六 故郷の蜜柑山
そんなやり取りの後、結局、克代は比奈を連れて取り敢えずは故郷を目差して出発することにした。そこが駄目なら他の方法を考えれば良い。
二人は何度も電車を乗り換えて目的の地に向った。最後に乗った列車は、トンネルを抜けて幾つもの山々を越え、広々とした海辺にでると、そのまま海辺に沿って走り、やがて、克代の故郷の村の駅に着いた。駅は山の中腹にありホームからは広い海原が見渡せた。駅の背後は山である。
「あの海から日が昇るの。ここからじゃなんだけどね、浜から日の出をみると、そりゃあ雄大でねえ……。それにしても、此処だけは昔のまんまだわ」克代は辺りを見回しながら感慨に耽った。
時代から取り残されたような鄙びた小さな駅には、駅員の姿もなかった。
「ふん。ここなら安心だね」比奈は辺りを見回して一丁前に頷いた。
駅を出ると、克代は急な斜面をズンズンと登って行く。
所々に家は建っているものの辺り一帯はほとんどが蜜柑畑で、山の斜面を石垣で区切った小さな畑に植えられた木々には蜜柑が鈴なりになっていた。まだ緑色のものが多かったが、中には緑から黄色に変わりつつあるものや黄色く色付いたものもあった。
降りそそぐ午後の陽で、晩秋というのに上着を脱いでも汗ばむほど暖かい。
うねうねと続く細い一本道を、克代は迷うことなく登ってゆき、やがて、古びた一軒の家の前で〈丘野徳治〉という表札を見付けて安堵した。そうだ、徳次さんと言う名だった。
「良かった。生きてるみたい」比奈を振り返ってそう告げる。ところが、声をかけても中から返事は無い。
「留守なんじゃないの?」そう言いながら隣に来た比奈が、「ごめん下さい」とさらに大きな声を張り上げたが、やはり返事は無い。
克代は諦めて近くの石垣に腰を下ろした。
あたりはシーンと静まり返っている。
「御免ください。誰か居ませんか?」比奈が再び声をかけ、玄関の硝子戸を強く揺すった。それでも中から返事は無く、代りにカラスが不吉な声でカーと鳴いた。
比奈も諦めて克代の隣に腰を下ろした。
克代は小さな声で唄を歌っていた。「はるかに見える青い海、お船が遠くかすんでる」
何故だか……、比奈の心が懐かしさでいっぱいになった。
「何て歌?」
「『蜜柑の花咲く丘』かな……。此処で暮らしていた時が一番幸せだったような気がするわ……」克代は歌うのを止め、話し始めた。
返事でもするように、カラスがまたカーと鳴いた。
「徳次さんっていうんだけどね。私より三つか四つ年上。私はいつも徳次さんの後ばかり追いかけていた……。一人っ子だったからね、徳次さんのこと、お兄さんのように思っていたんだろうな。徳次さんも私のことを妹のように可愛がってくれて……。
戦争が終わって数年が経った頃の話。テレビや車は勿論、冷蔵庫も無い、洗濯機も無い、何にも無い時代だったけれど、あの頃はほんとうに楽しかった……、ような気がする」
克代がそのまま黙ってしまったので、比奈は克代の傍にリュックを置くと、付近の散策に出かけた。たわわに実った蜜柑の一つ一つを撫でたり、匂いを嗅いだりしていると、突然咳払いが聞こえた。
振り返ると、葱や青菜などの野菜の入った籠を小脇に抱えた老夫が立っていた。
「黄色いんが甘いよ。早生だでね」怖い顔の割に、老夫の声は優しい。
「とくちゃん?」老夫の声に気がついた克代が遠慮がちに声をかけた。
老夫は不審げに克代を見つめた。
「私よ。克代」
「克ちゃんけ!」老夫が素っ頓狂な声をあげた。
老夫は、克代の従兄弟の徳次であった。
「そうよ。昔、このすぐ上に住んでいた分家の克代」克代は斜面の上を指さした。
「克ちゃんけ? あの泣き虫の克ちゃんけ!」老夫は顔をくしゃくしゃに崩して言った。
「そうよ。泣き虫でチビの克ちゃんよ」
「ほりゃ、まあ……」
言葉に詰まって二人は見つめあった。
「ほりゃあ、まあ……」
しかし驚きが去ると、何十年かの長い空白は一瞬にして埋められたようで、徳次は何度も何度も頷くと、比奈に目をやった。
「お孫さんかいね?」
克代が言い淀んだ瞬間、比奈が答えた。
「姪です。一之瀬比奈です」
比奈がお辞儀をすると、老夫は「ほうかい、ほうかい」と何度も頷き、「克ちゃんのこんまい頃によう似とるなぁ」と言った。
比奈はクスリと笑ったが、克代は徳次の胸元をただ見つめていた。どうやって話を切りだしたらいいのか考えていたのである。
「栗がある。それから茸もようけあるで、栗飯と茸鍋じゃどうかな?それとも、茸は天ぷらにすっか。若え人は油っこい方が」
「茸鍋、食べたい!あたし、食べたこと無いもん」徳次の言葉を遮って比奈が叫んだ。
「よし決りだ。じゃ早く入って火を起こさにゃ。山の夜は冷えるでね。布団も出して風呂も沸かさにゃなんねえ。こりゃボヤボヤしちゃらんねえぞ。飯は克ちゃんに任せっからな。姉ちゃはおらを手伝ってくれろや」徳次は、二人が泊まるものと決め込んで一気に喋った。
克代は徳次の心遣いが有難かった。そして、食事の支度とはいえ、何よりもやることの出来たことが有難かった。何かをしている間は、少なくとも血に染まった主人の顔を忘れることが出来る。
「徳ちゃん、私、主人を殺したの」食事が済んだ後、克代が打ち明けた。
恐らく徳次は自首を勧めるだろう。この家を追い出されるかもしれない。そう覚悟した上で切りだした克代であった。しかし徳次は顔色一つ変えずに、「ふん」と頷いたきりだった。
「徳ちゃん、私は人を殺したのよ!」克代はそう念を押し、これまでの経緯をかいつまんで徳次に話した。「それでも、自首しろとか言わないの?」
「克ちゃんがそうしたきゃすれば良いずら。少なくとも精神的には楽になる」
「ヤダ!自首なんかしちゃダメ!」二人のやり取りを聞いていた比奈が叫んだ。
「そりゃ、克ちゃんが決めるこった」徳次が思慮深げに言った。
「ヤダ!おばさんが自首したら、あたしはまた、独りぼっちになっちゃう!」比奈の声には涙が混じっていた。克代も涙ぐみ比奈の頭を撫でた。
「此処に居るならいつまで居たって良いべ。此処は安全だ。誰も来ねえ」
そう言った後で徳次は、子供たちは全員が東京へ出て行き、妻は五年前に亡くなったから今は一人で暮らしているのだとつけ加えた。
「それに此処なら金がかからねえ。蜜柑やキウイを売れば金は入るし、オラには年金もある。ただし、いずれにしても姉チャにゃ此処は無理だ。けんど、今夜は風呂さ入ってゆっくり眠るこっちゃ。考えるんはそっからでも良いずら」
翌朝、克代が目を覚ましたとき、家の中に二人の姿は見えなかった。
二人が出かけたのに気づかなかったとすれば、少しは眠ったのだろうか……。
家を飛び出してからというもの、朱に染まった主人の顔が目の前にチラついて、とても眠ることなど出来ない克代であった。しかし、徳次に話を聞いてもらい、自首する決意を固めたことで、心が軽くなって少しは眠れたのかもしれない。
自首をすると言えば比奈は怒るだろうが、だいたいが、いつまでも比奈を手元に置いておくわけにはいかない。一日も早く母親と話し合わせて、解決の道を探らなければならなかった。克代は人生を終る前に、何か少しは人の役に立つことをしたいと思った。このまま死ぬのではあまりにも情けない。
布団を畳み、顔を洗っていると二人が帰ってきた。
「おばさん、新聞買ってきたよ。それからパンも」帰るや否や比奈は克代の傍に飛んできて、幾種類かの新聞とスーパーの袋を手渡した。
自首すると覚悟を決めた以上、新聞は必要ないかもしれないが、それでも、比奈の問題を解決するまでは幾許かの時間的余裕が欲しかった。それに、明良の死がどのように報じられているかも知りたかった。
克代は注意深く新聞を調べた。だが、最初の新聞には蓮杖明良の死についての記事は見当たらない。あれから四日も経つというのにどういうことだろう……?
袋を開けるガサガサという音に克代が顔をあげると、隣で、比奈が袋を破いて菓子パンを取りだしている。傍には、既に空になった袋が二枚。
「あんた! そんなに食べて大丈夫なの!」克代は思わず大きな声を出した。
「大丈夫だよ」比奈はニコリともせずパンを齧りながら、それでも、一生懸命に新聞を調べていた。
「だって、また吐いたらどうすんのよ!」
「大丈夫だってば!昨日だっていっぱい食べたじゃん」
そうだった。比奈は昨日も栗ごはんを三杯もお代わりして、克代を吃驚させたのだった。
「これ…、なんだべ?」そのとき、徳次が訝しげな声を出した。
「どれどれ」
徳次が差出した新聞を見ると、訪ね人の欄に小さく『克代、済まなかった。私は元気だ。連絡を乞う。明良』と載っていた。
既に調べた新聞をもう一度調べ直してみると、その新聞の訪ね人の欄にも同じような文面が載っていた。これまで訪ね人の蘭など見ようともしなかったのだ。さらに、比奈が調べていた新聞にも同じ文面が載っていた。明良は全国紙の全ての訪ね人の蘭に、この報せを載せたのに違いなかった。ということは……?
「この明良ってのが、克ちゃんの旦那じゃないかい?」
「そうかもしれない…」けれども、まだ半信半疑だった。血に染まった明良の顔が目の前に蘇る。もしかしたら誰かの罠かもしれない。明良の死体を見つけた誰かが、私をおびき出そうとして……克代が不安に満ちた声を漏らすと、そんな事情があるんけと、徳次は眉をひそめた。
「けんどよ、旦那は生きてんだよ。『私は元気だ』ってここに書いてあるじゃねえか」
「おばさん、良かったね」比奈は涙ぐんでいる。
「まだわかんないわ」そう言いながらも、克代の心には希望が生じて、目の前の、血に染まった明良の顔が元気な笑顔へと変ってゆく。
「じゃ、電話してみれば」比奈がスマホを取りだす。
「待って、ちょっと待って!」そう言いながらも、今度は、罠をかける人間など居る筈が無いと思い直し、恐れが少しずつ薄らいで自然に笑みが浮かぶ。
「今泣いたカラスがもう笑ろた」徳次が拍子を取りながら茶化す。
小さい頃によく聞いた歌だった。
克代は徳次を打つ真似をしながら笑った。笑い始めると、今度は腹の底から次々と笑いがこみ上げてきて止まらなくなった。
「今? 今泣いたカラス?」比奈が徳次を見る。
「今泣いたカラスがもう笑ろた」徳次が笑いながら繰返した。比奈が一緒になって歌う。
恐れ慄いていたあの四日間は何だったのだろう…、笑う克代の目から涙があふれ、次々と頬を伝って落ちた。
「あー、なんだかお腹がすいちゃったわ。私の分ある?」涙をぬぐって克代が言った。
「もッちろん!」比奈は菓子パンと飲み物をあるだけテーブルの上に広げた。
「うわ、いっぱい買ってきたね」
克代がパンを袋から取り出し、大きな口を開けて思いっきり頬ばるのを、徳次はニコニコしながら見ていた。
比奈は黙って部屋を出た。