三 蓮杖克代の場合
はるか遠い昔のことのように思える。
しかし、知らない女からの手紙が届いたのは一昨日の午後だった。
手紙には一枚の写真が同封されていた。七才のお祝いだろうか、髷に花の簪を挿し、唇にチョンと紅をつけた可愛らしい女の子を真ん中に、知らない女と主人が笑顔で写っていた。幸せの見本のような一枚の写真。
そして手紙には、『間もなく子供が小学校にあがります。私が日陰の身では子供が不憫でなりません。一日も早く明良さんと離婚してくださいますよう奥様にお願い致します。』と書いてあった。
寝耳に水だった。
主人に女が居るなんて……、想像したことも無かった。
その夜、帰ってきた主人に手紙のことを話した。
私は主人が否定すると信じて疑わなかった。それは友人の子で俺は関係ないとか、そんなことを言うに違いないと思っていた。
それでも……。
たとえそれが真実だとしても、ただ一言、嘘だと言ってくれればそれで良かった。その時は黙って別れてあげようと思った。
けれども主人は、女との仲を簡単に認めて謝った。両手をついて、絨毯に頭を擦りつけて主人は謝ったのだ。
私の中で何かが切れたのはその瞬間だった。
傍にあったガラスの大きな灰皿を、私は掴んだ。
主人が顔をあげた。
灰皿は主人の額を直撃し、パッと血が飛び散って主人の顔が真っ赤になった。と同時に、主人はその場に倒れた。
後は無我夢中だった。
気がつくと私はハンドバッグを手にして電車に乗っていた。ハンドバッグの中には昼間出かけた時のまま、財布も携帯電話もカードも眼鏡も全部入っていた。当座は困らないだろう。私は誰か友達に助けてもらおうと思った。幸い、携帯電話は持っている。
ところがいざ携帯を取り出してみると、誰に電話をかけて良いのかわからなかった。
友達はいた。食事に行くにも、ゴルフに行くにも、買い物に行くにも、電話をすればすぐに相手は見つかった。友達は大勢いた。
けれども、こんなときに電話をかけられるような友は、私には一人もいなかった。
一人っ子の私には頼るべき兄弟も無く、両親はすでに他界していた。
いつでも困った時に相談してきたのは主人一人だった。その主人を、私は殺した。
朱に染まった主人の顔が目の前に広がり、私は、自分も死ぬべきだと思った。
電車が新宿駅に着いた。人の流れに身を任せて電車を降り、地下道を歩いていると大きなポスターが目に飛び込んできた。何処か遠い国の、透き通るような青い海、波が断崖絶壁にぶつかって白い泡を立てている。
ド、ドーっと波の音が聞えてくるようだった。
そうだ!海へ行こう。
断崖絶壁に打ち寄せる波。私は日本海を想った。
目的が出来た。
私は何軒もの薬屋をハシゴして多量の薬を手に入れ、それからウインドブレーカーとズボンと運動靴を買って、ビジネスホテルに泊まった。
主人と一緒になったのは二十五才の時だった。
結婚式も挙げず、区役所に届けを出しただけの結婚だった。
二人の夢は一日も早く自分たちの店を出すことだった。
朝早くからパンを焼き、サンドイッチやホットドッグを作ると車に積んで、午前中は住宅街の公園、それからオフィス街で、車を屋台にして店を開いた。
その頃から弁当屋が人気の商売となり、子供を幼稚園に送った後、昼食用に弁当を買う若い母親達が増えていた。その流れに乗って私達の移動屋台にも客がつき、店を開けば何でも売れた。
資金が少しばかり貯まった頃、日本橋の小さな店が売りに出された。昔からの煎餅屋だったが、老いた主人が癌になり後継者も無く店を続けることが出来なくなって、売却を決心したのだと聞いた。場所は良かったが、あまりにも狭くてなかなか買い手がつかず、比較的安価で私たちは手に入れることが出来たのだった。
ラッキーだった。
朝は出勤前の客の朝食、昼はオフィスへの出前、夜は得意客への持ち帰り用の総菜も作った。総菜は、共働きの女性達に人気があって注文が多かった。
朝から晩まで私達は一生懸命に働いた。
休みの日はいろいろな店を食べ歩いてメニューの研究をした。安かろう不味かろうの店にだけはしたくなかった。
暫くして、お姑さんと一緒に暮らすようになった。
店の仕事に加えて、脳卒中で右半身が麻痺したお姑さんの世話はハッキリ言って大変だった。お姑さんは昔のことは覚えていても、新しいことは記憶に残らないらしかった。食事が済んで、後片付けが終った時には食事をしたこと自体を忘れている。だから、お姑さんは『嫁は私にご飯を食べさせてくれない』と誰彼お構いなしに訴えていた。
その癖、私のことは『ネエヤ』と呼んだ。
「この人は僕のお嫁さんで克代って言うんだよ」主人がそう言い聞かせると、お姑さんはニコニコとして頷く。
けれども、私のことを呼ぶ時は頑として『ネエヤ』と呼んでいた。
「結婚式を挙げなかったからかな……」主人は困惑顔でそう言ったが、私は気にしないことにした。その姑が亡くなった時、主人は私の手を握り締め、「僕は、君より一日でも長く生きる。そして、君の最期を看取ってから僕は死ぬ」と言った。
私たちには子供が居ないからだ。
その主人を私は殺した。この手で。
眠れないままの一夜が明けると、眩いばかりの太陽が町を照らしていた。
太陽に面しているビルの窓ガラスはキラキラと輝いているのに、陰になる部分は暗く沈んでいて、それは荒い波をたてる冬の海の断崖絶壁を思わせた。
会計を済ませてホテルを出ると、私はタクシーに乗った。
「どちらまで?」
「日本海へ」
「へ!」運転手が目を丸くした。
「お金はあるわよ」
私は朝、キャッシュカードで引き出した金を運転手に見せた。途端に運転手は笑顔に、そして饒舌になった。「それでは日本海へ。水仙にはまだまだ早いですが越前岬か、富山の親不知子知らず、それとも東尋坊ってのはいかがですか」
「東尋坊ね……」私は荒れる日本海の断崖絶壁を頭に描いた。
「永平寺に寄るって手もありますね」その後も運転手は、幾つもの日本海の名所についてペラペラと喋り始めた。私はタクシーに乗ったことを後悔した。主人の死体が見つかれば、テレビはすぐにそのことを取り上げるだろう。この運転手は、私が犯人を日本海まで乗せたのだと、この調子で喋りまくるに違いない。
「悪いけど、行く先を東京駅に変えて」私は運転手に告げた。
「日本海はどうするので?」運転手が残念そうに言った。
「新幹線で行くことにするわ」
捕まりたくなかった。捕まって、刑事になんだかんだと聞かれたくなかった。
警察はきっと、私を捕まえに東尋坊へ行くだろう。北陸の海辺を虱潰しに探すに違いない。東京駅も危険だった。私は再び新宿駅に戻った。
私が逮捕されれば、それはテレビや週刊誌で大きく報道され、知人達が私について、さもいろいろ知っているかのようにしたり顔で喋る様子が目に浮かぶ。
嫌だ!それだけは絶対に嫌だった。
私は誰にも知られずに、ひっそりと居なくなりたかった。
北陸とはかけ離れた処へ行かなければならない。
だけど……、何処へ。
新宿駅の雑踏をうろついていると、間もなく韮崎、甲府方面行きの中央線が出るというアナウンスが耳に入った。私は迷うことなくその列車に飛び乗った。
車窓から富士の雄大な姿を見て、私は何かに導かれるように電車を降り、バスに乗り替え、そして、樹海の中を彷徨ってやっと居場所を見つけたのだった。
此処なら誰にも見つからず、人生を終わらせることが出来るだろう……。
ところがホッとしたのも束の間で、落ち着いた途端に、どうしようもないほどの虚しい気持ちが私を襲った。
夢を描いて一生懸命に働いて、やっと夢が現実になった途端にこのざまだ。
私は何のために生きてきたのだろう。
一緒に夢を見てきた人は、最後の段階になって他に生き甲斐を見つけ、私から去って行った。
夢が無くても子のある人はまだ良い。子が生きた証であり、親から去って行こうが行くまいが、子供の中には間違いなくその人自身が存在する。けれども私は一人ぼっちだった。頼る人も頼りにしてくれる人もおらず、恐らくは誰の心にも私の存在すら残らない。
眠りに導いてくれるであろう沢山の錠剤を、この期に及んで私はただ見つめるだけだった。吞もうとはするが、このまま終わるにはあまりにも情けなかった。
もし誰か…、たった一人で良いから、この世に私のこと気にかけてくれる人が居るならば……。
唐突に、生まれ故郷の蜜柑畑が目に浮かんだ。
あれはもう半世紀以上も昔のことだ。
故郷には、兄と慕っていた従兄弟がいた。私が苛められて泣いていると、いつも庇ってくれた従兄弟。なんという名前だったか……。
それにしても此処は異様に冷える。私はハンドバッグの中からスカーフを探しだし、広げようとした瞬間に一陣の風が吹いてスカーフが舞い上がった。私はスカーフを手繰り寄せ、身体に巻いた。せめて身体だけは暖かくしたい。凍えているのは心だけで十分だ。
突然、けたたましい叫び声が辺りに響き渡った。顔をあげると、恐怖で大きく目を見開いた少女が私の後方を見上げていた。つられて後ろを振り返ると茶色のスーツがぶら下がっていた。ハッとして見直すと、それは松の枝にぶら下がっている男の死体であった。
後は無我夢中だった。
ただひたすら走り、やっと樹海の外に出てホッとした瞬間、目の前に少女が居た。少女は私に水のペットボトルを差出していた。
水を受取ろうとして私は少女の顔を見た。黒く憂いを含んだ大きな瞳、青みがかった白眼は清らかに澄んでいる。けれども頬は痩せこけ、骨にただ皮膚が張り付いているだけに見える。とてもこの世のものとは思えなかった。私は木の枝にぶら下がっていた死体を思い出した。
この少女もまた樹海の中で命を失い、その御霊が私を追いかけて来たのに違いない。私は逃げようとしたが動けなかった。腰が抜けたのだ。腰から下が地面に貼りついたように動かない。
ええい、ままよ、あとは野となれ山となれだ、どうせ死のうと思った身じゃないか。覚悟を決めて私はこの世の者とは思えない少女が差出す水を呑んだ。不思議なことに、その水を呑んだ途端に力が蘇ってきた。私はペットボトルを少女に返して歩き始めた。兎に角、こんな所に長居はしたくない。
バスに乗ると、少女は私に体を預けてぐっすり眠り込んだ。この少女にも何らかの理由があったのだろうが、こうして私について来るところを見ると、この世に何らかの未練があるに違いない。
そのあどけない寝顔を見ていると、何とかしてこの少女を助けてあげたかった。しかも少女は乾ききった私に水を与え、バス停まで私を導き、おまけにバス代まで恵んでくれたのだ。とは言え、少女をこのまま人間の社会に連れて行って良いものかどうか…。
〈何を綺麗ごとを!〉悩む私を別の私が叱咤した。私は一人では何も出来ない。死のうとしても死にきれず、自首する覚悟を決めた次の瞬間には、無事に逃げきることを考える。幽霊であろうが無かろうが、助けて貰いたいのは私の方じゃないか。
そう気がついた瞬間に現実が見えて来た。少女は決して幽霊などではなく、私と同じように死のうと思って死に切れず、今なお生死の境の彷徨っているのだと理解したのだった。
であるならば、一刻も早く少女を親の下に送り届けなければならない。だが、私は逃亡者の身だ。そんな私に何が出来ようか……。
それにしても主人は今どうなっているのか……
毎朝八時前には、運転手の立花が主人を迎えに来る。立花が既に主人を見つけて、警察に届けているに違いない。曲り形なりにも、国内に百数十店舗の飲食店を経営し、冷凍食品の開発や販売を手掛ける蓮杖ホールディングスの社長が殺されたのである。ニュースで取り上げない筈はなかった。
克代の脳裏に一枚の写真が浮んだ。子供を真ん中に明良と、そして微笑んでいる女。