優雅な気の重いアフタヌーン
今度からは紅茶ではなく珈琲にしてほしいと言いたいが、珈琲がない非常な世界だったら私は生きていけないので、そんな残酷な事実確認は出来なかった。黙って紅茶を飲み干した後、御代わりをするか聞かれたが、もちろん否である。適当にお茶を濁して断った。紅茶だけに。
寒いことを考えながら、紅茶の片付けをするアリーヤを見ていると、ふと、こうも甲斐甲斐しくお世話をされると気分の良いものだと思う。その良い気分のまま、食器から鳴る音に耳を傾けながら、気持ちソファにぐったりと身体を預けていると、扉の向こう側から入室許可を求められた。また、私は身体を起こし、どうぞと返した。静かに扉が開かれお辞儀をした侍女が、目を伏せたまま用件を言う。
「失礼致します。
湯浴みのご用意が整いましたので、ご準備が出来ましたらお越しください」
「分かりました。それでは頂戴します」
私は出来るだけ丁寧に答え、印象を良くする。侍女が退室したのを見て、私はアリーヤに声を掛け、浴室まで案内してもらった。
服の着替えや入浴のお手伝いなど、男の夢はそこにはなく、大理石や金で出来た彫刻だけが広い浴場で、私を迎えてくれた。先にかけ湯をし、石鹸で身体を洗い清め湯船に浸かると、アリーヤが説明していた。それを実践しながら、風呂に入る文化の時代で良かったと息を漏らした。
欧州に似た文化であったから、ルネサンス期くらいの医療知識や衛生観念であったらどうしようかと本気で心配したが、どうやらそれも杞憂であったらしい。あの時代は身体を洗うと毛穴が開き、感染症や病が入ってくるから、極力水に浸かってはいけないと医学書に書かれていたとか。身体中がノミだらけで、寄生虫やノミを集めるために動物の毛皮を使った装飾品を、必ず身に着けていたとか。風呂の文化にどっぷりと浸かった私には考えられない時代であったようだ。
さてそんなことはさて置き、脱衣所に置かれた簡素なシャツを着る。そして脱衣所から出ると、まだ屋敷の構造に疎い私は、アリーヤに案内されるままに歩き、宛がわれた客室に戻った。客室に戻り寛いでいると、
「ご夕食までしばらくお待ちください。何かありましたらこちらの鈴をお鳴らし下さい」
そう言いアリーヤは一礼して出ていこうとするものだから、私はすぐさま呼び止め、疑問の消化計る。
「この鈴は揺らして鳴らせば良いのですか?」
こんなに小さいのに音は届くのかと言う言葉は飲み込んだ。実際に目の前に置かれた鈴は、銀製で出来た文字が規律を持って刻印された、大して音の鳴らなそうなものであったからだ。
「そちら魔法具になっております。その呼び鈴に対応した、こちらの鈴が共鳴して鳴りますので、ご安心くださいませ」
魔法具なんてものがあるのかと、純粋に驚いた。魔法具と言うことは、その名の通り魔法が関与した道具だと言うことが分かる。魔法があるのかとロマンを感じながらも、アリーヤにありがとうと言い、退室してもらった。
魔法良いなと思いながら、ソファに沈み込む。誰にでも使える場合と、選ばれた者だけが使える場合があるが、出来るなら前者の方が良いなと考える。誰にでも出来るものであるならば、それは学問を学ぶこととそう変わりはないからだ。努力をすれば結果が表れるものほど良いものはない。努力しても結果や先が見えないものは、マゾと天才が目指すところである。私には無理だ。それに私も学ぶと言うことはそう嫌いではない。興味のあるものに限ると枕詞が付くが。
「何か疲れたな」
そう呟き、舟を漕ぎながら夕食まで眠るのだった。
夕日が差す頃、私は揺り起こされているのに気が付き、目が覚めた。私の右肩を小さく揺するアリーヤを視界に入れると、それ以上に赤く染まる部屋に一瞬目が焼かれるが、それも徐々に慣れていき収まった。そうやって目の開閉をしていると、アリーヤはテーブルの上に置かれた黒いスーツを指し、
「そろそろお食事の時間となりますので、こちらにお召し替えください。私は外におりますので、何かありましたらお呼びください」
そう言いさっさと出ていくアリーヤの後姿を見て、寝起きで働かない頭を、無理にでも稼働させる。そう言えば、ソフィが歓待の準備をしている最中だと言っていた気がする。そして今着替えろと言われたと言うことは、食事に呼ばれた客人として相応しい格好に着替えろと言うことだろう。
上等なレストランでもないのだから、ドレスコードを用意するのは止めていただけないかと思うが、それ以前に私が前の世界で覚えたマナーは役に立つのだろうかと、そちらの恐怖に塗り潰された。しかし、そうも言っていられない。これからマナーに味覚を塗り潰された、気の重い食事が始まるのだから。
吐き出しそうになる溜息を飲み込み、スーツを手に取り見る。次にドレスシャツとスラックスを止める革のショルダーベルトを手に取る。そして結婚式でよく見る深い藍色をしたアスコットタイを摘まみ上げる。
スーツやまあショルダーベルトまでなら着ることは出来る。顎に手を当てながら、アスコットタイを付けたことは一度もないため、どうやって結べばいいかが分からないと悩む。そこで先ほどの鈴を鳴らして、アリーヤを呼べばいいのかと考え、先にシャツを着てから鈴を鳴らしアリーヤを呼んだ。
アリーヤはノックをしてからお呼びですかと言いながら入室してきたので、私は恥を忍び素直に答えた。
「アスコットタイを付けることが出来ないので、お願い出来ますか?」
「畏まりました。では本日は一番主流のブラインドフォールドノットに致しましょう」
そう言い、アスコットタイをくるくると回し、結び目を隠すように剣が隠す。リングで止める結び方はよく目にするが、これはあまり見たことがない。そもそもネクタイも一番基本の結び方しか知らないのだから、スーツのお洒落に関しては、とんと無知であった。
それにしても私の胸ほど背丈しかない女性に、こうアスコットタイを結んでもらうのも中々に良い体験である。この近さで静々と動く指を眺めているのも、どこか良い気分であった。アリーヤはアスコットタイを仕上げると、こちらを見上げてきたため視線がかち合った。私は多分上機嫌な顔をしていただろうが、それを見ても何とも言わずに、
「御手をお上げください」
とだけ言い、ジャケットを手に取っていた。それを見て、着せてくれるのかと思い、またもや人を従えるこの暗い優越感に浸っていると、それもすぐ終わる。そして姿見まで連れて行かれ、これで良いかと聞かれたので肯定すると、最後のチェックと言わんばかりに全身を細かく見られた。
「では本日は銀糸の間にて準備が出来ておりますので、ご同行ください」
そのアリーヤの言葉に従った。私は鏡に映っていた紳士然とした行動を頭の中に思い浮かべながら、この嫌な緊張を解すのであった。