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袖振りあうも... 前編  作者: 月のひまわり
1/13

一  光は何処に

『樹海の中にたった一か所にだけ、七色の光が降り注ぐ場所がある。その場所に立ち、光

の中に飛び込めば一瞬にして遥か天空の楽園に旅立つことが出来る』

 比奈がネットの中でそんな書き込みを見つけたのは、前年の暮も押し詰まった頃だった。

 歩き始めた頃にはまだ明るかった。

 頭上からの陽光が木々を透かして光と影を描きだし、緑色の葉っぱたちは舞うがごとくに光の中に煌めいていた。だが、陽が傾き始めた今はもう、全てが色を失って暗く沈んでいる。

 むき出しの溶岩に大きく根を張った木々。そのウネウネと地を這う木の根の上に倒木が重なり合って、至るところで比奈の行く手を阻んでいた。身体中の筋肉が、〈もう歩けない…〉と抗議するかのように痛みを発し、一歩進むごとに足はガクガク、息がボーボーと耳の中で響く。その上、見渡す限り同じような木々の重なりが果てしなく続き、霞んだ目には来た道も行く道の区別すらつかなくなっていた。

 もう何時間、この中を歩き回っているだろう…。疲れ果て、倒れる寸前だった比奈の目の端で、赤が、黄色が、オレンジ色が翻った。探し求めていた天空からの光りかと、比奈はたちどころに勢いを取り戻し、歓喜が湧き立つ血液となって体中を駆け巡った。

 ところが目を凝らしてよく見ると、それは比奈が探し求めていた光りなんかではなく、単なるスカーフにすぎなかった。何処かのおばさんがスカーフを広げようとして、それが風で翻ったのだ。

 ガッカリしてその場にくずおれそうになった比奈を、次に襲ったのは驚いたことに失意ではなく喜びだった。

 人が居る! 生きてる人が居るんだ、この樹海に!

 比奈はフラフラとおばさんの方へ歩き始めた。そこは、周囲に比べれば比較的樹木が少なく、スカーフを肩に羽織ったおばさんは、地面のなだらかな所に座って手にした小瓶を見詰めていた。

 その時、おばさんの後方に靴がふわりと浮かんでいるのが見えた。

 靴の上の方には茶色のズボンが見え、それからダラリと下がった手が見えた。

 そして、その上の方には……。

「キャー」比奈の口からけたたましい叫び声が飛び出した。

 おばさんは私を見て、それから後ろを振り返った。

「ンゲェ―」地面を揺るがすような悲鳴と共に、想像を絶するスピードでおばさんは地べたを這ってきて立ち竦んでいる比奈の足首を掴んだ。その瞬間、氷のような恐怖が比奈を貫き、気がつくと比奈はおばさんの手を振り払って走りだしていた。

 おばさんが追って来る。

 背中に迫るおばさんの荒々しい息遣い。

 比奈はさらにスピードをあげて走った。とはいえ、地表を這う巨大な木の根や倒木の残骸には、びっしりと苔が生えていて滑りやすく、しかも、むき出しになった溶岩はそこかしこで段差を作り、とても容易に走れるような状況ではない。

 比奈が木の根につまづいて身体を泳がせている間に、おばさんが比奈を追いこしてゆく。

 負けるもんか!

 比奈は素早く体勢をたて直し、さらにスピードをあげて走り、おばさんが滑って転んでいるすきに追いこした。

 そうやって、二人で先を争いながら走っていた時に、突然、何者かが比奈の背中を掴んだ。

 宙に浮いた比奈は悲鳴をあげ、手足をバタつかせた。

 比奈の方を振り返ったおばさんはほんの一瞬ためらい、それから戻って来て、木の枝に引っかかった比奈のリュックを外した。けれども、比奈がリュックを背負い直して前を見た時には、おばさんは既に数メートル先を走っていた。

 慌てて走りだした比奈は、すぐにまた溶岩の凹みに足を取られて転び、したたか肩を打って呻いた。やっとのことで顔をあげると、掴んだ木の枝が折れたのか、おばさんがもんどり打って倒れるところだった。


 転んでは立ち上がり、立ち上がってはまた転び、先になったり後になったりしながらどれ位走っただろうか……。

 突然、空がひらけた。

 遊歩道に出たのだ。

 太陽は傾き始め、薄赤く染まった空を鳥が飛んでゆく。

 ホッとしたのかおばさんはその場に倒れこんだ。肩が大きく揺れ、ゼイゼイと荒い息遣いが聞こえる。

 年は六十歳くらいか。否、もっといってるのかもしれない。

 比奈はリュックからペットボトルを取り出しておばさんに差し出した。

 おばさんはペットボトルを見て、それから比奈を見た。

 その時初めて比奈に気が付いたかのように、おばさんは身体を震わせ、座ったまま後ずさった。恐らく、残照の中で比奈を幽霊か何かだと思ったのだろう、恐怖に見開いたおばさんの眼が比奈の心に鋭く突き刺さった。

 この人もか……、見知らぬおばさんに対して奇妙な連帯感を抱き始めていた比奈は、ガックリと首を垂れた。人がせっかく親切に水をあげようと思ったのに……。良いよ。別に要らないんなら良いんだよ。無理に飲んでくれとは言わないよ。そう思った比奈がペットボトルを引っ込めようとしたその瞬間、おばさんはものも言わずにペットボトルを引ったくり、上から横から斜めからペットボトルを見つめ、それからほんの少しだけを口に含んだ。

「水……だね?」

「水じゃ悪い?」

「いや、狐のおしっことか……。そんなことないか。ま、いいや、どうせ死のうと思った身だし……」

 ぶつぶつ言いながら、おばさんはペットボトルに口をつけると一気に飲み干した。

 あっという間も無かった。一口くらい残してくれても良いのに……。恨めしげに空のペットボトルを見詰め、比奈は口中の唾を集めて飲みこんだ。

 水を呑んで少しは元気になったのか、おばさんは空になったペットボトルを比奈に返してヨロヨロと歩き始めた。

「そっちは樹海」比奈は言った。

おばさんはビクッとして立ち止った。

「そっちへ行くと、又、樹海に入っちゃうよ」

振返り、疑い深そうな目で見ているおばさんに、比奈は「バス停ならこっちだよ」と自分の後方を指差し、自分自身も向きを変えて歩き始めた。

 多分間違いない。この遊歩道を行けば必ず国道に出る。国道に出ればバスが走っている。

 比奈が歩き始めるとおばさんは黙ってついてきた。しかし、あくまでも比奈とは一定の距離を保ち、比奈が立ち止るとおばさんも止まる。

 そんな風にして歩いているうちに、突然おばさんが比奈を追い越して行った。先ほどとは打って変ったように歩き方もシャンとしている。前方に国道が見えてきたのだ。

 風に乗って車の警笛が微かに聞こえてくる。

 比奈は前を行くおばさんを眺めた。

 地味な黒のウインドブレーカーを着てはいるけど、所々が淡い栗色に染められた短い髪や、花の飾りのついた濃いピンク色の爪が、おばさんによく似合っていた。

 私とは違って、誰からも愛される華やかで楽しい人生を過ごしていた人なのだろう。

 それなのに何故、この人はこんな所に来たのだろうか……?

 それまで、つんのめるようにして先を急いで行ったおばさんが立ち止り、振返った。

 国道に出たのだ。

 比奈は黙ってバス停の方角を指差した。


 バス停に着いたとき、そこには誰もいなかった。

 崩れるようにベンチに座りこんだおばさんはそのまま動かなくなった。

 比奈はおばさんから少し離れて座るとスマホを取り出し、ブログを検索してみたが、やはり見つからなかった。そのブログが消去されてから随分と時が経っている。

 天空の楽園へと導いてくれる光はどこにあるのだろう……?

 この前来た時も、その前に来た時も、私は樹海に入ってすぐにパトロールのおじさんに掴まって連れ戻されてしまった。だから見つからなくても仕方がなかったが、今回はかなり長いこと歩き回ったのだ。それでも、救いの光を見つけることは出来なかった。

 七色の光が降り注ぐ場所なんか、本当に樹海の中にあるのだろうか……?

 そう思いながら比奈がため息と共に顔をあげた時、遠くにバスの灯りが見えた。


「来たよ」比奈はおばさんに声をかけた。

 おばさんが顔をあげた。

 バスが少しずつ近づいて来る。

「お財布!」突然おばさんが飛び上がって叫んだ。「バッグは!?バッグが無い!」

「あん中じゃない?」比奈は樹海の方を指差した。

 おばさんは茫然としてその方角を見つめた。

 比奈はリュックから財布を取り出すとおばさんに渡した。

 おばさんは少しの間ためらっていたが、バスが止まる寸前にひったくるように財布を取った。

 お金が無ければバスには乗れない。

 バスはそんなに混んではいなかったが、前方の席は塞がっていた。

 おばさんはよろけながら後ろへ進み、空いている席に座った。

 おばさんの迷惑そうな顔を無視して、比奈は当然のように隣に座った。何しろ、バス代は比奈が払うのだ。

 バスが走り始めるとおばさんは財布の中身を調べだした。

 中には小さく折りたたんだ一万円札が二枚、千円札が十数枚、それから硬貨が何個か入っている。

「どしたの?このお金」

「親にもらった」

「親がいるの!」吃驚したような声をあげ、おばさんは比奈を見つめた。

「いるに決まってるじゃん!」比奈は口を尖らした。

 探るような目つきでおばさんが比奈を上から下まで見る。

「ね、あんたもバス代要るの?」声を潜めておばさんが聞いた。

「え?」比奈の目が点になった。いくら痩せているとはいえ、私が幼児に見えるとでも言うのか……。

「っていうか、あんたの姿は他の人にも見えるのかしら?」

「おばさん!」比奈は決然として抗議した。「あたしは幽霊じゃないんだよ!」

「じゃ、なんであんな所に……?」

「おばさんと同じ」

 比奈がそう言うとおばさんはそのまま黙りこんでしまった。

 バスの振動は心地よく、しかもおばさんの身体はプヨプヨと暖かくて、比奈はいつの間にか眠りに引き込まれた。


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