七 見まい、聞くまい、話すまい。
「私はこの村で暮らしていこうと思う」
比奈の後を追って出てきた克代は、石垣に腰をかけ海を見つめている比奈の隣に腰を下ろしながら言った。
「ホント?家へは帰らないの?」比奈は目を輝かせた。
「うん」自分自身の決意を確かめるように、克代は深く頷いた。
「旦那さん、生きてたんでしょ?家へ帰らないで良いの?」
「もう家へは帰らない。ここで新しい暮らしを始めるわ」
「だったらあたしも此処で、おばさんと一緒に新しい暮らしを始める」
「こんな所であんたは暮らしていける?」
「平気だよ!あたしにとっては東京こそが地獄なんだよ」
「それじゃあ、ちゃんとお母さまの許可は得ようね」
「エ―!」途端に比奈はふくれっ面になった。
「お母さまがどんなに心配なさってらっしゃるか……」
「おばさんは知らないから簡単に言うけどね、お母さんはあたしが嫌いなんだ。あたしがどうなっても構わないんだよ。口じゃネ、あたしのことを理解しているようなことを言うんだけど、内心じゃあたしをすっごく非難してる。それが目にも、顔にも現われて身体全体であたしを責め立ててることに、自分じゃ気がつかない。私に悪いところがあるならハッキリ言えば良いんだ。だけど言わない。何も言わないであたしの顔色ばかりを見るの。
そう言うのって惨めじゃない?たまらなく惨めじゃない?」これまでの怒りを吐きだすかのように比奈は一気に喋った。
「だったら余計に、此処で私と暮らすことをお母さまに報告するべきじゃない?」
「ヤダよ。言ったって理解するわけがない」
「私にはあんたが、ただ現実から逃げてるだけのように思えるけどね」
「あたしは逃げてなんか無い!」
「逃げてるから、家出を繰り返したり、何度も手首を切ったりするんでしょうが」
「手首って」比奈は慌てて両腕を背中に隠した。見られていないとばかり思っていたが、やはり見られてたのか。だから、一緒に風呂へ入るのは嫌だって言ったのに……。比奈は頬を膨らませた。
「自分が逃げてる現実すらわかってない。それは現実を見ようとしないからよ。嫌なことは見まい、聞くまい、話すまい。そして逃げる」
そうかもしれない……と比奈は思った。だけどどうしたら良いのかわからなかった。今、このおばさんに見捨てられたら、同じことを繰り返すだけだ……。絶望的な目で、比奈は克代を見た。
「話してごらん。何があったのか話してごらん」
暫く躊躇った末に、比奈は渋々ながら話し始めた。
「もうお母さんは別れたんだけどね、お父さんて言う人が暴力を振るう人だったの。ドメスティックバイオレンスッちゅうヤツ。普段は優しいんだけどね、一旦怒ると、蹴るわ殴るわ髪の毛引っ掴んで引きずりまわすわで、そりゃあ酷かったんだよ。挙句の果てに皿が宙を飛ぶからね。それで多分、お母さんは怯えて人の顔色ばっかり見るようになったんだと思う。だけどね、それからっていうものはあたしにまで怯えてオドオドするんだ。お母さんのそういう態度があたしは堪んないんだよ。オドオド、オドオドしてあたしの顔色ばかり見てる。そおゆう態度を見てるとネ、イライラしてあたしまで暴力を振るいそうになるの。何しろあたしには、あの父親の血が流れてるんだからね。怖いんだよ」
「お父さまは亡くなったんじゃないの?」
比奈は、エ!という顔で克代を見た。
「お父さまは亡くなったって、言ってたじゃないの」
「そうだよ死んだよ。散々暴力振るって、人に迷惑をかけた揚句に死んだ」克代の目を避けて比奈は答えた。
「じゃあ、お母さまは随分と辛い思いをなさったのね」
比奈はもう何も答えられなかった。
「人を大切にしない人に友達なんか出来る筈がない。 ましてや自分を育ててくれた親を大切に出来ない人なんて、誰も相手になんかしてくれないと私は思う。私だって嫌だわ。
もし一緒に暮らしてよ、或る日突然、あんたが黙って私から逃げて行ったら、私がどれだけ心配するか……。どれだけ辛い思いをするか……」
「おばさんからは逃げないよ!絶対に逃げないって約束する」
「親から逃げて、心配かけても平気な人を信用出来るかしら?」
「わかったよ。連絡すれば良いんでしょお母さんに!」
「ねえ、なんて書いたら良い?」手紙を書き始めた比奈が、ボールペンで頭を突っつきながら克代に聞いた。
「だから先ず元気でいること、そして、途中で出会ったおばさんと二人で、丘野徳次さんというお爺さんの家にお世話になっていますとね。元気でいますから心配しないでください、って。そんなもんで良いんじゃないの。ちゃんと住所と電話番号を書いてね」
「だけどさ、住所まで書いたらお母さんがやってきて、連れて帰るって言うんじゃないの。そしたらどうする?」
「その時はお家へ帰りなさい」
「帰ったらきっと、あたしはまた飛び出すよ。元の木阿弥だよ」
「それじゃ、その時は私がお母さまに話してあげる」
「ホントだね」そう念を押すと、比奈は安心したのか手紙を書き始めた。
考えてみると新聞にあんな広告まで出して、明良も心配しているだろうし、行方不明のままでは、気の毒にあの女の人の籍も入れられない違いない。そこで、克代も明良に手紙を書き、離婚届に署名するのですぐに送って欲しいと徳次の住所を書き加えた。
手紙を書いた後、克代はちょっと横になると言って、そのままぐっすり眠りこんでしまい、昼飯だよと比奈が声をかけ、肩を揺すっても起きる気配はなかった。
「可哀そうに……。よんど追い詰められてたに違えねえだ。御主人の生きとったんがわかったで安心したんじゃろ。このまま寝かせてやりゃあ良いずら」何処か具合が悪いのではないかと心配する比奈に、徳次は言った。
克代が寝ているので、徳次と比奈は梅干しとおかかを入れた握り飯とみそ汁で昼食を済ませた。
これまで誰かと一緒に居て、気を使わないことなんか比奈には無かった。沈黙が生じれば何か言わねばと焦り、喋れば喋ったで、あんなこと言わなければ良かったと後で気に病むのだった。けれども克代と一緒に居ると、何も気にせずに喋ることが出来た。それは徳次も同じで、黙っていても気持ちが通じ合えているような気がして心が安らいだ。
「蜜柑を取りに行くけんど一緒に行くか?」徳次が聞き、比奈は黙って頷いた。
比奈は徳次の後について山を登り、蜜柑畑に着くと、「黄色くなったヤツだけを取るだよ。青いのはまんだお陽さまを欲しがってるでね」徳次はそう言って、比奈に鋏を渡した。充分に熟した蜜柑を選んで摘み取る単純な作業に、比奈は次第に没頭していった。
数十分が過ぎ、徳次がふと見ると、比奈の居る辺りだけに薄灰色の靄がかかっていて、靄の中で比奈はとても小さく、今にも消えてしまいそうに見えた。不思議に思った徳次が近づくと、異常なほどの冷気が漂っている。空には燦々と太陽が輝き汗ばむほどの暖かさなのに、比奈の周りの空気だけがまるで氷の海のような冷たさなのだ。
「比奈ちゃん」徳次は比奈を驚かさないように静かに声をかけた。
振り返った比奈の大きな目には涙があった。
「少し休むか?疲れたべ」徳次の言葉に比奈はニッコリと微笑んだ。途端に靄が揺らめき冷気がゆっくりと消えていった。
「ねえおじさん」比奈が木の陰から出て来て聞いた。「おじさんは此処で一人で暮らしていて寂しくはないの?」
「そうさなあ……」徳次は石垣に腰を下ろし、ポケットから煙草を取り出した。
「あたし、友達が居ないの……。中学の時もそうだし小学校の時もそうだった。グル―プを作って研究とか調査なんかをする時に、誰もあたしを誘ってくれない。いつも一人ぼっちなんだ。何でかな?」比奈は徳次の隣に腰を下ろし独り言のように言った。
「そうさなあ……」徳次は煙草に火をつけ、細い煙がゆっくりと煙草から立ち昇ってゆくさまを見つめながら言った。「そん時ゃまだ、本当の友達に出会ってなかったんだな、きっと」
「あたしはねえ…、皆に嫌われてるんだと思う。だけどさ、好かれるように努力はしたんだよ。嫌われないように、人と意見が違っても違うとは言わず、自分では白だと思っても皆が青だと言えば一緒になって青だと言い、いつも気を使ってた。だけど、どんなに気を使ったって、結局、仲良くしてくれる人は誰も居ない」
「そりゃ駄目だ。そんなのは迎合って言うだよ。そんなにまでして友達なんか作るこたあねえだ」
「そんなこと言うけどね、おじさん!人間には友達が必要なんだよ。一人じゃ生きていけないんだからね。だから友達を作って人との絆を大切にすることが大事なんだよ」比奈は徳次を諭すように言った。
「誰が言っただ、そんなこと」
「誰だってそう言ってるよ。絆が一番大事だって」
「そりゃ間違えだ。自分を正直にさらけ出せば自然と友達は出来る。人に迎合し、自分を偽って友達を作ったところで、そんなんは絆でもなんでもねえ。そんな無理して友達を作っても、そんな友達は必要な時にゃ居なくなる」
「だからさ、おじさんは此処で一人で暮らしていて寂しくないの?」
「寂しいと思う時が無えわけじゃねえ……。けどもよ、この生活がオラには性にあってんだべな。何かを守ろうとしたら、捨てねばなんねえもんもある」煙をふーっと吐き出した後、煙草の火を消すと、徳次は吸殻を携帯用の灰皿に入れた。
翌日もぐっすりと眠り続けた克代は、その次の日の朝、誰よりも早く起きて朝ごはんの支度に取りかかった。
大根を刻むリズミカルな音に続いて、みそ汁の匂いが家中を満たす。
「こんな贅沢に慣れちまうと、この先、寂しさが身に堪えるかもしんねえな」目を擦りながら起きて来た比奈を見て徳次が言った。
「なに?」克代が二人を見る。
「なんでもねえ……。ところで、速達で出したんだから、そろそろ手紙が着く頃じゃねえかや?」誰にともなく徳次が言った。
「あんたさ、スマホの電源、入ってんの?」突然、克代が比奈に聞いた。
電源を入れれば母からの電話やメールが煩わしいからと、スマホの電源を切っていた比奈であったが、克代に言われて渋々電源を入れた。途端に着信音が鳴り響く。
まるで生れて始めてその音を聞いたかのように、ビクッとして見つめている比奈の手からスマホを取りあげ、電話に出る克代。
「いいえ、私はただ比奈ちゃんをお預りしている者で……、はい、比奈ちゃんはとても元気で」スマホを渡そうとする克代に、比奈は激しく手を振って拒絶する。
今ちょっと手が離せなくて……と、克代はしどろもどろに言い訳しながらも、徳次の家までの道筋と最寄駅を教えると、駅まで迎えに行くので伊東線に乗りかえたら連絡するようにと告げて、電話を切った。
午後に入ると、一人の男性が徳次の家を訪ねて来た。
「こちらに、蓮杖社長の奥様はいらっしゃるでしょうか?」そう呼びかける声に、比奈が玄関に飛び出していった。続いて出て来た徳次に、男は名刺を渡しながら、「私はこういう者でございますが、蓮杖社長の……」
「石黒さんていうの?」徳次の手から名刺を引ったくって比奈が訊いた。
「はい。あの……、奥様は?」
「ちょっと待って」そう言うなり、比奈は奥に駆け込んだ。
「おばさん、石黒さんっていう人が来たよ」木と紙の家だから、比奈の声は玄関に筒抜けである。石黒は恐縮した態で、「お世話になりまして申しわけございません」と徳次に頭を下げた。
「いや……、何……、どうも……」徳次がもそもそと言いかけたとき、克代が出て来た。
「まあ石黒さん、どうして?」
「御無事で……」石黒はホッとしたように笑顔になり、「社長が、実は今日、例の契約が三時からありまして。それで、それが終りましたらすぐ駆けつられるそうですが……。とりあえずは私が」と前口上を述べた後、「社長から奥様が吃驚なさらぬようにと先ずお知らせをして、と申し使っておるのですが、実は」
「実はって、……死んだの?」克代は恐る恐る訊いた。克代の後ろで、徳次も比奈も身を乗り出した。
「そんな! 滅相もございません」石黒は胸の前で大仰に手を振り、否定した。
「じゃ何!」
「ちょっとお怪我を。実はですね、躓いて転ばれて、ガラスのテーブルに額を打ち付けられたとかで」
「転んだ? 転んだって言ったの!主人が?」
「はい。転ばれたとかで」
「それで貴方が発見したの?」
「いえ。社長が御自分で救急車を呼ばれて」
「それじゃあ、意識はあったのか……」
「申しわけありません。私は詳しくは……」
「そう。ガラスのテーブルでね……」克代は考え込むように首を傾げた。
「はい。ガラスのテーブルだそうで」石黒が繰返す。
「ガラスのテーブル……か」克代が何度も頷いた。
上がってお茶でも、と勧める克代に、石黒は「後で社長と一緒に参りますが、取り急ぎお知らせまで」と断った。そして、克代から携帯電話を落したと聞いた石黒は、比奈のスマホに石黒自身の電話番号とアドレスを入力して早々に帰って行った。
石黒が帰るとすぐに、比奈の母から「たった今、伊東線に乗りました」との連絡が入った。
克代は比奈にスマホを借りて、すぐに石黒にメールを打ち、主人のアドレスがわからないので、このメールを至急主人に転送するように頼んだ。
内容は〈今日はこれから大事な来客があります。近日中に必ず連絡しますので、今日のところはいらっしゃるのは不要です。お身体を大事にしてください〉とした。余計なことを書いて、石黒に読まれるのも嫌だったし、それは主人に迷惑をかけないための配慮でもあった。相手の裏切りが原因とはいえ、同じ土俵で争いたくはなかった。それが、せめてもの克代の意地であった。