし比奈に何かあったら、史恵はどれだけ嘆き苦しむだろうか……。あの子の父親だってそうだ。いや、目の前に居るこの克代だって、恐らくは生きる目的を失うに違いない。
「あの子に、死霊に打ち勝つだけの強さがありゃあ良いだが……」
「駄目よ!あの子弱いのよ。そこが問題なのよ。だから、強くならなきゃ駄目だって、いつも言ってるんだけど、何かあればすぐに逃げてしまう」
「ほうだな……」徳次は溜息をついた。「あの子は確かに弱い。大体が死霊ってのは、弱くて優しい人に取り憑くだよ」
「どうしたら良い?どうしたら強くなれる?」
「何だろう……?自信を持つことか、それとも信念か……」徳次は腕を組み、首をひねった。
信念かもしれないと克代は思った。自分を振り返ってみれば、私はいつも自信を持って生きて来た。けれども、いざ死が目前に迫った時、私には自信など一欠けらも残っていなかった。この胸を占めていたのは、ただ虚しさと情けなさだけだった……。
「恐ろしいのは怨みに凝り固まった霊じゃねえかや?」徳次が考えながら言った。
「うわっ」克代は飛び上がった。
「怨みを抱くと人は得てして周りが見えなくなる。周りだけじゃなく真実すら見えなくなっちまう。もし、そんな霊に取り憑かれてるとしたら……」
「じゃ、どうすりゃいいのよ?」克代の声は悲鳴に近かった。
「確か……、裸足で砂浜に立って日の出を拝むと死霊を退治できると、霊媒の婆さんは言っとった。なんでも、地面が発する磁力と太陽からのエネルギーが身体の中で一つになって、身体の中の不浄なものを追い払うんだとか」
「そういえば、この半島は特に磁場が強いって、或る新興宗教の教祖様から聞いたことがあるわ! だから、主だった宗教はこの半島に施設というか道場を持ってるんだって」
「教祖様っちゅうのが知り合いなら、その人に助けてもらったらどうかね」
「駄目よ。だって、いつもすっごく高い服着て、車だって何台も持ってるの。貧しい信者からの献金で、贅沢三昧に暮らしてる人なんか……」克代は、とても駄目だと首を振った。
「それもそだな……」