どこに行っても厭な現実
前話の「ウィスキーの小瓶を抱えて」を少し修正しました。
誤字と、陽の光の表現を間違え、何だか珍妙な時間の経過を八雲が体験していたので。
一度、目覚めるときは明け方、お酒を飲んでいた二度目は午前中(小昼時)、川に着いたのが正午、そして今話で寝て目覚めたときは、一日経過した翌朝になります。
暗く落ちた意識の外から、何かで突いたような刺激を感じた。急速に意識が浮上する。そこにいる何かから危険を感じて、すぐに身体を起こした。
視界がはっきりとすると、空が暗く白んでいるのが分かった。明け方である。そして私を囲むように小さい人型の何かが錆び付いた直剣で突いているのが見えた。垢で黒ずんだ薄汚い緑色の肌と、ぎょろっと眼球の出た目。顔の大部分を占める大きな鉤鼻。大きく尖った耳と黄ばんだ乱杭歯の隙間から涎が垂れ、耳障りな悪声が耳をかき鳴らす。四投身をした人型の小人が三匹、私の周りを囲んでいた。見たことのない生物である。実際にも写真でも見たことはなかったが、どうにも見覚えのある姿だった。ゲームやアニメ、最近人気のネット小説にもよく出てくる、所謂ゴブリンと似た見た目をしていた。
私が飛び起きたことに驚いたのか、一歩後退り、暫定ゴブリンたちは、意味の通じない音とも取れない悪声を、まるで意思疎通をしているように、一定のリズムを持って発していた。三匹と集団行動をしている時点で、ある程度知能はあるだろうと考えたが、意思疎通が出来ているのだとするならば、小人だと油断は禁物かもしれない。
慎重にいかねばと考えながら、おもむろに目の前にいた小人に尖った木靴の爪先で蹴りを入れた。どうやら側頭部に上手く入ったようである。そのまま小川のあった岩の方まで飛んでいき、頭を打ち付け、青い血を擦りつけながら絶命した。サッカーボールを蹴るのも覚束なかった、私の黄金の右足が、頭蓋骨には有効であると知れた瞬間である。
私が動いたことによって暫定ゴブリンの二匹は、こちらを警戒するように、喉を鳴らしながら、不格好に直剣を構えた。ゴブリンの深く吐く息が、生臭く鼻に付く。眉を顰めつつ、後ろへ足を擦る。慎重に距離を取ると、ゴブリンはその分だけ前進して詰めてきた。それを少しだけ繰り返し、私が距離を取る素振りを見せると、また一歩踏み込んだ、その瞬間に私は二匹の内、一匹に狙いを定め走り出し、その不細工な顔目がけてドロップキックを見舞う。頸椎が折れる音を初めて聞いた。ものが壊れる音を聞いて、こう言った表現は不適切ではあるが、甘美な響きに思えた。
そしてそのままそのゴブリンが持っていた錆びた直剣を奪い取る。死後硬直前に取らないと、指の骨を折らねばならないから、速やかに実行した。奪った直剣は、錆びと血脂で、刃がぼろぼろになっていた。天然鋸である。これでは物を斬れないだろうし、斬られたとしても痛いだろう。
とりあえず、残ったゴブリンで試し斬りといこうではないか。仲間がやられたゴブリンは、鳴き声を上げながら、一心不乱と言うべき惨めさを背に表し、木々の中へ逃げていく。その背を追いかけ、ほどなくして斬り付け、青い血を飛び散らしながら、死んでいった。
持っていた直剣を思い切り振り、付着した青い血糊を散らし、綺麗にしたが錆びて赤茶けた直剣は、ものを斬るには不適切に見えた。それにしては、先ほどのゴブリンは上手く斬れたものだ。私は剣を使ったことははなかったが、上手くいって何よりである。もし、しくじっていたなら、私は一思いに殺されることはなかっただろう。ゴブリンと私の体格差が、それを物語っていたのだから。苦しんで死にたくはないのだから。安楽死が良いが、現代日本では認められておらず、それをするために英語を勉強し、渡米して戸籍を獲得するまでしなければならないのだから、そこまでの努力もしたくはないのだ。自分のことながら我儘なものである。
背中を袈裟懸けにしたゴブリンと、岩に叩き付けたゴブリンから、直剣を奪い取る。どれも等しく錆びて刃毀れしていた。しかし、これではっきりとした。私はどうやら別の世界に紛れ込んでしまったようである。部屋で眠っていた私が、森木の洞に放り込また。軟水国家であるはずの日本では、あまり見ない硬水が、それも腹を悪くするほどに高い硬度の硬水があることを、日本では聞いたことがない。そして、ファンタジーの類で聞いたことのあるゴブリンが、目の前で青い血を撒き散らしながら絶命したこと。
ここまでお膳立てされると否応がなく、私は異世界に紛れ込んでしまったのだと、理解出来てしまった。しかし異世界に来たことが分かったならば、もう未練もしがらみもなく、死ぬことが出来る。もう何をしなくても良いのだ。何に悩まされなくとも良いのだ。何も考えずとも良いのだ。
このままこの直剣を首に突き立て、掻っ切ってしまえば、血に溺れながら死ぬことになるだろう。眼球に突き立ててしまえば、そこから脳髄を侵し、えも知れぬ嫌悪感に身体をがくがくと痙攣させながら死ぬだろう。死んで、蛆や蠅が沸き、そのまま肉がどろりと溶けて、骨が風化してぼろぼろと崩れ去るだろう。もしくはハイエナやハゲタカのような、死肉を漁る動物が胃を満たすために、肉を噛み千切り、胃を食み、腸を引き千切るだろう。
もしかしたら、その感覚が死ねども伝わってくるかもしれないが、その後の苦しみは、私にはどうしようもないことであるから、死んでからのお楽しみにするしかない。
錆びた凶刃の切っ先を見つめる。心臓が高く打つ感覚と、対抗する生存本能に脳が痺れるように、チカチカと白む。このスリルをも超えた感覚に、酔い痴れる。その感覚に身を委ねながら、私はその刃を眼球から脳へ突き刺した。
…………
小鳥の囀る音に気が付き、目を覚ました。
目を開けると右目が暗く、視界が取れなかった。ふらふらと頭がバランス悪く揺れるも、そのまま川音に導かれて、私は顔を覘かせた。
水面には、右目から後頭部にまで直剣を通した、死んだ目と冴えない表情の、私によく似た顔が写っていた。手で顔を触る。水面の彼も、私とともに動いた。手で右目に埋め込んだ直剣を触る。鉄錆と脂で滑った柄の感触と、動かすと脳や右目が痛む。その痛みを無視しながら、この現実味のない光景から、柄を掴み、直剣を頭から引き抜いた。赤い血が岩に降りかかり跡となり、川にかかり、水を濁した。
痛みに倒れ伏し、もがきながら、私は直剣に引っ掛かり付いていった眼球を、左目で見て、死ねないことを悟ったのだった。