十 ガダルカナル戦
翌日、克代は徳次に比奈を預けて出かけた。先ず、浜辺に近いアパートの部屋を借りて戸籍を移し、年金受取りの手続きをして、さらに町の中央にあるスーパーマーケットに行ってアルバイトで雇ってもらうことを決めた。この地方独特ののんびりした仕事ぶりに、たったこれだけのことにほぼ一日を使ってしまったことに克代はイライラしながらも、これで生活の心配は無くなり、徳次から借りたお金も返せる目途がついてホッとしたのだった。
それから僅かばかり残ったお金で、克代は比奈の為に数冊のドリルを買った。
さらにその翌日、鍋釜食器そして布団などを取り敢えず徳次から借りてアパートに運び、ストーブと炬燵を買って克代達はアパートに引っ越し、その次の日に克代はもう働きに出かけた。
徳次は約束通り、克代が出勤する時間に比奈をアパートに迎えに行き、山の家に連れて帰った。車の中で徳次は比奈に何か言葉をかけてやりたかったが、何を喋って良いかわからず、結局は黙ったまま運転して、着いた後も二人は黙々と蜜柑畑に向った。そして、摘んだ蜜柑が幾つかの籠にいっぱいになると集荷場に運んだ。
「食べても良い?」始めて比奈が口をきいた。
徳次は返事の代りに、甘そうな蜜柑を数個選んで比奈に渡した。
比奈は集荷場の外の石垣に腰をかけ、蜜柑を一房、口に含んだ。「あまーい!」
徳次は皺だらけの顔に笑みを浮かべて比奈の隣に腰をおろし、ポケットから煙草を取りだして、それを手に持ったまま火もつけずに海を眺めた。陽光にキラキラと輝く海は穏やかで美しく、徳次の唇からいつの間にか歌がこぼれ出た。
「蜜柑の花が咲いている。思い出の道、丘の道」昔々、克代と二人で海を見ながら唄った歌だった。驚いたことに途中から比奈が一緒に歌いだした。「はるかに見える青い海、お船が遠くかすんでる」
「よう知ってんな……」徳次が感嘆して言った。
「うん。あれは五歳ぐらいの時かな……」独り言のように比奈が喋り始めた。「まだ小学校に入る前だった。お父さんとお母さんと一緒にどっかに旅行に行ったとき、遠くに海が見えて蜜柑がいっぱいなってた。よぉく覚えてる。此処に最初に来たとき、なんかすごく懐かしい気がしたんだけど、その所為だったんだね」
「ほーかい」徳次はゆっくりと煙草に火をつけた。
「あの頃のお父さんは優しかった……」比奈の目から一筋の涙が糸を引いた。「お父さんはずーっとずっと優しかった。それが或る日、突然変った。出世してから、まるで人が違ったみたいに変っちゃったんだ。おまけに、お父さんの所為で自殺した人がいて、あたしは人殺しの子と呼ばれるようになった」比奈の目から涙がこぼれて落ちた。
徳次はズボンのポケットを探ったがハンカチが入っていなかった。
それではと、首に巻いたタオルを外してはみたものの、それはひどく汚れていて、こんなタオルを比奈に渡して良いものかどうか徳次が悩んでいると、両手でグイと涙をぬぐった比奈が、徳次の手からそのタオルを奪い、手と顔を拭いてから徳次の首に返した。
「明日からは綺麗なタオルを持って来にゃなんねえべな」徳次がボソッと呟くと、比奈は歯を見せて笑った。
克代が働きに出てから三日間は晴れた。ところが四日目の朝、徳次が起きると雨がしとしとと降っていた。雨が降ったからといってスーパーは休めない。蜜柑も摘めないし、農作業も出来ない。となると、さて、どうやって比奈と二人で時間を潰したらよいもんか……。徳次一人なら静かに本を読むところだが、今時の若者は何をしたいものやらさっぱり見当もつかなかった。
待てよ。あの子が今の時代に馴染めずにいるんだとしたら、案外、昔の物に興味を持つかもしれねえ。歌だって、古い蜜柑の歌を知ってたし、時代に迎合せず、俺は俺のやり方でいけば良いか……。
徳次は本棚から本を二、三冊抜き取って、克代達の住むアパートへ向った。
本を持って徳次が部屋に入ると、克代が数冊のドリルをテーブルの上に置いて言った。
「比奈ちゃん、これ、買っておいたから。そろそろお勉強しなきゃね」
「エー!」途端に比奈は抗議の声を発した。
比奈は此処で克代と一緒に暮らしてゆくつもりだった。東京にも学校にも戻る気などさらさら無い。なんで今さら勉強なんかしなきゃならないのかと、比奈は非難を込めて克代を見た。
「あたし、受験なんかしないんだよ。何のために勉強なんかすんだよ」
「じゃああんた、何かやりたいことがあるの?」克代にそう聞かれて、比奈は答えられなかった。
「勉強ってのは、人間の基礎を作るものだと私は思う。一生勉強しているうちにやりたいことが見えてくる。何しろ、人間ってのは、考える藁だからね」
「藁?」比奈にそう問い質されて克代は首を傾げて徳次を見た。
「藁よね?藁じゃなかったっけ?」
「葦じゃねえか。パスカルが言ったヤツなら考える葦だ」
「ああそうそう。葦よ葦。だから人間は考えなくちゃ駄目なの。考えるためには勉強するのが一番」
「そんなことより、あたしの就職はいつ決んだよ?」
「それよ!あんたは高校も出てないし、思うような就職先が見つからないのよ」
「おばさんと一緒のスーパーだって良いじゃん」
「兎も角、もうちょっと待って頂戴。その間にこのドリルやってて。徳ちゃんに教わってさ」
「エー!」今度は徳次が目を剥いた。「無茶言うもんじゃねえ」
「兎も角さ、何もしなけりゃ人間はバカになっちゃうんだからね。ちゃんとやんなさいよ。じゃあ、徳ちゃん頼むわね」克代は一方的にそう捲し立てると、さっさと出かけて行った。
「なんちゅうことを……」徳次は茫然として克代を見送った。オラにどうしろというのだ。大学にも行かず、農業一筋で生きて来たこのオラに、難しい勉強を教えろというのか。
「今さら勉強なんかしたってしようがないよね?」比奈が徳次に同意を求めた。
「でもなあ、算数ぐれえは要るんじゃねえか……」徳次は自信無げに答えた。
比奈は何の脈絡もなく五ケタの数字を三つほどあげて、「はい。合計で幾つになるでしょうか?」と、徳次の顔を見た。
徳次は答えた。その解答が合っているのかどうか比奈にはわからなかった。徳次を困らせるために出鱈目な数字をただ並べただけなのだ。ところが徳次は答えた。今日は雨かと聞いたのに対して、雨だよとでも言うように当然のように答えたのだ。嘘だと思った。計算機もスマホも無いのに……。正解なんかわかる筈が無い。
比奈は、改めて五ケタの数字を四つ言った。数字をメモし、スマホで計算したうえでそれを問題にしたのである。徳次の答えた数字は、スマホの画面に示された数字と全く一緒であった。
「えー!」抗議ではなく、今度は感嘆の声だった。
じゃあね、と今度は数をもっと増やして出題した。それにも徳次は瞬く間に正確な数字を答えた。
「わあ!」比奈は手を打って喜んだ。「スッゴイ手品!」
「手品じゃねえだ。頭の中に算盤を置くだ」
「そろばん?」
「知らねえんかい?」
「聞いたことがあるような気もするけど……、ネ、あたしにも出来るかなその手品」
「誰にでも出来るよ。二足す二は?」
「四」
「十一足す三十六は?」
「四十七」
「ね、誰にでも出来るさ。数を増やしていけば良いだけずら。ただね、数が増えて難しくなると皆、そこでやめちまう。こんなの計算機でやれば簡単だとか言って。けんど、止めねえってことが上達のコツなんだ。皆が諦めても、決して止めねえで努力を続ける」
「止めないで努力を続けるってことが、自分を磨くってこと?」
比奈の問いに徳次は少し考え、それから「そうだ」と頷いた。
「それじゃその算盤てヤツ、あたしに教えてくれる?」
「良いよ、飯サ食ったら算盤サ取りに行くか。けんど、その前にちょっくらドリルとやらを片づけっちまおうな」
「エー!」
「エじゃねえべ」
国語のドリルを開いたまま、さっきから比奈は握った鉛筆をじっと見つめていた。
柱に寄りかかって本を読みながら、徳次は時折り横目でそれを確認する。この子は何を考えているのだろうかと。
「ねえおじさん」比奈が鉛筆を見詰めながら口を開いた。「樹海の中にね、七色の光が降り注いでいる場所があるって言うんだよ。その光の中に飛び込めば、一瞬にして遥か天空の楽園に旅立てるんだって」
「その光っちゅうのは、どんなだね?」
「あたしも見たことは無いんだけど、天空の遥か遠くまで光りが続いてると思うんだよね」
「ガダルカナルって知ってっか?」突然、徳次が比奈に聞いた。
「なに?ジャニーズかなんか?」
「ジャニーズったらなんだべ?」
「やだねえ歌手だよ」
「昔、日本は戦争をした。第二次世界大戦だ。発端は日本がハワイの真珠湾を攻撃し、戦艦八隻を撃沈した。けれども日を追うに従って日本軍は苦戦を強いられるようになった。ガダルカナルとは太平洋の南西、ソロモン諸島の南端にある島だ。このガダルカナル島に送られた兵士の一人が、二万人以上の戦死者を出したという激戦の中を生き残り、やっとのことで日本に帰りついてこの村に住みついた。その兵士から聞いた話だ」
比奈は鉛筆を置き、正座して徳次の口元を見詰めた。
「ソロモン海戦に破れた日本軍はガダルカナルを死守すべく頑張っていたが、物資の不足やマラリアの感染、とりわけ食糧不足による餓死者の続出で苦戦を強いられていた。そんな時、米軍が総攻撃を仕掛けてきたそうだ」
「ヒューン!」徳次の語り口が変った。
「弾が耳元を掠めていく。すぐ近くで砲弾が炸裂し仲間が空中に吹き飛んだ。砲弾が炸裂する度に、多くの兵隊たちがバタバタと倒れていく。一生懸命に応戦していたが、いつ意識を失ったのか、私が気が付いたときには辺りは静かになっていた。既に太陽は沈みかけ、夕闇の中に倒れてビクともしない夥しい数の兵達の姿。何気なく顔に手をやるとヌルっとした血の感触があり、起き上ろうとしたが立てなかった。ズボンが裂けて血が流れ出ている。もはやこれまでと私は覚悟を決めた。
辺りを見回すと死体の一つから青白い炎がぼーと抜けだした。それは一つばかりでなく、あっちの死体からもこっちの死体からも青白い炎が抜けだし、ゆっくりと上方に漂っていたかと思うと、やがて空中で一つに纏まり、眩いばかりの巨大な光となって天高く昇っていった。七色に輝くその光りは、それはそれは荘厳で美しかった」
語り終っても、徳次はそのまま目を閉じていた。
「おじさん」
「ン?」比奈が徳次の膝を揺すると、徳次は目を開けた。
「やっぱり、七色の光りはあるんだね」
「この村でその兵士が亡くなった時、オラは七色の光を見た。その兵士が見たのと同じかどうかはわからねえが、七色の光が遥か天空を目指して昇ってゆくのを見ただ。ただ、その光を見たのは三人ほどで他の人達にゃ見えなかったようだがな」
「見える人と見えない人がいるっていうこと?」
「そうかもしれねえ」
「どうしたら見えるんだろう…?」
「霊媒の婆さんは、その兵士がオラに何かを伝えたかったんだと言っとった」
「何を?」
「何だかなあ……」徳次は首を傾げ、もし、あの兵士がオラに何かを伝えたかったのだとしたら、それは何だったのだろうと改めて考えた。




