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袖振りあうも... 前編  作者: 月のひまわり
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四  佐野奈緒美の場合

 女の名は佐野奈緒美という。

 中学二年の時、母が亡くなって奈緒美は祖母に引き取られた。

 祖母の住むマンションは繁華街に近い住宅地にあり、十階の祖母の部屋から見る東京の夜は遠くまで煌めく灯りに満ちていた。祖母の部屋もまた、夜を知らないようにいつも眩しいほどに明るかった。

 勿体ないからと、奈緒美が電気を消して回ると祖母は怒った。祖母が支払う一カ月分の電気代は、それまでの奈緒美達親子の一月分の食費にも相当した。

「帰ってきた時に真っ暗だと恐ろしいのよ」祖母は言った。やっと御化けが怖くなくなった中学生の奈緒美は、祖母はまだ御化けを怖がるのかと吃驚して祖母の顔を見つめた。


 若い頃、祖母の絹ゑは芸者であった。

「夕方になれば玄関先は打ち水で黒く光り、塩が盛られるんだよ。陽が落ちると高級車が黒板塀に横付けされ、綺麗に化粧した何人もの芸者衆が盛塩をした玄関に吸い込まれてゆくの」祖母の話す昔の思い出は優雅な絵物語であった。

 絹ゑは二十の時に身請けされ、すぐに男の子を、そして三年後に女の子を産んだ。

 女の子が奈緒美の母である。絹ゑを見受けしたのは政界の重鎮と言われた男で、祖母の話では、白を黒と言っても通る程の大物政治家だったという。男の子は匡、女の子は静香と名付けられた。

 匡は父親の才能を受け継いだのか非常に頭が良く、名門中の名門といわれる学校に入り、小学校から中学校を通して常に一、二位の成績を争っていたという。

「それがね、匡が中学二年の時に旦那さまが亡くなってしまって……。それからよ、何もかもがおかしくなったのは。そして匡が中学三年の時、あの子は首を括って死んだ。

 あたしは匡の友達にいろいろ聞いて回ったわ。匡に何があったのかって。そしたらあたしの所為だって言うじゃないの。あたしが二流の芸者だからって。だから匡は二流の子って苛められるようになったんだって。自殺の原因はそれだろうって……、人は言うの」絹ゑは袂で瞼を抑えた。

 絹ゑの話は奈緒美の想像の範囲を超えていた。妾の子だから虐められる、というのならまだ何とか理解は出来る。だけど、芸者に一流二流があるなんて。しかも、それがイジメの原因になるなんて。

「お妾さんだからじゃなくて?」

「なんで妾が苛めの原因になるの!」絹ゑは柳眉を逆立て奈緒美を見据えた。「あの学校にはね、妾腹の子なんかいっぱい居たのよ。珍しくもなんともない。大体がついこの間まで、この国じゃ妾を持つのは男の甲斐性、とか言って、政治家や大金持ちの間では二号を囲うのは当たり前のことされたんです。中には二号はおろか三号四号まで囲うツワモノだって居た位だもの。それに正妻さんていうのはほとんどが良家のお譲さまで何も出来ない。だから、妾の中には本妻よりも絶大な権力を握っていた人だって少なくなかったんだから」

 絹ゑの話は奈緒美に強いショックを与えた。

 母の影響で、奈緒美は男女とは平等であり、夫婦は一夫一婦制が当然で、男性が妾を持つなんてことは許されないと考えていたからだ。妾を持つなんて恥ずべきことで、もし、妾を持つならば、それはあくまでも内密にされなければならない。それなのに本妻より強い権力を握る妾がいるなんて、とても信じられないことだった。もし、絹ゑが言うように、妾が社会的に立場を認められているならば、何故、匡は蔑まれたのか…。

「あたしが槇町の芸者だからだって。槇町芸者は二流だって言うの」

「エ!槇町って日本橋でしょ!東京駅の真ん前でしょ!」奈緒美は目を剥いた。日本橋、それも東京駅の真ん前と言えば日本の中心と言っても過言ではない。

 第二次世界大戦の前、東京駅前の、今は八重洲と呼ばれる一角に黒板塀がズラリと並ぶ料亭街があった。そこが日本橋槇町である。その日本橋槇町の芸者を槇町芸者と言うのだと、絹ゑは語った。「あたし達は品格だって芸だって、誰にも劣りゃしない! だけどね、柳橋や赤坂なんかが一流で、槇町は二流だって言うのよ。それで匡は二流の子って言われたんだわ。プライドの高い子でね、いつだって人より上に立っていた子だから、人から蔑まれることが耐えられなかったのかもしれない……」滅多に涙を見せない絹ゑが、その時だけは目を真っ赤にした。


 絹ゑの両親は関東大震災で倒れた建物の下敷きになって死んだ。まだ幼かった絹ゑは叔父を手伝って握り飯を作り、惨状生々しい被災地でそれを売って糊口を凌いだと言う。以来、絹ゑは生きる為に働き続けた。

 やがて芸者になり、政界の大物に身請けされた時に、絹ゑはやっと人並みに幸せを手に入れることが出来たのだった。けれどもその幸せは長くは続かなかった。旦那様が亡くなり、匡が死んで、その上戦争がどんどん激しくなり、東京大空襲で焼け出されて再び無一文になった。

 旦那さまが亡くなった時に一緒に死んでしまえば良かったと、絹ゑは臍を噛んだ。

 けれども絹ゑには守るべき子供が居た。泣いてなどいられなかった。

 空襲に襲われ、全てを失った焼跡の町で立ち上った絹ゑは、進駐軍の兵隊から闇物資を手に入れては売りさばいて資金を貯め、やがて銀座にバーを開いた。

 この子の為にと頑張って働き続けたのに、子供は大学を卒業すると、夜の商売で贅沢に暮らす絹ゑの生き方を批判するようになった。

「お母さんは二言目にはあんたの為、あんたの為と言うけれど、違うわ。お母さんは自分の為に働いているのよ。何かと言えばあれは二流だ三流だと人をランク付けし、人に見下されないように精一杯着飾って。お母さんは虚飾の為に生きている」

 何も無い時代には生きること自体が大変だった。必死に頑張って子供を育てて、それを今さら生き方がどうのこうのと言われた処で、どう生きれば良かったのかと反論すら出来ず、絹ゑは出て行く静香を見送るしかなかった。

〈行かないで!〉喉元まで出かかった言葉を呑みこむと、その代りに「出て行くんなら二度とうちの敷居は跨ぐな」という言葉が勝手に口を突いて出た。

 そんな母を冷たい目で見つめ、静香は去った。

 長い年月が過ぎ、やっと静香のことを諦めかけた時に奈緒美が目の前に現われたのだった。


 奈緒美を引き取ってから頑張りの糸が切れたのか、絹ゑは急激に弱まって商売を続けられなくなった。収入が無くなっても派手な生活は改められず、店を売って得た大金は瞬く間に使い果して僅かな貯金も底をつき、学費はおろか生活費にも事欠いて奈緒美は学校を辞めた。高校三年の秋であった。

 絹ゑを連れて小さなアパートに移り、奈緒美は小料理屋に働きに出た。

 ある夜、絹ゑの様子がおかしいと店に連絡が入った時、居合わせたのが蓮杖明良だった。




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