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袖振りあうも... 前編  作者: 月のひまわり
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五  袖振りあうも

 バスが終点の私鉄駅前に着き、突き刺すような冷たい風が降りた克代と比奈を襲った。「さて」閑散とした駅前広場を見回し、克代が比奈に聞いた。「あなたが人間ならば、あなたのお家はどこですか?」

「家には帰りたくない」

「そんなこと言ったって……。お家の人が心配してるでしょうに」

「帰りたくないんだよ」

 実際、比奈は帰りたくなかった。帰ったところで辛い日々が変るわけではない。

「困ったわね」そう言って溜息をついたものの、行く宛てが無いのは克代とて同じだった。袖振りあうも多生の縁か……。「それじゃあ兎も角、今夜はこの町に泊まろうか……」

 克代がそう言った途端に比奈の顔が輝いた。「あたし、良いとこ知ってるよ!」

「まさか!」やはり、この子は狐か狸かそれとも……。

「お母さんと一緒に泊まったんだ」

 あの時、待ち合わせの場所で長いこと比奈は葵を待った。でも、葵は来なかった……。

 迎えに来た母と泊まった宿は、確か……、駅からそう遠くはなかった。

 比奈は克代の腕をしっかり掴んで歩き出した。しっかり捕まえていないと、また独りぼっちになりそうだった。


 旅館に着くと主導権は克代に移った。この子が人間ならば、何よりも先ず身を清めなければならない。部屋に通されるや否や克代は嫌がる比奈を引きずるようにして風呂場へ向かった。

 ところが比奈は脱衣場に入ると片隅に身を寄せ、両腕で胸を抱いて服を脱ごうとしない。

「早くしなさいよ!」問答無用とばかりに、克代は比奈の衣服を剥ぎとり、浴室へと追いたてた。

 比奈だってお風呂、特に温泉は大好きだ。だけど、誰かと一緒には入りたくないのだ。腕に傷があるから。何度も手首を切って、それでも死にきれずに残った醜い傷跡。誰にも見られたくない。比奈は克代が入ってくる前に、急いで湯船に飛びこみ首まで湯に浸かった。

 後から入ってきた克代はそんな比奈には目もくれず、抱えてきた二人分の下着をせっせと洗い始めた。一心不乱に洗っている克代を見て、比奈の気持ちも段々と解きほぐされてきた。湯はまろやかで疲れた身体に心地好く、大きな湯船にゆったり身体を伸ばしていると、全てのことが夢の中の出来事のように思える。

「はい、いらっしゃい」ふいに比奈の頭に声が降ってきた。克代が洗濯を終り、次の獲物はお前だとばかりに比奈を見ていた。

「あたしはいいよ」比奈は拒絶し、湯船の淵にしがみついたが、体格の良い克代に痩せっぽちの比奈が敵う筈も無く、たちまちのうちに比奈は湯船から引き上げられ、バシャっと頭から湯をかけられた。

「よく洗わないと、あんな所で変な霊にでも取り憑かれてたら大変でしょ!」

「洗えば落ちるの?」

「どうだか…。でも洗わないよりはましでしょ!」そう言いながら克代は、比奈の髪の毛から足の先までを、丁寧に洗いあげてゆく。最初は嫌がって抵抗していたが、強引なそのやり方がむしろ心地好く、いつしか比奈は全身を克代に委ねていた。

「はい、終わり」克代がピタンと比奈の背中を叩く。

 その瞬間、比奈は全身に血がドクドクと流れ始めるのを感じた。勢いよく流れる血はエネルギーそのものだった。そして、生きる意欲そのもののようだった。風呂から上がると比奈は克代の真似をして、糊のきいた浴衣をパンっと広げ、手を通した。

「イジメ?」唐突に克代が聞いた。

「え?」比奈は何を言われたのかわからず、ポカンと克代を見た。

「誰かに……、イジメられてるんじゃないの?」

「イジメられては…いない」虐められているなんて、認めたくもないし口が裂けても言いたくはない。

「じゃなんで?」克代はなおも聞く。

 なんて無神経な人だろう……。しかも想像力の欠片も無い。子供が悩んでいると知ればすぐにイジメかと問う。どうして大人は皆こうも画一的なんだろう……。世の中にはもっと辛いことだってあるんだよ。

 幸せな気分に浸っていた処に冷や水を浴びせかけられたようで、比奈は唇を噛んだ。

「じゃ、なんで死のうとしたのよ?」克代はしつこく迫ってくる。

「イジメならまだ良いよ。人として、間違いなくそこに存在しているあかしだからね。しかもイジメならば、国も学校も皆が応援して庇ってくれる。だけど、私の場合はね、存在すら認めてもらえないんだよ。お早うと、声をかけようとしただけで顔を背けられてしまう。誰も私と話そうとはしないし仲間もいない。私を必要とする人も居ないし、もっと言えば、この世から私が消えて無くなっても気付く人すら居ない」

「イジメなら良いって。よくそんなことが言えるね」

「だってそうじゃん。イジメなら皆がわかってくれるし、理解してくれるじゃないか」

「イジメられる人の辛さを、あんたは想像することも出来ないんだね。それは、自分のことしか考えていないからよ。あんたは自分のことしか見えないのよ」

「ほっといてよ!」そう叫んで、比奈は風呂場を飛び出した。


 本館への渡り廊下に差し掛かると冷たい風が、浴衣一枚の比奈を襲った。

 冷たい風は『あのおばさんと別れればまた独りぼっちだよ』と囁く。あたしと別れれば、あのおばさんだって独りぼっちだよ、比奈は心の中で風に言い返す。それに旅館代は私が払っているんだ、もう少し気を使ってくれたって罰は当らないんじゃないか。

「ほら、行くよ」後から来た克代が比奈の肩を抱いた。


 部屋に戻ると、既に夕食の支度が整っていた。

 その匂いで、比奈は口の中に酸っぱいものがこみ上げてきて口を押さえた。

「先に食べてて頂戴」そんな比奈に気づきもせず、そう言うと克代は洗濯した物を干し始めた。

 食べなければまた何か言われそうで比奈は目の前の食べ物を物色した。もうあれこれ聞かれるのは嫌だし、なんだかんだと言い訳するのも嫌だった。『自分しか見えない』と、そう言われたところでどうしたら良いのかわからない。

 取り敢えず、目の前の食べ物の中から無難そうな煮物を選んで口に運ぼうとした途端に比奈は猛烈な吐き気に襲われ、口を押さえて洗面所に急いだ。

「どしたの!」干しかけの洗濯物を放り出し、洗面所に飛んできた克代は、ゲ―ゲ―苦しげに吐いている比奈に寄りそい、背中を撫でた。

「ごめんね、もしかして湯あたりした?それとも何処か悪いの?樹海でね、あんな勢いで走っていたから元気だとばかり思っていたけど……。気がつかないでごめんね。お医者さん呼ぼうか?」不安なのだろう、比奈の背を擦りながらひっきりなしに克代は喋る。

「拒食症」比奈は答えた。吐き気はもう治まっていた。

「可哀そうに……。よほど辛いんだねえ……」克代は比奈の背を撫で続けた。


 翌朝、比奈が目が覚ますと克代は新聞を読んでいた。

「おはようございます」比奈の声に気付かないほど克代は新聞に集中している。

「何読んでんの?」比奈は克代の肩を揺すった。

「あ、お早う」

「お目覚めですか?」そのとき、声と共に宿の女性が大きな朝食用のお盆を持って入ってきた。

「他の新聞はありませんか?」克代が訊ねる。

「生憎とそれだけで」済まなそうに女性は答えながら、テーブルに朝食を並べ始めた。

 小さなコンロの上で湯豆腐がやわらかな湯気をたて、鯵の干物に海苔、梅干しが次々に並べられる。それを見ていた比奈のお腹がグーッと鳴った。

「食べられそう?」

「うん、美味しそう!お腹が空くなんて久しぶりだよ」

「ぐっすり眠ったのが良かったのかしらね」

「えー!寝てないよ。なかなか眠れなくてさ……。やっと明け方近くにウトウトしただけだよ」

「うそ! グ―グ―イビキかいて寝てたわよ」

 克代の言葉に、今度は比奈が「ウソ!」と言った。

 比奈は一睡もしていないと思っていた。

 布団に入って目を瞑ると、木の枝にぶら下がった男の姿が見え、次いで別の男が現われて怖ろしい目で比奈を睨みつけ『人殺し』と叫ぶ。その声にいつしか女の声が混じって『人殺し、人殺し、人殺しの娘』という言葉が、一晩中頭の中を飛び交っていたのだ。比奈にしてみればとても眠るどころではなかった。

「これ位なら食べられそう?」朝食を運んできた女性が去ると、克代は比奈の顔色を見ながらご飯をよそった。

 比奈は恐る恐るご飯を口に運んだ。白米の甘い香りが口いっぱいに広がる。ご飯ってこんなに美味しかったのかと涙が出そうになりながらもう一口。甘い!

「良く噛んでね」比奈を見詰める克代が思わず声をかける。

 比奈は頷き、今度はご飯の上にちぎった干物を乗せ、焼海苔を巻いて口に入れる。小さい頃に母がよくこうしてくれたと思い出しながら。

 比奈が何事も無く食べているのを確認すると、克代は新聞に目を戻した。

「おばさん、新聞読みたいんならスマホで読めば」

「あんた、スマホ持ってるの?」

「あたりまえじゃン。新聞、何が良い?」

「朝、毎、読ってとこかな」

「ってどこ?って言うより何の記事?」比奈はスマホで朝日新聞を呼び出しながら聞いた。

「三面記事かしら」

「三面記事ッて何?」画面を繰りながら比奈が訊く。

「もう新聞出てんの?」

「出てるよ」

「ちょっと見せて」克代はスマホを受取って暫く操作していたが、やっぱりスマホじゃわかんないわねと呟いて返し、「ところであんた、昨日、仲間がいないとか言ってたけど?」と訊ねた。

「うん。仲間って言うか……、友達ね」

「友達なんか居なくたって、別に良いじゃないの」

「おばさん! 人間はね、一人じゃ生きられないんだよ。人との絆が一番大事なんだよ。仲間や友達がいない人間なんて、生きている価値が無いんだよ」

「違う! あんたはなんか勘違いしてる。あんたの言う友達って何? 一緒に遊んだり、ご飯食べたりするのだけが友達ってわけじゃない。真の友達は……、真の友達っていうのはね」口をキッと結んで天を仰いだ克代の、その眼には溢れそうなほど涙が溜っていた。

 見てはいけないものを見てしまったような気がして、比奈は慌てて目を逸らした。


 旅館を出た二人は駅へ向った。駅に着くと克代は比奈に、新聞の全国紙を全部買ってくるように頼み、ベンチに座って待った。

 比奈が新聞を抱えて戻ってくると、克代は左手から指輪を引きぬき、比奈に渡しながら言った。「有難う。随分世話になっちゃったわね。この指輪は売れば何十万かにはなるから、せめてこれを受取って」

「おばさん、まさか、あたしに一人で帰れって、言うんじゃないだろうね」

「御免ね。事情があってね、送って行ってあげられないのよ」

「私は帰らないよ」

「駄目よ。お母さまやお父様がどれだけ心配なさっているか……」

「おばさん!」克代の言葉を無視して、比奈は克代の顔をじっと見つめた。「おばさんは人を殺したんじゃないの」

 克代は比奈を見詰めたままその場に凍りついた。

「やっぱりね」比奈は納得したように頷いた。「さっきサ、交番の前を通り過ぎる時、私の腕をギュ-ッと掴んでたでしょ。あれは緊張している証拠。それに新聞。今朝だって旅館で新聞、新聞って騒いでたし、だいたいね、殺人を犯して逃げてる人は新聞とかテレビを気にすんだよ。ドラマじゃそうだよ」

 克代は思わず辺りを窺った。通勤時間を過ぎた駅は閑散としていたが、誰かに聞かれて良い話ではなかった。

「大丈夫だよ。誰にも言わないから。だからね、私も一緒に連れてって。袖振りあうもって言うじゃん」

「多生の縁……か、良く知ってたわねそんなこと」

「旅は道連れ世は情け、なんてのもあるしね」

「でもあんた、怖くないの?私が殺人犯と知って、それでも怖くないの?」

「おばさんからは恐怖を感じない。それどころかおばさんこそ、あたしを理解してくれるたった一人の人に思えるんだ」

「私は貴女を理解出来るかどうかわからないし……、それにご両親がどんなにか心配してらっしゃるでしょうに」

「お父さんは死んだ。お父さんが死んでからお母さんは変った。あたしが邪魔になったんだと思う」

「それは……」克代は言葉を失った。克代にしてもこの先逃げ続けるのに、少女が傍にいてくれればどんなに心強いことか。けれども、自分の都合でこの少女を巻添えにするわけにはいかない。

「帰る家があるならば、帰らなければいけないわ」克代は心を鬼にして言った。

「帰ったら元の木阿弥だよ」

「元の木阿弥って?」

「だから、今、帰ったってまた家を飛び出すしか無いんだってば。あたしだってもう、こんなことを繰り返すのは嫌なんだよ。変りたいんだよ。お願い!あたしも一緒に連れてって」比奈の眼には必死な思いが溢れていた。

「じゃあね、ちゃんとお母さまを説得するって約束して」

「する! するする」小指を立てて振り、勢いよく言った後、比奈は克代の顔を見た。「ところでおばさん、行く宛てはあんの?」

「宛てっていうか……、故郷の村に行ってみようかと」

「駄目だよ!足がついちゃうよ。殺人犯は必ず故郷に帰るってのが定石だからね」

「大丈夫だと思う。七才のときに郷里を出てから一度も戻ったことがないし、母は東京で新戸籍を作ったから、私と故郷の村を結び付けるものは何もない」

「ふーん。じゃ、お金はどうすんの?」

「働くわよ」

「だけどさ、働けるようになるまでだってお金が必要でしょ」

「そうなのよ……」実際、当座のお金をどうしようかと克代は悩んでいた。故郷の村へ辿りつくまでの交通費だって無い。

「交通費はこれね」比奈はリックのポケットからスイカを取りだして克代に渡し、「あたし思うんだけどね、うちの母にお金、持って来させたらどうかな……」と提案した。

「な、なんていうことを!」

「だって、それしか方法は無いよ」

「駄目!それだけは駄目!」

「だからさ、この指輪を渡せば良いじゃん。さもなきゃこれをネットで売る?」

「それこそ足がつくじゃないの!」



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